場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

真間川、国府台、矢切りの渡し

2024-04-25 15:10:04 | 場所の記憶

 市川という地が歴史に登場するのはかなり以前のことになる。万葉時代にすでにその名があらわれ、そこを訪れる人がいたということである。
 そんな市川の地を、晩秋の、暖かい一日訪れた。
 この地は、作家の永井荷風が、戦後の一時期住んだことのある町で、荷風は、当時のありさまを随筆に詳しく書き残している。
 実を言うと、この地を訪れたのは、はじめてでない。たしか、中学生時代に、クラブの担当教師と訪ねたことがある。それと、高校時代の、これも同じクラブ活動の一環として、貝塚発掘調査でここを訪れている。いずれも半世紀ほど前の、気の遠くなる昔の記憶である。
「市川の町を歩いている時、わたしは折々、四、五十年前、電車や自動車も走ってなかった東京の町を思出すことがある。杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りにあるく男の頓狂な声---」というほどに戦後のある時期、この辺のたたずまいは、深閑としていたことが想像される。
「松杉椿のような冬樹は林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静かな停留所がある。線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙。また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬とも人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。」
 かつての畠は、すでに跡形もなくなり、今や商業地をまじえた一大住宅街になっている。そして、もう片方にあったと記されている農家もすでに一軒もない。時折、長い生垣を構えた家を見かけるが、それらは、かつて農家であった家々であろう。耕地は切り売りされ、小住宅に変貌てしまっている。
「千葉街道の道端に茂っている八幡不知の薮の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。両側の土手の草の中に野菊や露草がその時節には花を咲かせている。流の幅は二間くらいあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということは知ることができた。真間はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。---真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたり至ると、数町にわたってその堤の上の櫻が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、その櫻の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た櫻と同じくらいと思われる。---真間の町は東に行くに従って人家は少なく松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠ととがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は諏訪田(現在は須和田)とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初めて夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になる。」
 ここにあるような真間川の堤はすでになく、両岸はコンクリートで固められている。両岸には櫻はあるが、古樹と思われる櫻ではなく、近年、植えられたもののようである。
 弘法寺の岡の麓、手児奈の宮を訪ねてみた。手児奈伝説にかかわる手児奈霊堂と呼ばれる堂宇があった。伝説にまつわる井戸(乙女、手児奈が身を投げ入れたという)は そのすぐそばの亀井院という寺の境内奥に残っていた。
 弘法大師に所縁のある弘法寺は長い階段を登った丘の上にある。この高台から眺めると、荷風が描写している市川のかつて風景がそれなりに想像できる。広い境内には一茶や秋櫻子の句碑があった。なかでも仁王門が印象深かった。
 市川の地を離れて、つぎに訪れたのは国府台にある里見公園だった。江戸川べりにある城跡でもある園内には、ここで幾度か繰り返された合戦にちなむ史跡を見ることができた。国府台はかつて鴻の台と書かれていたらしく、広重の『名所江戸百景』に、高台から遠く富士を遠望する風景が描かれている。
 国府台に城が築かれたのは室町時代のことで、この城をめぐって、足利・里見と後北条両軍との間で二度の合戦がおこなわれ、五千人ほどの兵士が戦死したと伝えられている。今は明るい公園ではあるが、歴史をひも解けば、血生臭い出来事があったことが知れる。夜泣き石、里見塚、城の石垣などが残り、それを伝えている。 
