ファチマの聖母の会・プロライフ

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誘惑されていない人はだれもいない。なぜ誘惑があるのか?

2023年02月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

誘惑されていない人はだれもいないだろう
ランパン神父様(Rampon)のお説教  
2023年2月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生さん、聖パウロは書簡において「あなたには私の恩寵で足りる」(コリント人への第二の手紙、12,9)とイエズスが聖パウロに仰せになられたと記されました。本日の書簡において天主のみ言葉を宣言するために、聖パウロが経験した多くの試練が記されています。また聖パウロが天国で受けた示現のことについても触れています。

聖アウグスティヌスをはじめ、聖トマス・アクイナスによれば、一時的に至福の天主への直観という最高の特権が与えられたと推定しています。いいかえると、この時の示現は一瞬、天主を直接に見られたという前代未聞の特権だっただろうということです。これは、国々を教える博士という召命を聖パウロが完璧に達成させるためでした。

本日の書簡にあるのは、「肉体に一つの刺」即ち一種の謎めいた誘惑を指すのですが、現代の近代主義者の間の通説はこの誘惑が聖徳に対する誘惑だとしますが、この説は最近のことで、近代になってからの意見で、古典的ではありません。
一方、教父たちは殆どそろって、肉体的な苦しみだっただろうと推定します。持病か何か、とにかくコリント人なら皆知っていたほどのことでした。なぜなら、これに関する短い暗示だけでコリント人がなんであるかわかったからです。

これはキリスト教徒の生活における重要な事実を思い起こしてくれます。この世で生きるすべての人々は誘惑を受けます。誘惑は不可避であることを見ていきますが、それよりも誘惑は有益であることを忘れてはいけません。また誘惑と戦う方法と手段は多く存在することを忘れてはいけません。

確かに、誘惑は必ずかかってきて、不可避です。これから数週間後の福音において、我らの主ご自身が誘惑を受けることになります。天主のいと深きご謙遜かな!神殿のてっぺんで、悪魔からの誘惑を受けることをお許しになったわけです。
聖パウロも多くの誘惑を受けたことがよく知られています。


またより最近では、19世紀のアルスの聖神父は一生、絶望に落ちるように誘導する大きいな誘惑を受けたことも知られています。これに勝利して、アルスの神父は最期を確たる安泰の心境で迎えられたことも知られています。


他に、幼きイエズスの聖テレジアなら、信徳に対する大きな誘惑を受け、聖アルフォンソ・デ・リゴリなら、年配になって明かされたように貞潔の徳に対して大きな誘惑をうけました。


はい、これはまぎれのない事実です。皆、聖人をはじめ、かならず誘惑を受けることになります。誘惑は不可避であることがトビア書の次の一句に要約されています。「あなたが天主に愛されているので、あなたの信仰を試すに誘惑が送られてきた」。

しかしながら、誘惑は不可避であるといっても、それぞれの人々はそれぞれに事情とその性格と聖徳によって違う誘惑を受けることを忘れてはいけません。
聖人も多くの誘惑を受けていたのですが、怠惰な生ぬるい信徒に比べたら聖人が誘惑により簡単に勝てたのです。実に、洗礼を受けても、原罪が清められても、貪欲の源は傷であるかのように残っています。これは乱れた感情のことであり、よく秩序づけられていない感情であって、悪い行いや悪い欲望へ狂う馬のように暴れだして走るようなものです。

この激情の源に抵抗しなければ、誘惑を一番生みやすい弱点となります。ですから、聖人なら悪魔から直接に誘惑されることが多いでしょう。つまり、比較的に感情・激情などが良く制御されているので、そこから生まれる誘惑はより少ないでしょう。ですから聖人なら内面から生じる誘惑よりも外から攻めてくる誘惑になりますので、外からくるときのほうが、勝ちやすいのです。
のんびりした緩んだ態度で生活した結果、欲望に通じる誘惑が多くなりますが、内面的なのでより抵抗しづらいのです。

