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美しき日本の重巡洋艦

2022-07-01 18:15:03 | 軍艦
日本には18隻の重巡洋艦がありました。
(重)があるなら(軽)も在るのかというと在りました。
(重)と(軽)との違いは主砲口径の差でした。
ワシントン軍縮条約の取り決めで、1万トン以内。
8インチ(20,3センチ)砲なら重巡洋艦。
6インチ(15,5センチ)砲なら軽巡洋艦という、極めて漠然とした枠でした。

つまり船体は大きく重くても6インチ砲搭載なら軽巡洋艦。
船体は小さく軽くても、1門でも8インチ砲を搭載していれば重巡洋艦となるのです。
しかし、実際にそんな事は起こらず、
各国ともみな枠内で最も優秀な巡洋艦を造ろうとしのぎを削ったのです。

そういった中で日本でもワシントン条約下の重巡洋艦を造る事になります。
その1番艦は、「古鷹」と呼ばれた艦でした。
ちなみに重巡洋艦の艦名は(山の名前)から命名する事になっています。
そして軽巡洋艦は(川の名前)からでした。



古鷹の設計にあたったのは、後に天才とまで言われた鬼才、平賀譲大佐でした。
平賀譲は後の日本軍艦の設計をリードし、戦艦大和までその影響力を残した天才でした。
後に東大総長、海軍中将へと地位を上げて行きましたが、
彼は自説を曲げずに「平賀ゆずる」ではなく「平賀ゆずらず」と海軍から陰口を叩かれたりしました。

古鷹はアメリカの重巡洋艦に対抗すべく設計したのですが、
僅か7000トンの船体に8インチ砲6門を乗せるという、
各国から見れば「日本は手品でもやったのか?」と疑わせる見事な出来栄えでした。



手品の仕組みはこうでした。
甲板の鉄板を前から後まで波型にうねらせて、一枚通しの鉄板にする事で、
軽量化と共に強度までを確保する事で完成させたのです。
外国の重巡洋艦は甲板の高度差の高い部分と、低い部分を完全に分けて、
縦に仕切り、甲板は2枚の鉄板で造ったので、重量がある割に強度に劣ったのです。
更に6門の8インチ砲は共に単装砲で、前部3門と後部3門に分け、
3門の主砲の砲弾を機械式と手動式とを組み合わせ、軽量化にしたのです。
古鷹2番艦の加古は山ではなく川の名前が付いていますが、
その当時の様々な要因があって、本来は軽巡洋艦となる筈だった加古は、
古鷹と同型艦の重巡洋艦「加古」になりました。

「古鷹」型3番艦、4番館はそれぞれ「青葉」「衣笠」でしたが、
海軍は砲弾を手動でするのを嫌い全自動式の、単装ではなく連装に変更したのです。



その為、「青葉」は明らかに「古鷹」とは異なった艦形になった為に、
「古鷹」型3番艦ではなく「青葉」型となりました。
「青葉」型、2番艦には「衣笠」があります。



4隻の重巡洋艦を造り上げた海軍は、更なる高性能巡洋艦を必要としていました。
「古鷹」「青葉」という実績があるのですから、その拡大型を造ればいいではないか。
しかし、それを更に上回る性能というのは、そう簡単にはいきません。
ワシントン条約があるので排水量1万トンという規定は守らなければなりません。
設計を担当したのは、やはり平賀譲でした。
平賀は海軍が要求した項目を、平賀は主砲を8門ではなく10門に変更する。
魚雷装備は持たない、航続距離を少なくする事と主張します。
そして完成したのが「妙高型」と呼ばれる重巡洋艦でした。

「妙高」は個人的に私が最も好きな重巡ですが、
その後、「足柄」「那智」「羽黒」が建造され、
2番艦「足柄」は、1937年にジョージ6世載冠記念観艦式に招待され、
イギリスへ行きました。



その時、足柄に客人として乗艦していたのが、今で言うマルチタレントの徳川無声で、
彼はその時の記録を書いています。

イギリスへ行った足柄は、その高性能と姿とが各国の列席者から驚嘆され、
「これこそ本物の軍艦だ、我々の艦は客船だ」みたいな事を言われ、
「飢えた狼」と呼ばれました。
それは高い攻撃力を載せる為に、乗組員の居住空間がとても狭くなり、
それを揶揄した言葉だとも言われています。
外国の重巡洋艦の主砲は8門ですが、足柄は10門と2門多かったのです。