 国府台を離れて、江戸川べりを歩く。広い土手を歩くのは実に気持ちいい。江戸川は、江戸時代は利根川と呼ばれていた。利根川が銚子方面に付け替えられる前は、渡良瀬川と合した利根川の下流であったのである。
 最後は、矢切の渡しを使って柴又へ出た。「矢切の渡し」といえば、伊藤左千夫の『野菊の墓』が思いだされる。
 この地の出身者でない左千夫が、なぜここを地を舞台にしたかが以前から疑問だった。ところが、その疑問に応えるような記述を最近見つけた。「左千夫はたびたび柴又の帝釈天を訪れ、江戸川を渡って松戸から市川へ出て帰ったが、矢切辺りの景色を大層気に入り、こんな所を舞台に小説を書いたら面白いだろうなと洩らしていた」という近親者の証言がそれである。また、ある研究者は「作者はこれを書くに当って、矢切村を調査研究したとも信ぜられるが、これは外来者が外から二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されている」とも推察している。
 ところで、当の『野菊の墓』のなかで、矢切の渡しは、「舟で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持ち物をカバン一つにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗するわけでもう船は来ている」と書かれていて、ここでの船は川を渡ったのでなく、川を下ったのである。誰もが船で川を渡ったと思っているがそうではないのである。
 さらに描写はつづく。「小雨のしょぼしょぼ降る渡し場に、泣きの涙も一目をはばかり、一言のことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物を言い得ないで、しょんぼりしおれた不憫な民さんのおもかげ、どうして忘れることができよう」
 「矢切渡し」の名を有名にしているのは、この小説や歌謡曲によるが、「矢切」という地名がまずもって人を引き付けているように思う。その矢切の地名の由来は、かつて国府台合戦があった時、里見軍の矢が尽きて、そのことから「矢切」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。
タイトル写真提供:ナビタイムジャパン
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戸隠山 ・・・農業神を祀る修験の霊地

2023-12-08 22:13:16 | 場所の記憶
 すでに11月のなかばである。戸隠高原は冬の気配であった。夏のシーズンには若者たちで賑わう高原も、今はひっそりとしていて、紅葉のピークをこえた色あせた黄葉をつけた雑木が、長く寒い冬を前にして、身をかたくしている様子であった。
 バスは、正面にひろがる戸隠宝光社の森を仰ぎつつ登り坂をゆくと、やがて門前の集落に着く。
 人影のない戸隠宝光社の社前に降り立った時には、鉛色のどんよりした空から、ちらほら小雪が舞い落ちてきた。
戸隠神社のひとつ宝光社は、山を背にした杉林のなかに鎮座している。古びた鳥居をくぐり、長い石段を踏みしめてのぼると、そこに古格の社殿が姿をあらわした。
 唐破風の張り出した本殿は、規模はさほどではないが、いかにも時をへた味わいがあり、森厳な雰囲気に満ちている。
 軒下をのぞいて見る。そこには華麗とも言える装飾が各部分に施されている。十拱(ときょう)、蟇股(かえるまた)、木鼻(きばな)部分にみる彫刻。それらはこの地方に伝わる伝統工芸品の類いを見る思いであった。さすがに宝光社の名にふさわしいつくりであると感心する。
 社伝によれば、宝光社の創建は康平元年(1058)、後冷泉天皇の御世であるという。戸隠山修験について詳述した『戸隠山顕光寺流記』によれば、その年、大樹の梢に光を放つ御正体が飛び移り来たった。そして、そこに庵が結ばれた。そんな怪異な伝承が残る神社である。 
 祭神は天表春命(あめのうわはるのみこと)といい、学問技芸裁縫、婦女子・子供にとって神徳のある神さまである。「春」という文字をあてているところなど、何やらかそけき色香ただよう神さまを想像させる。
 それにしても人影のない神社の境内というのは、妙に空虚感があって、そら恐ろしさが漂うものだ。神さびた気配がいっそう濃くなるのである。
 社殿わきにある神輿蔵に「文化元年、江戸神田職人」の銘の入った古風な神輿を見る。高さ八尺、重さ二百五十貫というから相当なものである。
 そこにいわくが書かれてあった。それによると、江戸期、その神輿は、七年に一度の大祭を迎えると、遠く江戸にまで繰り出したという。この出開帳ともいうべき興行で、多くの信者を集めることに成功、それによって神社も大いに潤ったという。
 社殿のわきから通じている神道に分け入ってみる。のどかな高原の自然林道のようなその参道は、林のなかをぬって中社に通じている。
 道の両側に冬枯れのクヌギやミズナラが林立し、明るい陽を浴びて、それらはどこか華やいでいる。幾日か前に降った雪で、参道がすっかり白くなっている。
