卑弥呼はなぜ『日本書紀』に登場しないのか? | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 『日本書紀』は紀元前660年の神武天皇即位から697年の持統天皇の譲位までを編年体で記しています。

 しかし、3世紀前半に日本のどこかに確実にいたとされる「卑弥呼」には言及していません。それはなぜなのでしょうか。

 

 日本書紀に卑弥呼が登場しない理由については、『日本書紀』の前段階として紀年延長操作が施されていない『原日本紀』が編纂されていたと考えると合理的に理解できます。

 それを順序立てて示しますと―――

 

 

正しい年代観でまとめられた『原日本紀』では、初代天皇の即位は301年となります(拙見)。

 

すると、卑弥呼がいた200年代前半はそれ以前となります。すなわち、天皇の時代以前=神代の時代です。

 

『原日本紀』は神代の時代の話として、卑弥呼を描きました。もちろん「卑弥呼」という名前ではありません。「卑弥呼」は中国側の記録に残る女王の名前だからです。その名前は「日孁(ひるめ)」だったのでしょうか。記された名前は「大日孁貴(おおひるめのむち)」別名「天照大神(あまてらすおおみかみ)」でした。

 

大日孁貴」そして治めていた国が「高天原」という名称であれば、中国側がそれをどのように解釈しようと、中国の魏に遣使朝貢した「卑弥呼」「邪馬台国」という不都合な真実を明確に認めたことにはなりません。

 

『原日本紀』は天武天皇の命じた「後世に伝える正しい歴史」としていったん完成します。

 

しかし、天武天皇の崩御などの原因で『原日本紀』はそのまま進上されることはなく、編纂方針の変更が命じられます。その最大のものが「紀年延長」でした。

 

神武天皇の即位年を紀元前660年とする紀年延長が施されると、必然的に200年代前半は天皇の時代となってきます。

 

中国側(唐)に対して、『日本書紀』がまったくの創作ではないこと、なおかつそこに記されている皇統の正統性を担保するためには、中国の史書『三国志』「魏志倭人伝」に詳細な人物像が描かれている「卑弥呼」に触れざるを得ません。

 

そこで創出されたのが、卑弥呼をモデルにしながらも、魏への朝貢を隠ぺいした「神功皇后」という存在でした。巫女的な特質を持ち、九州を舞台に朝鮮半島と交渉し、南の熊襲(狗奴国)を平らげながら、天皇には即位しなかった女帝として描かれました。(神功皇后摂政紀の魏への朝貢記事は後世の挿入だと思われます)

 

一方、本当の「卑弥呼」=「天照大神」はと言いますと、神代の時代ごと紀元前660年以前に移動させられてしまいます。

 

そして、『日本書紀』が完成し、撰上された。

 

以上のような経緯を経て、卑弥呼は太古の神(天照大神)となり、本来卑弥呼がいた時代に神功皇后が創作されたのだと考えています。

 

 

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