宝塚花組「銀ちゃんの恋」(KAAT公演)感想1:水美舞斗さんの銀ちゃんの絶妙さ

ドラマシティ初日への祝福もこめて、今さらですが、KAAT公演『銀ちゃんの恋』、主に水美舞斗さん扮する銀ちゃんについて感想を。かなり長いです。

いやー大いに心が満たされた公演でした。
やはり『蒲田行進曲』のストーリーは面白い!

秩序やモラルが崩壊したハチャメチャさの中にこそ、真の愛や人間としての真っ当な魂が浮き立ってくる。その様が鮮烈で、妙に笑えて、たまらなく泣ける。そして、そこには不完全な人間という生き物の愛おしさが溢れている。

今回、そんなつかこうへい作品の魅力を全身で浴びた気がします。
しかし、そう感じられたのも、やはり出演者の方々の好演があったればこそ。

奇跡的に二度観劇できたのですが、KAATの千秋楽では、よりリアルな感情がぶつかり合う、さらに鮮やかな舞台に進化していたことが印象的でした。千秋楽にありがちな内輪受けに走らず、あくまでも真っ当に、誰もが役の真髄に近づいた濃い演技をされていたことに、このカンパニーの意識の高さを感じた次第です。
大阪公演もこの方向でさらに進化され、無事完走されることを祈るばかり!

触れたい方は沢山いらっしゃるのですが、今回、最も驚かされたのは、主演・水美舞斗さん扮する倉丘銀四郎。

個人的に、これまで水美さんには、舞台での感情表現はどちらかというとストレートで、癖の強い人物を傍らで温かく見守る役どころが似合うイメージを抱いておりました。
それだけに、ぶっ壊れた過激な言動で周囲を振り回し、そのくせ繊細で、どこか屈折した一筋縄ではいかない銀ちゃんというキャラクターをどう演じられるのか、全く想像がつかなくて。それが今回、良い意味で度肝を抜かれました。

登場早々のカメラへの投げキス猛アピールや、バーで高鼾で白目をむく姿、小夏をヤスに託す場面での喜怒哀楽の凄まじさ、朋子へのデレっぷりetc.あまりに振り切った演技に、これまでの印象は見事に崩壊。
未知の水美さんをみた…というよりは、もはやそこに息づいていたのは銀ちゃんその人でした。

一方で、ただ芝居巧者なだけでは成立しないのが、倉丘銀四郎役の難しいところ。
しかし、そこは水美さんの元来の資質が遺憾なく発揮され、土方歳三のビジュアルの凛々しさと殺陣の抜群のキレ、「主役は俺だ」の押し出しの強さと華やかさ、任侠物の場面での着流しの艶っぽさと、スター性と風格も充分。

銀ちゃんという役は、大胆且つデリケートな演技力に加えて、銀幕スターとしての圧倒的な華や色気も求められるという意味で、蒲田行進曲の中で最も役者を選ぶ役なのではないかと思うのですが、水美さんにここまではまるとは。
ひたすら衝撃を受けている内に一幕が終了しておりました(笑)。

そして、破天荒さの奥に滲む悲哀やジレンマ、ヤスへの思い等、銀ちゃんの内面が炙り出される二幕。階段落ちが近付くに連れ、一幕の軽妙さから一変して、重苦しくも一本筋の通った男としての存在感に充ちてくる様も非常に印象的でした。

『蒲田行進曲』は、考えようによってはヤスの物語であるとも言える。
しかし、その物語のベースにあるのは、他ならぬ銀ちゃんの存在であり、さらに言うならば、小夏、橘、子分たちなど、多くの人物の心情も、倉丘銀四郎という強烈な男の存在を通してこそ、鮮烈に浮かび上がってくる。ということは、逆に言えば、この作品の成功は銀ちゃんが如何に銀ちゃんらしく存在しているかにかかっているとも考えられるわけで。

そういう意味で、今回、『銀ちゃんの恋』で特に印象深かったのは、水美さんが役の核心を見事に捉え、銀ちゃんその人として息づいていることによって、彼を取り巻く人間たちの生き様もより説得力を持って胸に迫り、結果的に、観る者の心の琴線に触れてくるつかさん作品独特の世界観が確実に成立していたことでした。このことを通して、この作品の主人公が銀ちゃんであることの意味に改めて気づかされた気がします。

長々と語ってしまった(笑)。

そんなわけで、水美さん、最高に素晴らしかったのですが、敢えて、今後にさらに期待させていただくとすれば、べらんめえ口調はとても板についていらしたのですが、一部、もう少し台詞が聞き取り易くなればと感じたことと、一幕終盤、ジャケットを脱ぎながらの「孤独の孤の字が見えねえのか!」の台詞のさらなるパワーアップでしょうか(笑)。とはいえ、映画の中止が決まったやりきれなさの吐露からのプロポーズの場面自体は目茶苦茶良かったので、望みすぎというものですね。

ううう。他にも感想を残しておきたい方が沢山いらっしゃるのですが、長すぎるのでこの辺で。気力があればまた自己満足で気まぐれに上げるかもしれませんが、予定は未定です。
まずはドラマシティ公演、ご無事の完走をお祈りしております。

感想2:飛龍つかささんが築かれた新たなヤス像へ)