 雪をかぶったクマ笹の葉が陽に輝いて目に痛い。ときおり、かん高い声をあげながら山鳥がすばやく飛び去ってゆく。
 遠い昔、こんな道をたどって、雪に埋もれた山里を訪ねたことがあったような気がする。
 どこまでもひろがる銀世界のなかをさ迷ううちに、やがて、畑地があらわれ、石塊のような小さな墓石がまじる屋敷墓が見え、こんもりとした茂みのなかに茅葺きの屋根があらわれた。
 それは、おぼろで、色あせた記憶のなかの、時がとまったような風景ではある。
 歩くほどに、遠くに黒いものが動くのを目撃した。一瞬、熊かと思って肝を冷やしたが、近づいてみると、それは、薪を集めにやって来た農夫であった
 黒い影を熊と思ったのは、参道の入口に「熊の出没あり注意」の看板を目にしていたからである。そのことを、件の農夫に告げると、「熊はこの時期はすでに冬眠しているわな」という返事でひと安心する。
 農夫と立ち話をしていた場所で、偶然にも、伏拝(ふしおがみ)と刻まれた碑をみつける。碑文によれば、かつて戸隠の奥社は女人禁制であり、また、冬の時期は、雪が深くて、奥社への参拝ができないために、ここから奥社を遥拝したのだという。
 農夫と別れ、さらに行くと、林が切れ、ぽつぽつと茅葺き屋根の民家が見えはじめる。畑があり、キャベツやネギ、大根が雪のなかで元気に育っている。
 大きな屋根をのせた入母屋づくりの宿坊風の家もあらわれる。そろそろ中社が近いことをうかがわせた。
 いわゆる宝光社、中社、奥社の戸隠三社と呼ばれる社のなかでも中社がその中心に位置する。その規模の点ばかりでなく、奥社と宝光社の中間に位置するという地の利からもうなずける。
 大門通りと呼ばれる中社に通じる参道を進んで行くと、道の左右に、トタンや茅で葺いた大きな屋根をのせた旅籠が目に入る。いずれも、かつて御師の家と呼ばれた建物で、豪壮なつくりである。
 昔ながらの、せまい参道を行くと、そのはてに、緑につつまれた、こんもりとした丘陵があらわれる。中社はその森のなかに鎮座しているのである。 
 今しも、観光バスで乗りつけた団体客が三々五々、大鳥居をくぐってゆく。
 社殿に至るには、その大鳥居から急勾配の石段をのぼらなければならないのだが、それにしても、どこの神社にもかならずと言っていいほど、石段というものがある。これも俗界と聖なる場所とをへだてるための空間構成なのだろう。
 石段を一歩一歩、踏みしめるようにのぼる。のぼるほどに、社殿の屋根が少しずつせりあがるように見えはじめる。少しずつ神域に近づいている実感がわきあがる。
 中社の本殿は、宝光社と比べると、全体のつくりが質朴な印象である。たとえば、間口は宝光社より広いが、唐破風の描く曲線がゆるやかであり、軒下の装飾もシンプルにつくられている。    
 この中社の創建は堀河天皇の治世の寛治元年(1087)のこととされ、宝光社と同じように奥社から分祠されたものである。
 創建の縁起は、戸隠山は本来三社であるべきであるという神のご託宣により造られたものという。したがって、三社のなかでもいちばん新しく、宝光社ができてから三十年後の創建である。
 祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)と何とも読みにくい名前であるが、あの天照大神が天の岩戸に隠れた時に、神楽を舞い、岩戸を開かせた神さまだと聞けば、急に親しみがわく。それもあってか、開運、商売繁盛に神徳があるとされる。
 さきほどまで止んでいた小雪がふたたび風に舞いはじめる。薄日が消えて、黒い雲がおおう。と急に寒気がます。
 杉は神社にはつきものだが、中社にはそのなかでも樹齢八百年に及ぶという、仰ぎ見るような巨大な杉が三本ある。古来より神木と讃えられているその三本の古木は、ちょうど三角形をなす空間の頂点に立っている。その間隔72メートルというのも何か意味があるのだろうか、とにかく大きいのである。古さと大きさがいやがうえにも神々しさをかもしだす。
 中社から奥社への道は、いかにもリゾート気分のあふれる明るいドライブウェイになっている。ミズナラや白樺、唐松の林をぬうその道をたどると、目の前に重畳たる山並みが見えてくる。
 あの山並みこそが、戸隠修験道の霊域として崇められた戸隠連峰だと思うと、思わず、厳粛な気分にとらわれる。
 雪におおわれているが、岩肌もあらわな峻厳な山塊であることが手にとるように分かる。巨岩が露出し、険阻な岩峰がそそり立っているのだろう。
 そうした山中こそが修験者にとっては業を積むにふさわしい場所であったのである。修行のための三十三もの霊窟や蟻の渡り、剣の渡りといった岩登りの難所もあると聞く。   
 雪模様の暗い雲が山の端にずっしりとはりついたようにたなびいている。時折、唐松林を、風がザワザワと音を立てながら吹きわたる。
 奥社入口の標識が立つところで道を折れ、鳥居川の清流をわたり、大鳥居をくぐる。
 奥社の参道はこんなにも長い参道があるものかと思うほどに長い参道がどこまでも延びている。それも真っ直ぐまっすぐに延びている。しかも、そこはすっかり雪におおわれていた。
