「軽蔑」~欲望という名の眼差し | ネコ人間のつぶやき

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 今回はジャン=リュック・ゴダールがある夫婦の愛の終焉を描く「軽蔑」(1963年)をご紹介します。

 

"Brigitte Bardot @ Le Mépris (Contempt) was released in France on 20 December 1963" Photo by Denis Denis

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 主人公は脚本家ポール(ミシェッル・ピコリ)と妻カミーユ(ブリジッド・バルドー)。

 

 ある日、アメリカ人映画プロデューサーのジェレミー(ジャック・パランス)から脚本のリライトを依頼されたポール。

 

 ジェレミーは、フリッツ・ラングが監督する「オデュッセイア」が「難解すぎる」と気に入らないのだ。

 

 ポールがアパートのローン返済があり金に困っているのもジェレミーは見通して大金を提示してきた。

 

 ジェレミーは美人のカミーユに端から執心。

 

 でもポールは何も言わないし、カミーユが助けてほしいという表情をしているのにスルーする。

 

 そのくせポールは、後でカミーユの不貞を疑い彼女を傷つける。

 

 ジェレミーは映画の製作にかこつけてロケ地カプリ島の別荘にカミーユを誘う。…

 

 

 まずホメロスの戯曲「オデュッセイア」のあらすじをお話します。

 

…トロイア戦争で木馬作戦を計画して英雄となったオデュッセウス(英語名 ユリシーズ)が運命に翻弄されて10年間も帰還が叶わない。

 

 その間、オデュッセウスの美しき妃ペネロペに多くの男たちが次々と求婚する。


 それを断るために「夫の大弓で12の鉄斧を貫いた者と結婚する」という無理難題を結婚の条件にしたペネロペ。

 

 男たちがその課題に失敗する中、一人の浮浪者が現れる。

 

 皆が浮浪者をあざ笑うが、浮浪者は難題をあっさりクリアする。

 

 見た目がすっかり変わっていたが、浮浪者は各地を放浪してきた夫オデュッセウスだったのだ。


 感動の再会を果たしたオデュッセウスとペネロペ。


 オデュッセウスは妻を誘惑した者たちを粛正する。…


 

 

 「オデュッセイア」は、オデュッセウスと妻ペネロペの真の愛の物語です。

 

 そのオリジナルの「オデュッセイア」をジェレミーが『オデュッセウスとペネロペには愛などなかったから彼は母国へ10年間も帰ろうとしなかったんだ』と違う解釈をし、それにポールがヨイショして同調するのです。


 そんなポールに怒り、軽蔑するカミーユ。

 

 逆にカミーユはオリジナルを追求しようとしたフリッツ・ラング監督(ラング自身が本人役で出演)をリスペクトするんです。

 

 ラングは知的なだけでなく「オデュッセイア」にも愛というものにも適格な視点を持っている男として描かれています。

 

 ポールとの対比ですね。

 

 尊敬は愛と連続体。その逆は軽蔑です。

 

 元々は推理小説家のポール。その頃は金がなかったけどカミーユの愛を得ていました。

 

 映画界に入り脚本家となったポールは、金を手にしたけども、カミーユの愛を失うというのは皮肉です。


 

 ジェレミーに「僕は戯曲を書きたいんだ。でも今は他人のため、カネのために書いている」。

 

 これはゴダール自身の悩みでしょうか。


 だから彼は資金には苦労するけど芸術性は優先出来るインデペンデント映画という方法を選択をしたわけで。


 ゴダールは妻のアンナ・カリーナとの結婚生活の終焉を本作に投影したとか。

 

 確かにポールのルックスはゴダール自身だし、ウィッグを着けたカミーユは見た目もアンナ・カリーナ。

 

 オデュッセウスとペネロペの夫婦像と改変された夫婦像がポールとカミーユの関係性との対比で描かれてゆく。

 

 一方、ジェレミーはハリウッドの象徴ですね。


 それは、芸術性は無視、暴力やらエロで集客すればよし、すべてはカネという世界。


 ジェレミーは秘書フランチェスカ(ジョルジア・モル)を物扱いする男です。


 冒頭、試写会でジェレミーがラングの映画が難解だと怒るシーンがあるんですが、その試写室に書かれた言葉がルミエール兄弟の「映画は未来なき発明品なり」。

 

 ハリウッド的商業映画には未来がない、というゴダールの軽蔑でしょう。

 

"Brigitte Bardot + Godard @ Contempt (1963)" Photo by Denis Denis

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  知的であることと賢さはイコールではありません。


 そしてインテリだけども、「バカ」である場合は意外に多い。


 とにかく、カミーユに重要な決定さえゆだねるポールはヘタレな男ですね。

 

 カミーユが「理由は死んでも言いたくない」とはそういうことです。


 愛の対義語は憎しみではなく軽蔑。


 軽蔑のさらなる先は無関心になる。


 「ちょっとした仕返し」をしたカミーユは本気でジェレミーと付き合う気はなかったような気がします。

 

 しかし、意外なラストでした。


 それが意味するところは、ゴダールの内でアンナ・カリーナとの関係が完全に終わった、ということでしょう。


 にしても、ゴダールのアンナ・カリーナへの「仕返し」だとしたら、ちょっと意地悪かな。



 冒頭に「映画とは欲望を視覚化したもの」という言葉が引用されます。


 この映画はまさにこの言葉通りだ、と。


 オープニングからカミーユを演じるブリジット・バルドーのコケティッシュな魅力は観る者の眼差しを通して欲望を引き出す仕掛けです。


 情欲、金銭欲、名誉欲といった欲望がキャラクターとストーリーを通じて視覚的に描かれる「軽蔑」。


 カネと情欲に動くジェレミー、揺れるポール。


 愛を求め、失い、怒り、軽蔑するカミーユ。


 「オデュッセイア」も、ペネロペの美貌に情欲し、彼女の資産目当てにたくさんの男たちが言い寄ったのです。


 そしてまたその欲望が彼らを滅ぼす。


 欲望がそのひとを動かし、ひとは蒔いた種の結果を刈り取る。


 良い種を蒔いた者は良い実を刈り取り、悪い種を蒔いた者は悪い実を刈り取る。


 愛の終焉にもそんなことを思います。