古墳時代の幕開けを告げる古墳とされることも多い箸墓古墳(はしはかこふん)ですが、その被葬者はまだ謎のままです。
【箸墓古墳】(奈良県桜井市)
余談ですが、いきなり前方部4段・後円部5段築成という前方後円墳の完成形のような墳丘が出現したと考えるのは、私としてはいまいち納得できないところではあります……。
【復元図】※福辻淳『箸墓古墳へのアプローチ―調査成果からみた「卑弥呼の墓」―』桜井市纒向学研究センター東京フォーラムVII「卑弥呼」発見!資料集2018より引用
被葬者が特定されない最大の原因は、宮内庁が倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の「大市墓」として管理していて、詳細な発掘調査ができないことです。築造年代が確定されない現状では仕方がないと言えます。
※宮内庁の治定については、『日本書紀』が「倭迹迹日百襲姫命が薨去されて大市(おおち)に箸墓を造った」と記しますから妥当だと思います。ただし、その時に造られた「箸墓」が現在私たちが見る「箸墓古墳」かどうかは断定できません。
それでも墳丘保全などに伴う小規模な調査などによってある程度のことはわかってきています。
そのうえで提示されている想定築造年代もあります。
まず、国立歴史民俗博物館(歴博)は3世紀半ば(西暦240〜260年ごろ)という見解を示されています。
また、橿原考古学研究所(橿考研)は3世紀後半から4世紀初頭(280〜300年を中心にある程度の誤差を見込んだ時期)と推定されているようです。
そして、これは私の主観も入りますが、文献学では4世紀に入ってからの築造と考えられる方が多いように思います。
このように幅のある築造年代と、魏志倭人伝や記紀に対する先生方個別の年代観を組み合わせる形で、被葬者に関する説が語られています。
主なものは、卑弥呼説、壹与説、倭迹迹日百襲姫説でしょうが、これには卑弥呼が倭迹迹日百襲姫であるという同一人物説も含まれます。
ほかの説としては、崩御年が258年とも318年ともいわれている崇神天皇や、箸墓は土師墓(はじはか)が転訛したものとして土師氏の墓だとする説などがあります。
今回、私も自身の復元紀年による3世紀の年代観および世界観から、箸墓古墳の被葬者を推定してみました。築造年代がわかりませんから、3世紀半ばから4世紀初頭まで、それぞれの年代に応じた候補者を挙げる形となりました。
結果だけ記しますと次のようになります。
●3世紀半ば(歴博の想定する240年から260年)とみると―――
素戔嗚尊(すさのおのみこと)あるいは妻の奇稲田姫(くしいなだひめ)
●260年代前半とみると―――
倭迹迹日百襲姫命
●265年頃から298年(饒速日命の帰順)とみると―――
大背飯三熊之大人(おおせびみくまのうし)(饒速日命(にぎはやひのみこと))
●298年や301年の初代天皇の即位以降とみると―――
事代主神(ことしろぬしのかみ)
初代天皇(彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)=神武天皇=崇神天皇)
豊玉姫(媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ))※行燈山古墳が初代天皇陵の場合
大己貴神(おおあなむちのかみ)※ただし没後かなり後世の築造となる
箸墓古墳の後円部から吉備の埴輪が見つかっていますから、被葬者を吉備と密接なつながりを持った人物と考えれば、上記候補者のうち、大背飯三熊之大人(饒速日命)の可能性は一歩後退するのではないかと思っています。
私の考える3世紀の西日本勢力図の説明なども含めて、詳細はYouTube古代史新設チャンネル【古墳の界隈】でまとめていますので、よろしければご覧ください。
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