 これから奥社に向かう人と、参拝を終えて戻る人とが、はるかにつづく白い参道に点々と見える。参道わきのミズナラの木々の枝には、凍りついたような雪がへばりついている。歩くほどに参道の雪が深くなる。
 薄日が射したかと思うと、またかき曇り、風が巻き起こる。すると、一瞬、地吹雪となって雪が舞い上がる。
 かすかに随身門が見えてくる。参道の中間点にある随身門は、すっかり雪のなかであった。朱色に塗られた古びた入母屋づくりの茅葺きの門が、神域らしさをいっそうかもしだしている。 
 この門は、またの名を仁王門とも呼ばれているところからすると、かつて、三間二面の門の左右には仁王像が立っていたのだろう。そこに現在は神像が安置されている。
 今歩いてきた随身門までが参道の外苑にあたるとすれば、そこから先は神域の内苑ともいうべき場所である。
 門をくぐり、奥深い参道をおし進む。随身門から先は杉の巨木が並木をなして連なっている。
 慶長17年(1612)、時の幕府より千石の朱印地を賜ったことで、奥社を中心に院坊が集められたといい、その時、参道にクマ杉が植林され、それ以後、一山の威容を備えたという。
 クマ杉と呼ばれるだけあって、その樹姿はそそり立つように大きく、威厳に満ちている。夏の季節には鬱蒼たる緑のトンネルになるのだろう。歩むほどに、しだいに参道はのぼり道になる。
 随身門から奥社までの参道沿いには、かつていくつもの院坊や大講堂が建ち並んでいたという。今でも草むらを分けると、石垣や礎石を見つけることができる。が、今やあたりの景観は自然そのものに帰っているのである。 
 そう言えば、奥社のある神域一帯は、モミ、イチイなどの針葉樹やブナ、ミズナラなどの広葉樹が森をなし、原始林的な植生が保たれている貴重な山域であるという。神域は、そうした場所でもあるのだ。
 参道に沿うように小さな流れがある。講堂川である。多宝塔や奥社までの距離を示した町石を目にすると、やはり歴史ある参道であることを知らされる。
 のぼりの道がさらに勾配をます。靴が雪のなかにすっぽり埋まってしまう。直進していた参道が大きなカーブを描くようになる。 
 聞くところによると、この辺の参道は、かつてはもっと曲がりくねっていたらしい。それを証明するように、古道の跡が草むらのなかに見つかるという。
 やがて、参道がつま先上がりののぼりになって、大きく屈曲する。さらに、最後の石段を上がると、鳥居があり、雪をいただいた蛾々たる戸隠山を背負うように奥社があらわれた。
 奥のその果てについにあらわれた奥社。古びた社を想像していたのに建物が案外新しい。崖崩れにも耐えられるように社殿が石垣でかためられている。
 この奥社の起源について、前出の『戸隠山顕光寺流記』は次のような伝承を書き記している。 
 この地の開山の祖である学門行者という人が、修行のため飯縄山にのぼった。艱難辛苦のすえ山頂に達すると、あたりには霊気が満ちていた。すでに日没の頃であった。
 そこで行者は、仏法の繁栄を祈願して金剛の杖を投げた。すると杖は光を放って、百余町離れた九頭竜神が棲む岩窟上に落ちたという。まるで流星の落下のようである。
 杖を求めて、件の岩窟に至ると、九頭竜神があらわれ、この地に仏法をひろめる根拠地をつくれ、というご託宣があった。そこで、一堂を設け、戸隠山顕光寺としたという。これが現在の奥社である。
 伝承が伝えるように、かつて戸隠山は仏法の修行地とされた場所であった。なかでも天台派山伏の道場として、つとに知られる場所であった。
 のちに真言派も入り、両派の対峙で中世期をとおして隆盛をきわめ、戸隠三千坊といわれるまでになった。
 その後、戦国時代になって武田、上杉の領地争奪の争いに巻きこまれ、三十年もの間、一山をあげて隣村に避難するという不幸に見舞われるが、江戸時代には天台寺院として位置づけられ存続したのである。
 このように明治維新の神仏分離によって神社となるまで戸隠山は仏教の霊地として栄えたのである。
 ところで、この奥社の祭神は天手力雄命(あめのたちからおのみこと)であるという。天の岩戸を無双の力で押し開けたというあの有名な怪力の神さまである。
 天手力雄命が、天の岩戸をこの地に隠し置いたことから、戸隠と呼ばれるようになったという地名由来説もあるくらいである。祭神にするにふさわしい神さまであったのだろう。 
 が、学門行者の伝承にもあるように、むしろ戸隠の土地神は、九頭竜神社に祀られている九頭竜神なのである。奥社本殿に隣接して建つ古格の風貌をたたえる九頭竜社の創建は年月不祥と言われるほどに古いという。
 九頭竜神は豪雨を呼ぶ神として水神の権化とみなされている。水は農耕生活には欠かせない貴重なもので、それが九頭竜神の信仰に結びついたといえる。
 戸隠山が古来から霊地とされ、地元の人々の信仰の対象になったのは、そうした民俗信仰に支えられた結果であった。 
 戸隠という山がもたらす豊かな自然の恵みを、人々は神話や伝説のかたちに創生し、のちのちの時代に言い伝えてきた。
