景行天皇紀にも多くの物事が語られています。何回かに分けてまとめます(たぶん上・中・下の3回)。今回は誕生から、治世4年の宮の建造までを見ていきます。
*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。
景行天皇
・大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
*書紀設定では第12代天皇
誕生年:317年
即位年:343年(27歳)
*書紀設定では西暦71年
崩御年:366年(50歳)
*書紀設定では130年(106歳)
父:垂仁天皇(すいにんてんのう)
母:日葉洲(酢)媛命(ひばすひめのみこと)
【317年:崇神60年:誕生】
垂仁天皇と日葉洲媛命の間に、垂仁天皇の第三子として生まれる。日葉洲媛命は丹波道主王(たにわのみちぬしのおおきみ)の女(むすめ)である。
*この第三子というのは、長兄が垂仁天皇と最初の皇后である狭穂姫(さほひめ)との間に生まれた誉津別命(ほむつわけのみこと)、第二子が日葉洲媛命との間の五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)であるという設定になっているからです。しかし、復元した紀年から求められる誉津別命の誕生年は318年となりますから、実際には景行天皇は垂仁天皇の第二子だったと考えられます。日本書紀の設定では、狭穂彦の乱により狭穂姫が自死した(垂仁5年)10年も後の垂仁15年に日葉洲媛命を後宮に入れ皇后とされたということになっていますから、そうせざるを得なかったのでしょう。しかし、復元紀年ではその間はわずか1年4か月です。父が四道将軍のひとりである丹波道主王であることを考えると、日葉洲媛命は早く(即位以前)から垂仁天皇の妃となり、大足彦命(景行天皇)をもうけていたのだと思います。
■景行天皇の系譜
【333年:垂仁30年:17歳】
1月6日、父の垂仁天皇が五十瓊敷命と大足彦尊に「お前たちそれぞれに欲しいものを言ってみよ」と言われる。五十瓊敷命は弓矢が欲しいと言われ、大足彦尊は皇位が欲しいと言われた。そこで、天皇はそれぞれの望み通り、五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には「お前は必ずわが位を継げ」と言われた。
*ここで、大足彦尊の将来の即位が決定付けられます。
【334年:垂仁32年:18歳】
八坂入姫命(やさかのいりびめのみこと)との間に稚足彦天皇(後の成務天皇)が誕生する。
*成務天皇の誕生年については、成務天皇か武内宿禰(成務天皇と同日生まれとされています)の年代記を記す時に詳細を書きますが、「景行46年に24歳で立太子」という記事から推定した結果です。
【337年:垂仁37年:21歳】
1月1日、大足彦命を皇太子とされた。
*景行天皇即位前紀に「垂仁37年に皇太子となる。時に21歳」と記されていますので、それを基準に景行天皇の年齢設定が可能となっています。
【342年:垂仁99年:26歳】
2月、父の垂仁天皇が崩御される。
*景行天皇即位前紀では垂仁天皇の崩御は2月となっていますが、垂仁天皇紀では7月1日とされています。どのような記録(原史料)があったのかは不明ですが、編纂上の混乱が見られます。
【343年《即位》:景行元年:27歳】
7月11日に即位される。
【344年:景行2年:28歳】
3月3日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなひのおおいらつめ)を皇后とする。皇后は二人の男子を生んだ。兄は大碓皇子(おおうすのみこ)、弟は小碓皇子(おうすのみこ)で、二人は双子であった。天皇はこれを怪しがって臼に向かって叫んだので、二人の皇子を大碓・小碓と名付けた。小碓尊は別名を日本童男(やまとおぐな)あるいは日本武尊(やまとたけるのみこと)といい、幼いときから雄々しい性格だった。
