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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 139 豊臣秀頼誕生

2023年01月29日 18時07分39秒 | 貧乏太閤記
 ここで秀吉の一族、親族を整理してみよう
秀吉の兄弟は、姉、弟、妹の四人兄弟で百姓の家の生まれだ
姉「とも」、百姓弥助と結婚したが、夫は秀吉の出世で武士に取り上げられ、三好吉房と名乗った、のちに息子秀次の家老となった
息子、秀次は秀吉に利用されて養子に出されたが武家となり、秀吉の甥の中では年長者でもあり、最期は秀吉の後継者と目されて関白に上り詰めた
次男、小吉は秀吉の養子となり小吉秀勝と呼ばれたが、去年朝鮮の巨濟島で病死した。三男は秀保と名乗り、秀吉の家臣となったが、秀吉の弟、秀長が死ぬと秀長の幼い娘と婚約して秀長の遺領大和100万石を継ぐ

秀吉の弟、小一郎も秀吉の出世で武士となり、生涯秀吉を支えた
人望があり、諸大名と秀吉の取次として、また多くの戦場にも出て秀吉の代理を十分にこなした。 大和大納言の官位も得たが1591年に病死

秀吉の妹 朝日は秀吉の政略に使われて、徳川家康の後妻として送られたが、天正18年(1590)に駿府で亡くなった。

秀吉の正妻ねね、は杉原家に生まれ、浅野家の養女となった、そして木下藤吉郎時代の秀吉と恋愛結婚した、しかし生涯、子は産まれなかった
その代わり加藤清正、福島正則、宇喜多秀家、黒田長政、小早川秀秋などを実子同様に育てた。

ねねの兄、木下家定には複数の男子があり、五男秀俊は小早川隆景の養子となり、小早川秀秋となる
三男延俊は、ねねのお気に入りであった
 ねねの妹、ややは浅野長政に嫁いだ 秀吉自体、実の男兄弟は秀長だけで
子も(成人したのは)50過ぎてできた秀頼だけである
弟、秀長にも男子が居ないので甥の秀保が養子になった。
後継ぎに苦労した秀吉である。

 3月より小西行長は明使、沈と会って講和の会談を開催した
そして日本と明は、互いの主張を持ったまま停戦状態に入った
だが頭越しに結ばれた朝鮮はこれを不服として各地で、日本軍と戦闘を行っただが6月に晋州城を日本軍が占領すると、南海岸沿いの陸地はほとんど日本が制圧した
そして講和会談によって明軍は遼東以北へ、日本軍は尚州以南へ引き揚げて
平壌、漢城を朝鮮王に返す準備ができた
だが疑心暗鬼の朝鮮王宣祖は、いまだに義州から平壌に移ったばかりである

  一方で朝鮮の首都、漢城でさえ日本軍は飢えと寒さと風土病に苦しめられていたのだが、南下したおかげで食糧事情も回復し、季節もあるが寒さも緩和された
秀吉は、朝鮮の使者が名護屋で秀吉にひざまずいたことで、大明国皇帝の万歴帝が、秀吉の威を恐れて降伏したと理解して大満足であった
(実際は明の万暦帝(まんれきてい)の知らぬところで、小西と沈と遼東副将がでっち上げた使者である。)
 秀吉は明使に「ゆっくりと京、大坂を見物していくがよい」と自ら黄金の茶室で茶をふるまったり、自慢できる場所を案内した
他にも諸大名にかわるがわる接待させたのであった。
これで明国も朝鮮も意のままになったと考えたのである。
得た朝鮮領を九州、四国の大名に与えて、宇喜多秀家を朝鮮総督として釜山に置くつもりである、そうすれば空いた九州、四国を他の大名に加増できると考えたのだ。
「いずれ、明国内の要所に家臣を配置して納税させ、天竺、ルソンなどの制圧の足掛かりにする、そのときには朝鮮、明国の兵を先鋒に攻め込む」というシナリオを描いていたのかもしれない。
いずれにしろ、秀吉の次はスペインとの戦(相手の出方では交易)、ポルトガルとの交易であった。
そんな矢先
 文禄2年(1593)8月、秀吉に待望の息子が生まれた、後の豊臣秀頼、幼名を「拾い」とした、実子としては「ふじ」が産んだ秀勝、淀が産んだ鶴松(二人共、幼くして亡くなった)、それに次ぐ三人目の息子であった。
秀吉の対外戦略は一気に消し飛んだ、急ぎ大坂に走って、伏見城から淀殿と拾いを大坂城に入れた。
「渡海軍は5万ほど残して各所の警備に充て、あとは帰国させよ」と三成に命じた、また人質の二人の王子を漢城に帰すよう命じた。
息子が生まれた秀吉にとって、もう戦のことを考える余裕は無くなっていた
それほどに大喜びしたのであった
伊達、宇喜多、上杉、織田秀信勢、長谷川など多くの大名衆に加えて、石田、大谷、増田ら奉行衆も帰国、その後からも毛利輝元、小早川隆景ら中国勢も帰国した
一方で加藤、小西、島津などの九州勢はそのまま朝鮮に残った
これは秀吉が九州大名に、朝鮮を分け与えるつもりだったのではないだろうか
だが、それさえ確かな決定ではなく、揺れ動く秀吉の心は朝令暮改を繰り返すことになり、三成や小西をはじめ、渡海軍の九州大名を右往左往させることになる。

 文禄2年秀頼(まだ「拾い」だが便宜上、以後秀頼とする)が生まれたことで様々なところで影響が出ることになった。
それは秀吉の甥たちがもっとも翻弄されることになる。

「淀よ、よおやった、よおやった、儂はうれしゅうてたまらぬ」
「はい、わたしも嬉しゅうございます」
「虎之助(加藤清正)が送ってくれた虎胆のおかげじゃとゆうて、朝鮮では家来どもが競って虎を捕らえて肉やら胆やら送ってくるので、いささか閉口しておる、家康や利家にも分け与えたが、余って仕方ないからもういらぬと朝鮮に伝えたのじゃよ」
「先日、下女が申すには、前田大納言様も側室に、お子が出来たともうしておりましたが」
「おおそうじゃ、前田殿も儂と似たような歳であるが、そうじゃそうじゃ、できたのじゃ、ははは、お互い達者であるかのう、いやいや虎のおかげか、ははは」
「殿下、殿下はこの先、どうお考えですか? 拾いはの立場はどうなるのですか?」
「うん? もう、先のことを思っておるのか」
「思いますとも、こう言ったら殿下は怒るかもしれませぬが、殿下と関白殿では齢が30も違いましょう、殿下が長生きされたとしても、関白殿はますます力を持っていくでしょう、それにお子たちも、拾いより年長の者がおります
親として、殿下の子である拾いより、自分の子の方が可愛いに決まっています、それを思うと拾いの将来が心配でなりません。
しかも関白殿の性は残忍であるとの噂です、拾いに万一が無いかと心配しています」
「ふうむ、そうか無理もない、無理もない、わしが何とかしよう、拾いの将来が盤石であるよう取り計らうから安心するがよい」






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