 いっとき、明るい日差しが戸隠の山々を白く輝かしたかと思うと、すぐさま霧とも雲ともつかないものが山の姿を深くおおい隠してしまっていた。

画像は戸隠奥社への参道
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺・・・不思議を秘める万民の寺 

2023-11-26 11:28:16 | 場所の記憶
               
 何かのたとえに、「牛にひかれて善光寺参り」と言われることがあるが、これは「他人に誘われて、知らないうちによい方向に導かれる」というほどの意味である。
 ところで、この箴言のいわれには、次のような言い伝えが残っている。
 善光寺近くに、ひとりの強欲で不信心な老婆が住んでいたという。ある日、その老婆が家の軒先に長い布を晒しておくと、隣家の牛がそれを角にひっかけて持ち去った。それを見た、件の老婆は、その布を取り戻そうと、牛を追って善光寺に駆け込んだ。すると、そこで仏の光明を得るという幸運に恵まれたというのである。じつは牛は善光寺の本尊である如来の化身だったという。
 この言い伝えは、善光寺が万民にとっていかに霊験あらたかな寺院であるか、ということを伝える内容である。
 その霊験の一端に触れてみようと、晩秋のある日、「牛にひかれて善光寺参り」のひそみに倣い、善光寺さんを訪れてみた。
 長野駅を出て、駅前の広場を直進すると間もなく、「善光寺参道」の標識が目に入る。善光寺まで一・八キロの表示が見える。そこを右折すると、まっすぐに北に通じる商店街が開けている。
 中央通りと呼ばれるその商店街は、朝の光を浴びて、開店前のひとときをゆったりと憩っている様子であった。そこが門前町とは容易には想像できない。地方都市にある、ごくありふれた商店街の風情であるからだ。
 しばらく行くと右手に刈萱山西光寺という寺を見る。表通りから少し奥まって建つその寺は、いかにも格式のありそうな本堂を構えている。ここは刈萱道心石童丸物語の縁起のある寺で、門前に掲げられてある蛇の供養塔の説明がおもしろい。それは実話のようなつくり話のような内容で、供養塔に大蛇と小蛇の戒名が刻まれているところなどリアリティがある。
 寺をあとにして、さらに進む。歩道にはときおり、善光寺から何丁目かを記した道標が立っている。そして、そこには、「そば時や月のしなのの善光寺」のような一茶の句がそえられている。
 通りの左右を眺めやると、仏具店や骨董品、民芸品を商う店、ミニ博物館などが散見される。後町、大門町などゆかしい町名があらわれ、古町の雰囲気がしだいにあふれてくる。
 やや通りに勾配がつきはじめる。足裏に伝わる快い感触を味わいながら、ゆったりと、足を踏みしめながら歩く。通りに沿って建てられている昔ながらの土蔵づくりや大壁づくりの家々の屋根が、階段状に連続してリズム感をつくりだしていて何とも目に快い。「ああ昔の町だな」という感慨がわいてくる。
 ところで、この門前通りの町並み景観は、いま現在も日々つくられつつあるという。
 たとえば、アーケードを取り払って建物の正面を露出させる。通りと建物との間の流れを復活させる。さらに、土蔵づくりの家を店舗に改造して、町並みに賑わいをかもし出すといったようにである。
 通りの左手に北野文芸座なる建物を目にする。歌舞伎座風のその建物が、周囲の景観を引き立てる。アールデコ調の洋風建築の旅館、和風造りの郵便局もある。やはりそば処である。九一そばとか、戸隠そばなどの暖簾を下げたそば屋が目につく。
 さらに通りは勾配を強くする。今たどってきた道をふりかえると、そのことがよく分かる。坂が下方にまっすぐに心地よく連なっているのが分かる。歩いている時はあまり感じなかったことである。
 やがて、「善光寺参道」の標識を目にする。そこは大門と呼ばれるところで、善光寺の境内はそこから先である。
 大門からつぎの仁王門までの参道の右手に小庵風の建物が建ち並んでいる。それは宿坊で、何々講御一行様と書かれた旗や看板が入口に掲げられている。
 なかでも智栄講という名が目立つ。聞けばこの講は、善光寺講のなかでも最大の規模を誇る講であるらしく、おもに東京の下町の中年女性が講員であるという。
 今しも旗をかざした斡旋人が、参拝を終えた講員の女性たちに声をかけながら宿坊に呼び込んでいるところである。 
 左手に大きな伽藍を構えるのは大本願と呼ばれる本坊のひとつだ。大本願の境内はそれほど広くなく、真新しい本堂が、菊の御紋を染め抜いた垂れ幕で飾られている。
 その本堂から、「身はここに、心は信濃の善光寺、救はせたまへ弥陀の浄土へ」の「善光寺和讚」を唱和する女性の声がもれ聞こえてきた。
 石畳の敷かれた参道を進むと、目の前に唐破風を張り出した仁王門が現れる。銅板葺きの屋根をいただく門は、左右に迫力ある立体像の阿吽の仁王像を従えている。躍動感あふれる像である。
 御開帳は令和4年の秋におこなわれているので、つぎのご開帳は七年後である。
 仁王門をくぐると、参道は突然賑やかな仲見世に変身する。このあたり元善町といい、道の左右、軒並みに、民芸品を売る店、りんごやあんず、野沢菜などの地元の産物を売る店、湯気をあげながら名物のそばまんじゅうを商う店、門前町らしく仏具を売る店など、まさに店が櫛比する状態である。