このように、日常の作業についてさぼっている人、あるいは怠惰な人なら、誘惑に対して怠惰となります。好奇心の強過ぎる者、自分の意志の野望を犠牲と日常の節制の行いによってブレーキをかけなければ、誘惑に対しても好奇心によって引っ張られて誘惑へいきやすくなります。
また、いつも他人について小言をいい、あるいはいつも大きな声でお喋りする人なら、誘惑に対しても大きなお喋りするようなものです。このせいで最初の女性が人類史上にはじめて悪魔からの誘いに負けて罪を犯しました。

要するに誘惑は不可避ではありますが、乗り越えられないことは絶対にありません。乗り越えないときとは、我々が生ぬるいときです。

またこれらの誘惑は我々にとって非常に有益なのです。まず、霊的生活のための励みとなります。前進するための助けとなります。
誘惑がなければ、かならず、霊的な無気力に陥っていくでしょう。なんでもかんでもやりやすいと勘違いして、努力なしに天国に行けると勘違いするようになるでしょう。これは間違いです。

我らの主が仰せになるように、「天の国は暴力で競われ暴力の者がそれを奪う」(マテオ、11,12)ですから、聖徳を実践するために努力して、自分に対して暴力を発揮すべきです。誘惑はそのためにあります。
救済への道は既得権ではない、すでに持っていることではない、最期まで罪を犯すことはあり得るのでいつでも警戒すべきであるという事実を誘惑が我々に思い起こさせてくれます。

誘惑はまた、謙遜を身に着けるための道です。安全だと信じ込んでいた者が誘惑によってそうでもないことに気づくのです。心境が安泰で、ロザリオを理想的に祈っていたところ、いきなり誘惑がやってきて、ひどい思いばかりが頭に上がってくるような誘惑があります。この誘惑によって謙遜の徳を養うのです。

良き天主がこの世に我々を置いたのは富や現世的な宝物を得るためではなく、出世するためではなく、有名になるためではなく、天主は我々が永遠の命のための準備をし、功徳を得、聖徳の内に成長していくようにお望みです。
すべての聖徳の礎は謙遜です。そして誘惑のおかげで、我々が何でもない存在であることが思い起こされて、いつでも簡単におちいる惨めな存在であって、天主からの御助けを必要としていることが思い起こされます。これは謙遜徳を養うための助けとなります。

天主のみ前に我々がへりくだり、慎んで、謙遜するときに、天主のみ旨に従っています。そして正直な心で、「天主よ、あなたは居なければ私はろくでもない存在になる」と、よく天主へ祈りを捧げましょう。
また、誘惑のおかげで聖人になるための練習となります。聖人になる助けとなります。
なぜなら、誘惑がやってきたとき、天主の御力に頼るしかないからです。罪を犯しそうになる時、天主の御助けなしに誘惑を乗り越えられないのです。
ですから、誘惑に遭うとき、我々は幼い子のように父なる天主に寄りすがる姿は天主のみ旨に従っています。天主を素直に信じて御助けに素直に頼ったら、多くの恩寵をいただきます。

要するに、誘惑は、多くの聖徳が鍛えられて実践していく機会となります。これは重要な事実です。なぜなら天主のみ摂理の計画において、我々が誘惑に負けるはずがない、誘惑に負けることは計画において予定されていないのです。
誘惑に負けるとき、我々自身のせいだけです。天主から誘惑を乗り越えるためにすべて用意してくださっていたのに、我々はその恩寵を捨てて、誘惑にこたえることにしたせいで誘惑にまけるのです。われわれのせいだけです。

はい、誘惑と戦うために多くの方法と手段があります。大きく言うと二つのやり方があります。「予防」すること、そして「抵抗」することにあります。

第一に、誘惑の機会を事前に防ぎましょう。ヨブ書には次の一句があります。「この世にいる人にとって兵役である」(7,1)
はい、この世での人生は霊的な戦闘です。我々は霊的に武装化すべきです。我々は前線に送られる兵士のようなものです。前線に行く兵士は必ず武器を持って戦いにいくわけです。

霊的に鍛えないのは、たとえてみたら、今のウクライナ紛争の前線に甚平姿で観光客として歩いていくようなものです。非常に無謀なことです。霊的生活においても一緒です。霊的に鍛えなくて、準備しなくても、訓練しないのは無謀すぎます。最終的に誘惑に必ず負けるという状況を作ってしまうことです。

