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ロビンソン・クルーソーは実在した

2020-08-22 12:07:11 | 船舶



「ロビンソン・クルーソー漂流記」という冒険小説を知らないという方は、
あまり多くないと思います。
1719年にイギリスの作家、ダニエル・デフォーが書いた本で、
たちまち世界中で爆発的な人気となったのです。
少なくとも題名くらいは、一度はきっと聞いた事があると思います。

乗っていた船が難破して、たった一人で無人島に上陸し、
そこで様々な体験をして、その後、救い出されて故郷に帰り着く。
簡単に言えばそういう物語ですね。
でも、それは単なる作り話と、みんながそう思っていました。
しかし、それは違うんです。
実はこの物語は全部本当にあった話なんです。



南米大陸チリの沖合700キロの海上に、
100キロの長さにわたり小さな島々が点在する、
ファン・フェルナンデス諸島があります。
その中で最大の島が、マス・ア・ティエラ島で、
東西の長さ20キロ。幅8キロ、最高標高915メートルの山があります。





現在は600人の島民が住んでいますが、
当時(1700年代)は全くの無人島でした。

ロビンソン・クルーソーのモデルになったのは、
イギリス人の船乗りであった、
アレクサンダー・セルカークという人物でした。

1676年に生まれた彼は23歳の時に船乗りになります。
イギリスの私掠船(国家公認の海賊船)の乗組員でした。

私掠船というのは16世紀、イギリスのエリザベス一世により考え出されたもので、
当時、イギリスの敵対国であったスペインの商船を襲い、
積み荷の財宝を略奪する任務を持たされた船で、
奪った財宝はイギリス国庫に入り、
一部は船長や乗組員に還元されたのです。

この時の私掠船は2隻で船団を組んでいました。
セント・ジョージ号と、シンク・ポーズ号。
船団長はセント・ジョージ号の船長、ウィリアム・ダンピア。
シンク・ポーズ号の船長は、チャールズ・ピッカリングでした。
セルカークは航海の経験からシンク・ポーズ号の航海長を任されていました。

ところが航海の最中に船長のピッカリングが急死してしまいます。
そして、彼に代わって副船長であった、
トーマス・ストラドリングが船長を務める事になります。
ところがピッカリングの下では大人しくしていたストラドリングは、
船長になった途端に猛烈な暴君ぶりを発揮し出したのです。

航海長のセルカークはもともと正義感が強く気の強い性格でしたが、
たちまち新任の船長との間には不和が生じる事となりました。
それどころかストラドリングは船団長の指揮にも異議を唱え、
遂に二人の間は完全に決裂し、2隻の船は別行動を摂る事になります。

ストラドリングの暴君ぶりは船員の反感を買いますが、
誰一人それに反抗する事はできません。
ただ一人、セルカークだけが反抗していたのでした。

船は途中、食料・水・薪などを補給する必要に迫られ、
フェルナンデス諸島の、マス・ア・ティエラ島に立ち寄ります。
この無人島には野菜、果物、アザラシ、鳥などが豊富で、
飲料水や薪なども大量に採取できたのです。
シンク・ポーズ号は島に数日間滞在しましたが、
いざ出発の時になって、船長は邪魔者であるセルカークを、
島に置き去りにするという手段に出たのです。
1704年10月の事でした。

置き去りにされたセルカークには絶望しかありませんでした。
しかし、彼の為に多少の物は置いていったのでした。
多少の衣類・マットレス・タバコ・斧・ナイフ・湯沸かし道具・
少しの大工道具・銃一丁と弾丸・などでした。
島には飲料水は豊富ですが、食料は豊富とまではいきませんでした。

セルカークは何としてもイギリスに帰りたいと願うのですが、
イギリスの私掠船に痛めつけられていた、
スペイン・ポルトガル・フランスなどの船が島にやって来ても、
救いを頼めないのです。
下手をすると殺されてしまう恐れがあります。
つまりセルカークはイギリス船だけが島に来る事を待たなければならないのです。

彼は海岸に仮設の家を建て、
そこから2キロ、高さ565メートルの山に毎日行っては、
島に近づく船を見張っていました。

1709年2月12日。
遂に彼は島にやって来る船を見ました。
船尾に掲げられた国旗は紛れもなくイギリス国旗でした。
セルカークは遂に助かったのです。
島に上陸した船員たちは、
目の前に現れた二本足で歩く動物を見て度肝を抜かれました。

猿とも野獣ともつかないその動物はよく見ると人間みたいです。
衣類らしき物はまとっていますが、髪は伸び放題、日焼で顔は真っ黒、足は裸足。
そして英語らしき言葉を話すのですが、
誰一人その言葉を理解できなかったそうです。
それもそうでしょう、彼が言葉を話したのは4年4か月ぶりだったのですから。
「アイ」と「ヘルプミー」以外は全然わからかったそうです。

島から救い出されたセルカークは、その船(デューク号)で航海士として働き、
それから2年8か月後の、
1711年10月に再びイギリスの土を踏む事ができました。
セルカークは35歳になっていました。

デューク号の船長だったウッズ・ロジャースが、
4年4か月の島での暮らしを事細かく記録し、
その記録が作家ダニエル・デュフォーの目に止まり、
それから8年後に「ロビンソン・クルーソー漂流記」として、
世界的な不朽の名作となったのです。

セルカークは再び海の世界の人となり、
イギリス海軍のフリゲート艦「ウエイマス号」で、
艦長に次ぐ高い地位である主席航海士になります。
艦が西アフリカ沖を航行中に、
当時、西アフリカ方面で蔓延していた伝染病にかかり、
1721年12月、彼は病死しました。
享年44歳だったそうです。












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