 団体客がガイド嬢の旗のもと、ぞろぞろとつき従って通り過ぎる。声高な関西弁が飛び交う。みやげ物の大きな袋を手にする人もいる。これから本堂をめざす参拝客、すでに参拝を終えた人たちが、せまい仲見世を思い思いの態で行き来している。まさに目の前にくりひろげられる光景は、「伊勢参り大神宮へもちょっとより」の物見遊山の人々の雑踏である。
 かつて、この仲見世の商店街には、呉服屋とか床屋とか袋物屋などの生活に密着した店が集まっていたという。それがいつの間にか、参拝客や観光客向けの店に変わってきている。それだけ遠来の客が多く訪れるようになったということだろう。
 おもしろいことに、関東の客と関西の客とでは、みやげの好みがちがうらしい。趣向のちがいといえばそれまでだが、何やら生活文化のちがいがそこに現れているようでもある。 
 また、春から夏場にかけてと冬場とでは客層が異なるために店頭の品種を替えるという。スキー客の多い冬場は、若者向けに包装紙も改めるらしい。たいへんな気の使いようである。
 全般的に団体客の多い場所柄、商売は、はじめの五分間が勝負らしい。道理で客の呼びこみをする店が多いはずだ。積極的にうってでなければ客を引き留められないということか。「昔はもっとのんびりしていたもんだよ」と地元の古老は懐かしむ。
 仲見世が途切れるあたり、目の前にひときわ、きわだつ山門が立ちはだかる。堂々とした重量感のある入母屋づくりのその山門は、二層のつくりで、高さ二十メートルほどあるという。その前に立って、しばらく山門の雄姿を仰ぎ見る。
 山門の手前、左手奥、池に架かる橋の向こうに門構えの立派な堂宇がひかえる。それは大本願と並び称される本坊のひとつ大勧進である。
 石段を上り、山門をくぐり、いよいよ本堂の建つ広い境内に足を踏み入れる。本堂に向かってまっすぐに、四角に切った石畳が連なっている。
 正面に建つ入母屋づくりの本堂は、立棟の拝殿と横棟の内陣がちょうど丁字形をなして結合した格好になっている。これは善光寺独特の様式で、見る者に豪壮な印象を与えるとされる。
 広い境内を思い思いに参拝客がうごめいている。記念写真をとる人、ガイドの説明に耳を傾ける団体客。そのなかを、鳩のひと群れが、明るい空にむかって羽音をたてて舞いあがってゆく。
 かつて霊場はおおむね女人禁制であった。そうしたなかで、女性も含めた衆生にあまねく光明を与えると言われる善光寺が、じつは無住の寺であるということを知る人は案外少ない。そして、男女の区別なく誰でも受け入れるがゆえに無宗派の寺であることも。
 確かに善光寺という寺(本堂)はある。が、じっさいにこの寺を管理しているのは、大勧進と大本願と呼ばれる二寺である。天台宗を宗旨とする大勧進と浄土宗を宗旨とする尼寺の大本願。この両者の間には、江戸時代からいろいろと確執があったと聞くが、現在は、そういうこともなく、日々交替で善光寺の務めを果たしている。
 それは毎朝おこなわれるお朝事ではじまる。本堂で経をあげるこの勤行は、善光寺名物のひとつになっている。それを目当てにやって来る参拝客をあてにして仲見世商店街は、朝の六時頃にはいっせいに店を開ける。 
 この毎朝の勤行とは別に、七年に一度執りおこなわれる御開帳と呼ばれる秘仏公開も、今や善光寺にとっては欠かせない一大行事になっている。
 この御開帳の期間、ふだんは秘仏として公開されることのない本尊を模した一光三尊阿弥陀如来が開扉される。別名、前立本尊と呼ばれるこの仏像の御開帳は、初日の開闢大法要を皮切りに幕を開けるが、なかでも盛大なのは中日におこなわれる庭儀大法要である。
 これは前立本尊を讃える回向として知られるもので、この日、本堂正面に建てられた回向柱を前にして、参道には朱色の傘が整然と立ち並び、香煙が立ちのぼる。これを見ようと三十万人を越す観光客が集まるといい、行事はこの日ピークに達する。
 この御開帳が盛大におこなわれるようになるのは江戸時代になってからのことである。記録によると享保15年から幕末までの百三十六年間に十五回おこなわれたとある。弘化4年(1847)の御開帳の時には、善光寺平を震源とする大地震に見舞われるというハプニングもあった。
 その後、明治、大正、昭和、平成の時代へと引き継がれ、今日にいたるのであるが、御開帳も時代の変化の波にさらされているのが実情である。
 ところで、御開帳の期間に限って衆生の前に姿をあらわすという善光寺の本尊・一光三尊阿弥陀如来とは、前述したように本尊のいわばダミーである。それでは、本尊そのものは、いったいどんな仏さまなのだろうかという興味がわく。
 ひとつの光背のなかに、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至観音の三体の仏像が配されているところからつけられたという一光三尊阿弥陀如来。一説にはインドから渡来し、我が国最古と言われる仏像である。その本尊は、白鳳時代に開扉されて以来、開かずのまま今日にいたっているという。
