日本武尊(上):318年誕生~355年熊襲討伐の報告/原日本紀の年代記〈10〉 | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

古代日本の伝説的人気ヒーローであるヤマトタケルの人生を復元してみたいと思います。

*「原日本紀の年代記」は本ブログで独自に紀年復元した年代観にもとづいています。

 

日本武尊=誉津別命(ほむつわけのみこと)

*原日本紀仮説にもとづく考察により、ふたりの同一人物説を採用しました。書紀は前半生を誉津別命、後半生を日本武尊として描いていると考えます。

 

誕生年:318年

*書紀設定では紀元前36年(誉津別命)/西暦84年(日本武尊:崩御年および崩御時年齢より算出)

 

崩御年:357年(40歳)

*書紀設定では113年(30歳:日本武尊)

 

父:垂仁天皇(誉津別命)

母:狭穂姫命(さほひめのみこと)(誉津別命)

*書紀の日本武尊は、父:景行天皇、母:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)とされます。播磨稲日大郎姫の存在をどう考えるかは今後の課題です。

 

 

【318年:崇神62年:誕生】

垂仁天皇と垂仁天皇の最初の皇后である狭穂姫命の間に生まれる。

*書紀では、誉津別命は、同じく垂仁天皇と日葉洲媛命との間に生まれた景行天皇の兄だと記されていますが、復元紀年では景行天皇の1歳年下の弟となります。

 

【325年:垂仁5年:8歳】

狭穂彦王(さほひこのみこ)の謀反に関連して狭穂姫命が自死することにより、母を亡くす。

 

【328年:垂仁23年:11歳】

9月2日、垂仁天皇が群卿に詔して、「誉津別王はあご髭がはえる30歳になっても泣いてばかりで物を言うことができないのはなぜかを考えてほしい」と言われる。

10月8日、誉津別皇子が垂仁天皇と一緒に大殿の前におられたときに、鳴鵠(くぐい)(白鳥)が空を飛んでいった。それを見て皇子は「あれは何物か」と言われる。天皇は喜んで、「誰かあの鳥を捕まえて献上せよ」と命じる。そこで、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が白鳥を追いかけ出雲まで行って捕らえる。但馬国で捕らえたと言う人もいる。

11月2日、湯河板挙が白鳥を献上し、誉津別命はそれをもてあそび、物が言えるようになる。湯河板挙に姓(かばね)を賜い、鳥取造(ととりのみやつこ)とされる。

*この誉津別命の白鳥説話は唐突で、不思議な話です。原日本紀年表においてこの328年は、357年(景行43年)に30歳で崩御された日本武尊の誕生年ということになります。日本武尊は葬られた能褒野の陵から白鳥となって飛び立ち、大和、河内を経て天にのぼられたとされます。30歳で空を飛ぶ白鳥を見て物が言えるようになった誉津別命と、30歳で白鳥になって空を飛んで天にのぼられた日本武尊が、この328年で重なるのです。私にはこれが単なる偶然とは思えませんでした。そこで、誉津別=日本武尊というひとりの人物がふたつの人格に分けられたのだと考えました。理由は、書紀の紀年延長に合わせて崇神62年誕生、景行43年崩御ということになると150歳まで生きられたことになり、どの天皇の寿命より長くなってしまうからです。

 

【342年:垂仁99年:25歳】

日本武尊と両道入姫皇女(ふたじのいりびめのひめみこ)との間に足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)(のちの仲哀天皇)が生まれる。

*仲哀天皇の誕生年は、成務天皇48年(372年)に31歳で立太子という記事から算出しています。日本武尊の子女はほかに、両道入姫皇女との間に稲依別王(いなよりわけのみこ)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)、吉備穴戸武媛(きびあなとのたけひめ)との間に武卵王(たけかいごのみこ)、十城別王(とおきわけのみこ)、弟橘媛(おとたちばなひめ)との間に稚武彦王(わかたけひこのみこ)がいます。

 

【354年:景行27年:37歳】

8月、(景行天皇に一度平定されていた)熊襲がまたそむいて、辺境を侵す。

10月13日、景行天皇の命をうけ、熊襲討伐に出発する。美濃国の弟彦公(おとひこのきみ)、石占横立(いしうらのよこたち)および尾張の田子稲置(たごのいなき)、乳近稲置(ちぢかのいなき)が随行する。

12月、熊襲の国に到着する。熊襲の取石鹿文(とろしかや)(または川上梟帥(かわかみのたける)という)がすべての親族を集めて新築の祝宴をしようとしていた。日本武尊は髪を垂らして童女の姿となり、宴会の時を伺う。剣を衣の中に隠して、川上梟帥の宴会の室に入り、女人の中にまぎれる。川上梟帥はその童女の容姿をほめて同席させ、酒を飲ませて戯れる。世が更けて人がまばらになり川上梟帥の酔いもすすむ。そこで、日本武尊は剣を取り出して川上梟帥の胸を刺す。

川上梟帥は死ぬ前に「しばらくお待ちください。あなたはどなたですか」を尋ねる。日本武尊は「私は景行天皇の子である。名前は日本童男(やまとおぐな)という」と答える。川上梟帥は「私は国中の強力者(ちからひと)です。世の人々は私の威力に勝てず、従わない者はいません。私は多くの武力(ちからひと)に遭遇してきましたが、皇子のような人はいませんでした。私は賎しい賊ですが、尊号を奉りたいと思います。お許しいただけますか」と言う。日本武尊は「許そう」と言われる。そこで、「これより皇子を名付けて日本武皇子(やまとたけるのみこ)と申し上げましょう」と言う。その言葉が終わると、日本武尊は川上梟帥の胸を刺して殺された。これが、日本武尊という尊称の由来である。

そして、弟彦らを遣わして、その仲間をことごとく斬り、助かった者は誰もいなかった。

海路で倭(やまと)に向かうが、吉備で穴海(あなのうみ)を渡られたとき、そこに悪い神がいたので殺す。また、難波に至って柏済(かしわのわたり)の悪い神も殺す。

*最後の、吉備と難波で悪い神を退治する話ですが、川上梟帥を誅殺するのが景行27年12月で、熊襲平定の報告をするのが翌28年2月ですから、実際に退治したのは28年1月のことだったかもしれません。

 

【355年:景行28年:38歳】

2月1日、日本武尊は熊襲を平定した状況を、

「私は天皇の神霊(みたまのふゆ:霊力)によって、挙兵して熊襲の首領を誅殺し、その国を平定しました。それにより西の国は鎮まり、人々は平穏になりました。ただ、吉備の穴済(あなのわたり)の神と難波の柏済の神だけは、人に害を与える悪意を持って道行く人を苦しめ、悪人の巣窟となっていました。それで、それらの悪い神を殺して水陸の道を開きました」

と奏上する。

天皇は日本武尊の功績を褒め、特に愛された。

 

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