ですから、その訓練、予防のためにいくつかの手段があります。第一に、過信を絶対にさけましょう。何日ぶりも何か月ぶりも誘惑に負けていないからといって、これから負けないことは保証されていないのです。我々は自分自身に対して警戒しましょう。我々の傲慢に警戒しましょう。
聖フィリップ・ネリはよく天主に祈っていたのです。「天主よ、私フィリップについて警戒するようにしてください」


我らも、いつも警戒しつつ、無謀にならず、危険すぎる状況を避けましょう。
そのために罪を犯しやすい場所と機会を極力に避けましょう。

罪を犯す機会というのは、罪を犯す可能の高い事情をさします。そのような事情、機会を避けて、必要がないかぎり、わざわざ自分をそのような機会にさらすわけにはいかないのです。

もちろん、より大きな善のために一定のリスクを置かざるを得ない時はありますが、そのような急な理由がなければ、罪の機会にさらしてはいけないのです。そうすると天主の恩寵をそらす危険があります。

例えば、夕方になってからインターネットを見るようなことは危険です。そうすると、天主の恩寵を招かないようなことになります。また婚約者が二人きりで会うのも不要な危険にさらすことであり、良き天主の恩寵を招かないのです。このようなときは、自分のせいでこのような機会を作ってしまったので、誘惑に抵抗するための恩寵をあまり頂かないので、さらに危険です。ですから、罪を犯す機会を極力に避けましょう。

同時に、無駄な恐怖心を極力にも避けましょう。時には、罪を犯す過剰な恐怖があります。たとえば「いつも罪を犯していて、罪を犯す機会が多すぎて耐えられなくて、だから必ず誘惑に負けるに決まっている」というような思い込みです。それは大間違いです。誘惑を過剰に恐れてはいけません。それは天主の御助けへの信頼が薄すぎることをものがたります。恐怖の問題は無気力さを招き、やる気を麻痺させます。

誘惑に遭って、良き天主は我々にご自分の恩寵を与えることを予定しておられたのに、我々の過剰な恐怖のせいで、我らの意志などの能力を麻痺させて、何もできなくなり、誘惑を余計に増やすことになります。ですから、常に天主からの御助けと御力に大きく信頼しましょう。

また、極力に無為な時を避けましょう。ことわざが言うように「無為は悪のもと」だということです。その通りであり、さらにいうと、「無為は誘惑のもと」でもあります。考えてみると、誘惑を退けるために、単純な素直な作業、仕事を行うのがよいです。この意味でいつも忙しくやっているのはよいことです。誘惑の機会を減らします。

そして、誘惑が現れたときに、誘惑に全力で抵抗すべきです。速やかに抵抗し、剛毅に力強く抵抗し、謙遜のままに抵抗すべきです。シラ書にあるように、「蛇を避けるように罪を避けよ、それに近寄るとあなたはかまれる」(21,1-2)

誘惑がやってきたら、誘惑と一切遊んではいけません。悪魔と話してはいけません。すぐにそれをそらして、速やかに祈りを捧げて、新しい作業、別の仕事を行いましょう。しかしながら、そうしないで誘惑をじっくりと眺めて、こんど遊んだら、必ず誘惑に負けるはめになります。

要約すると、良き天主によって誘惑が許可されるのは、我々の善のためです。我々の霊的成長のためです。また良き天主は永遠で我々が誘惑を乗り越えるための恩寵を用意してくださることを知りましょう。

そして誘惑に対して予防も抵抗も相応しい対策をとっていったら、誘惑は天国のために多くの功徳を得る機会でしかならなくなります。
また天主のみ旨にいつも従っておられた聖母マリアに祈りましょう。

また聖パウロの助けを希いましょう。過信しないように守られるように。そうして、本日の祈祷を我々も祈っていきましょう。
「天主よ、自分の行うどんな行いにも頼りえないわれらのことを、御身は知り給う」。意味は、我々は自分自身について常に警戒しながら、すべてにおいて、天主にしか頼らないという意味です。つづいて、「願わくは、異邦人の博士(聖パウロ)の御保護により、我らの艱難より守り給わんことを」
このように、誘惑がやってくるたびに、天主への愛徳が増し、聖徳に成長し、聖人になる道を進める機会になるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 


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