 その本尊の姿を模したというご本尊御影を掛軸にして、善光寺では参拝客に頒布している。それを見ると、前立本尊よりもふくよかな仏像として描かれているのが分かる。
 ところで、この仏さまには秘められた受難物語がある。それはありがたい仏さまであるがゆえの災いといえた。 
 時は戦国時代のことだ。武田信玄と上杉謙信の勢力争いは、この地にもおよび、善光寺は両者の争奪の場になった。
 その頃、善光寺は武田方に属していた。そのため信玄は善光寺を戦火から守るという名目で、甲斐の甲府にこれを移している。現在、甲府にある善光寺はその時のものである。その後、武田氏が滅び、織田信長の時代になると、善光寺は岐阜に移される。岐阜の善光寺がその跡である。
 さらに織田氏が滅亡し、豊臣秀吉の代になると、こんどは京都の方広寺の大仏殿に移される。この間、いちじ甲府に戻されることもあったが、流転の旅は終わらなかったのである。
 ところが、秀吉が善光寺の本尊を京都に持ちこんでから間もなく、秀吉の身体がおかしくなった。かえりみれば、武田氏も織田氏も、ともに本尊を移したことで滅びたではないか。秀吉の近辺の者に、そうした思いがよぎったとて不思議でない。
 彼らは皆一様に祟りを恐れ、本尊を善光寺に返すべきことを秀吉に進言。そして、ついに、慶長3年(1598)8月17日、秀吉は本尊を善光寺に返すことを決意する。 
 それは、奇しくも秀吉がこの世を去る前日のことであった。善光寺本尊は、こうして四十四年ぶりに、晴れて故郷に戻されたのである。
 うす暗がりの本堂のなかに足を踏み入れてみる。ゆったりとした本堂内部は、天井が高く、優に十メートルはありそうである。堂内は外陣、中陣、内陣、内々陣と幾つかの空間に仕切られていて、いかにも奥深い印象を与える。正面奥には祭壇。奥所を感じさせる内陣から先は一段高くなっていて、そこに巻き上げられた朱の簾がかけられている。
 しっきりなしに参拝客がお賽銭箱の前に立ち、手をあわせ、なにごとかを祈願しては立ち去ってゆく。
 この本堂参拝にはじつは極めつけのコースがつくられている。それは内々陣の地下につくられた戒壇めぐりというものである。この戒壇めぐりは、いわば冥土への旅が擬似体験できる場所であるとされている。
 明治26年に発行された『長野土産』という案内書には、戒壇めぐりについて「内陣板敷の下にあり、東に入り口ありて段を下り、三度廻りて元の口に出るなり。其中は暗くして闇夜の如し。俗間に放辟邪見なるものは壇中必ず怪異に逢ふと言ひ伝へり」と記してある。
 これによると、参拝客は、そこで俗世間での日頃の行いを問いただされたことになる。怪異に逢うとは、まさに地獄体験の一端に触れるということを意味しないか。怪異に触れた参拝者は、そこで改めておのれの生き方を反省させられたにちがいない。
 ところで、今はご本尊の真下にある「お錠前」(鍵)に触れることが戒壇めぐりの目的になっている。それに触れると、如来さまと結縁され、極楽往生が約束されるという。どうやら闇の意味が薄れてしまっているようである。
 本堂を出て、明るい境内をひと回りしてみる。大峰山を背後にした善光寺の敷地は、善光寺平のやや西寄りにひらけ、なかなかの立地であることが分かる。そこは四季おりおりの、自然の移りが見事に映し出される場所なのである。
 門前町の風情を味わってみようと、参道裏の小路に分け入ってみた。せまい通りに沿って古風な民家や土蔵づくりの家、白壁をめぐらした造り酒屋、和菓子屋などが軒を並べている。善光寺七小路と呼ばれるほどに小路が多い。
 どの小路を歩いてもゆったりとした時が流れていた。土地の香りに満ちていた。しっとりとした生活のぬくもりが漂っていた。
 それは長い歴史が醸し出す町の味わいというものなのである。

 画像提供:善光寺


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

身延山 ・・・日蓮が籠もった奥域 

2023-11-11 18:07:06 | 場所の記憶

不思議なもので、何がしか聖なる雰囲気が漂う場所というものがあるものである。
 その地に、一歩踏み入ることで、そこにただならぬ、神々しい空気が流れていることを感じるのだ。聖なる場所に聖なる雰囲気が醸し出されるのはどういう作用によるものなのかを実体験したい思いにかられて、秋のある日、身延山に登った。
 身延線の身延駅からバスに揺られること1時間ばかり。途中、ゆったり蛇行する富士川の広い川筋に沿う富士川街道を走る。やがて、富士川の本流と分かれ、その一支流、早川に付き従うように山中の崖道に沿ってバスは進む。進むほどに、いよいよ山深い地に入りこんだ感を濃くする。 
 赤沢の集落を谷あいに見たのは、すでに陽が山の端を離れ、冷気が身体を包みこむ時刻であった。
 赤沢は、ちょうど南アルプス南端の山あい、身延山を南に見る位置にある。古くから身延詣での基地として知られるところである。そうした理由で、そこには身延山参拝客向けの宿があり、現在も、三十軒ほどの宿が山の斜面に点々と建っている。古い建物だと鎌倉時代のものもあるという。 