世界に冠たる重巡洋艦、妙高を造り上げた海軍は、更なる高性能巡洋艦を造る事になります。
と言って、排水量には1万トンという絶対値があるのですから、
その範囲内で更なる高性能艦を造るのは本当に大変です。

海軍は妙高型の船体を基本として新設計に挑みます。
それが「高雄型」と呼ばれる4隻でした。
「高雄」「愛宕」「鳥海」「摩耶」です。
妙高型と同じ船体ですが、高雄型はバイタルパート(一番前の主砲から、
一番後ろの主砲までの距離、軍艦が最も護らなければならない重要部分)を、
1メートル短くしたのです。



そして海軍が設計部に要求したのは、4艦とも旗艦施設を備えるという事でした。
つまり旗艦というのは司令官や参謀が乗り、艦隊を指揮する施設がある事なのです。
その為には艦隊司令部100名にのぼる司令部員が乗り組んで来るのです。
その為に「妙高」と船体は同じでも艦橋が大型化されたのです。
その艦橋の大型化が「高雄型」の艦形を他の重巡には無い独特の物にしました。
それが故に日本のファンに高雄型が最も好きだという人が多いのです。

この巨大な艦橋は海軍でも散々議論され、実物大の模型を造ってテストを繰り返しました。
他国からは攻撃の的となって不利だと言われたのですが、
実際はそういった懸念は起こりませんでした。

「高雄型」を造り上げた日本にはワシントン条約による規定で、もう残りはありません。
しかし軽巡洋艦だったら、まだ35000トンが残っていました。
こういう時には知恵者が出てくるものです。
そこで8500トンの軽巡洋艦4隻を造り、
いざとなったら6インチ砲を8インチ砲に載せ換えればいいという発想が生まれたのです。



そこから生まれたのが軽巡洋艦として設計された「最上型」重巡でした。
排水量は8500トン、艦名は勿論川の名前です。
「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」
主砲は軽巡ですから6インチ砲、3連装5基、15門。
いざとなったら8インチ砲に変更するという魂胆があるので、
設計もそれを見据えたものになりました。

昭和14年にいよいよワシントン条約が切れると、
最上型は6インチ砲3連装5基15門から、連装8インチ砲10門に変換しました。
しかし、それまでの6インチ砲は実に性能が良く、関係者からは撤去を惜しまれたのです。
主砲の変換は秘密にされていましたが、
ミッドウェー海戦の際に航行不能になった「三隈」をアメリカの偵察機が航空写真に収め、
三隈が主砲を8インチ砲に変換している事を知って愕然とします。
アメリカは日本の造艦技術に改めて舌を巻き脅威を感じたのでした。



その後、修理の為に入港した「最上」を海軍は航空巡洋艦へと改造しました。
主砲の力より航空機の力を重視した結果の大改装でしたが、
その能力を発揮できないままに終わってしまいました。



ワシントン条約失効後に、日本が最後に造った重巡洋艦が「利根」と「筑摩」でした。
これも本来は軽巡洋艦として設計された艦でした。
8インチ主砲4基8門全てを前部に集中させ、
後部は偵察機といった航空機を配置する事によって攻撃力を一段と高めたのです。

日本が世界に誇った重巡洋艦18隻の内、16隻は海底に沈み、
残った2隻「青葉」と「利根」も広島の呉軍港周辺で大破着底し、
その美しい姿を消して行きました。



「青葉」の最期。



「利根」の最期。

私は日本の重巡洋艦は本当に美しいと感じます。
しかし、軽巡洋艦に美しさは感じません。
後期の軽巡洋艦になると、かなり美しくはなりましたが、
前期、特に5500トン型などは美しくないと感じます。

軍艦というのは勿論、兵器であり戦争の為の道具です。
しかし、道具も究極まで研ぎ澄ますと、それはもう芸術です。
その事は軍艦に限らず航空機、戦車などにも通じます。
「美」というのは、その目的などとは無縁に美しいのですね。

日本が世界に誇った重巡洋艦。
あれは本当に美しい芸術品だったと感じます。


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