*ここに日本武尊の誕生譚がつづられます。書紀設定では、日本武尊は景行43年に30歳で薨去とされています。それに準じると誕生年は景行14年となります。この年の12年後です。少し間が空き過ぎの感があり、ここでも書紀設定自体にやや混乱が見られるように思います。原日本紀年表では328年生まれとなり、さらに私は日本武尊と誉津別命の同一人物説をとっているので、318年に生まれ357年(書紀設定で景行43年)に40歳で薨去となります。この40歳が紀年延長操作により150歳近くの異常な長命(崇神62年生まれ・景行43年崩御)となるため、誉津別命と日本武尊に分けられたのだと考えています。我田引水が過ぎるかもしれませんが、書紀設定において無理のない景行4年誕生と仮定すれば薨去は40歳となります。日本武尊が40歳で薨去された事実が、この辺りにも痕跡を残しているのではないかと思います。そして、ここで最も大事なことは、紀年復元すると日本武尊が景行天皇の皇子ではありえず(景行天皇12歳での誕生となります)、景行天皇の弟であったと推測できることです。
【345年:景行3年:29歳】
2月1日、紀伊国に巡幸され、諸々の神祇を祭ろうとされたが、占いの結果がよくなかったので中止された。屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わして祭らせた。武雄心命は9年間、阿備の柏原に住まれ、紀直(きのあたい)の先祖である菟道彦(うじひこ)の女影媛を娶って武内宿禰(たけのうちのすくね)を生ませた。
*ここでは、超人的な長寿の英雄である武内宿禰の誕生が語られます。私は原日本紀年表にしたがって、武内宿禰は成務天皇と同じ334年誕生だと考えています。書紀でこの年次付近に設定されているのは、やはり紀年延長による説話の整合性などを考えてのことだと思います。それは、武内宿禰の年代記の時に詳しく説明したいと思います。
【346年:景行4年:30歳】
2月11日、美濃に行き、八坂入彦皇子(やさかのいりびこのみこ)の女で容姿端麗な弟媛(おとひめ)がいることを聞き、召された。しかし、弟媛は交接を好まず、姉の八坂入媛(やさかのいりびめ)を後宮に召しいれるように請う。天皇はそれを聞き入れて八坂入媛を妃とする。七男六女を生む。第一を稚足彦天皇(成務天皇)、第二を五百城入彦皇子(いおきいりひこのみこ)、第三を忍之別皇子(おしのわけのみこ)という(以下、子の列挙略)。またの妃は水歯郎媛(みずはのいらつめ)、次の妃は五十河媛(いかわひめ)、次の妃は高田媛(たかたひめ)、次の妃は日向髪長大田根(ひむかのかみながおおたね)、次の妃は襲武媛(そのたけひめ)。天皇の皇子・皇女は全部で八十人となる。日本武尊、稚足彦天皇、五百城入彦皇子を除いて、七十あまりの御子はみなそれぞれ国や郡に封ぜられた。いま諸国の別(わけ)というのは別王(わけのみこ)の子孫である。
この月(2月)、美濃の国造の神骨(かむぼね)の女で兄遠子(えとおこ)、弟遠子(おととおこ)という美人の姉妹がいると聞いて大唯命を遣わすが、大唯命が女と通じて復命しなかったので、お恨みになった。
11月1日、美濃から戻り、纒向(まきむく)に日代宮(ひしろのみや)を造る。
*景行天皇の皇子・皇女は全部で80人いらっしゃり、全国の国郡に封じられたと記されます。この頃にヤマト王権の権威が全国に及んだということ(日本書紀がそのように設定しているということ)になります。
*ここで纒向日代宮を造られます。父の垂仁天皇の宮も纒向(珠城宮(たまきのみや))にありました。このふたつの宮については伝承地はありますが、宮跡は発見されていません。纒向地区はいわゆる「邪馬台国」のあった場所として3世紀の存在ばかりが大きくクローズアップされていますが、珠城宮・日代宮が発掘され、その年代が分析されるのが待たれます。
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(参考文献)
坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波文庫
宇治谷孟著『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
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