 江戸屋、両国屋などの宿名から察するに、多分、江戸からやってきた参拝客を主にもてなした宿であったのだろう。何々構中と書かれた札が掛かるのは、そこがそれら講中の定宿であったことを伝えている。
 ざっと眺めわたすと、いずれの建物も、屋根を茶色の木羽葺きにし、外壁を板張りでおおっているのが分かる。それら二階建ての家々は一、二階が開放された板廊下でぐるりと巡らされている。手摺りのついた二階の造りがいかにも旅籠を感じさせる。
 このように、赤沢集落全体に現れ出ている景観の統一感は、聞くところによれば、歴史ある赤沢を残そうという住民の意思の表れであるという。
 これからはじまるお山登りの労苦を予感しながら赤沢の集落を後にする。めざすは、身延山の山頂近くにある奥之院である。
 つづら折りの、傾斜の強い山道を歩きだすと、すぐに身体中から汗が吹き出してくる。眼下の赤沢集落の家並みが次第に小さくなってゆく。
 こうして、秋の日盛りの中を歩いているだけであれば、ただのハイキングといった風情であるが、歩くほどに、そこが信仰の山であることをあらためて知らされる。
 それというのも、谷間のかなたこなたから、静寂を破るかのように「南無妙法蓮華経」を唱和する読経の声が響き渡ってくるからである。
 初めは耳慣れぬその声に驚かされたが、しばらくそれを耳にしているうちに、次第に快いモノトーンリズムとなってくる。やがて、それが身体に溶けこんで、山道を登る歩調とぴたりと重なってくる。
 思うに、「南無妙法蓮華経」を唱えながら、遊行僧が布教行脚の旅をしているのは、それが精神修養であるばかりでなく、身体的な歩行リズムをつくる効用があってのことではないかと、ひとり合点する。  
 山中では、なんども参拝団の白い集団に出会った。彼らは、いずれも何かの団体に属しているらしかった。手甲脚半に白装束、地下足袋を履き、鉢巻きをする者、饅頭笠をかぶる者などいろいろであった。
 なかには、明らかに都会からやって来たと思われる、にわか修行者の集まりもあった。彼らは皆、若者たちである。いかにも都会育ちの青年らしく、どこかたくましさに欠ける身体つきをしている。
 とはいえ、リーダーの指揮の下、「南無妙法蓮華経」を唱和しながら山を登り、谷を下って行く姿は、健気でさえあった。
 したたれ落ちる汗をふきながら、苦労しながら、いくつもの峰をこえ、谷を下った。
 それでも、ときおり、ぱっと視界が開け、はるか眼下にひろがる風景を眺め見た時などは、心から爽快な気分に満たされたものだった。高い山ではないのに、実に山深い印象があった。
 快い疲れを身体に感じながら、久遠寺の奥之院に到達した時には、すでに午後の陽が大きく西の空に傾きかかろうとする時刻になっていた。
 それにしても、日蓮はいかなる理由で身延の山を自らの修行の場として選びとったのだろうか。
 顧みれば、幾度かの迫害に遭い、佐渡に流罪にもなり、その度に、それらに耐えてきた日蓮であった。その日蓮が、佐渡流刑を赦免され、再び鎌倉の地を訪れることになるのである。
 それは鎌倉幕府の下問に答えるためであった。時の執権北条時宗は、その頃、蒙古襲来の恐れと不安をもっていた。そこで、日蓮を赦免してその可能性について問いただそうとしたのである。
 そのことを問われて日蓮は、蒙古の襲来は今年のうちに必ずあるであろうことを、真摯な態度で答える。だが、時宗は、その言葉を信じていないようであった。 
 日蓮は思ったことであろう。今また、国を憂えて直言したことが容れられなかった。となれば、もはや鎌倉を去り、山中に引き籠もるばかりであると。日蓮はひとつの決断をすることになるのである。
 甲斐の国、身延山の麓、波木井の里に赴くことを決意したのは文永11年(1274)5月12日、日蓮五十三歳の時である。
 この時の心境を、日蓮は『波木井殿御書』の中で語っている。
 「国の恩を報ぜんが為に国に留り、三度は諌むべし。用ひずんば山林に身を隠せという本文ありと、本より存知せり。何なる山中にも籠りて、命の程は、法華経を読誦し奉らばや、と思ふより外は他事なし」と。
 波木井の里に赴くことを思いたったのは、そこに旧知の波木井氏が居を構えていたからであった。当主の波木井実長は、甲斐源氏の流れをくむ家柄で、その頃は、波木井三郷の地頭の任にあった人物である。
 その実長の長子実継が、実は熱心な日蓮信徒であった。彼は以前から日蓮の教えに帰依していた。その縁で日蓮を身延山麓に招いたのである。
 その頃の身延の地は、人里離れた実に不便極まりないところであったにちがいない。その不便さをおして、日蓮の日常生活は、波木井氏の援助に支えられて営まれたことは想像にかたくない。
 日蓮が西谷と呼ばれる山中に草庵を結んだのが初夏の六月。庵とは名ばかりで、床には木葉を敷き、壁は木の皮を張りめぐらせた状態の苫屋であった。
 そこで日蓮は晩年の九年間を過ごすことになる。人生で最も静穏な時を過ごし、信仰生活の最終を飾ることができたのである。
 今、西谷の地には日蓮の遺骨を収める御廟が建っている。近くに身延川が流れ、川をはさんだ高台には久遠寺の巨大な本堂が望める。草庵の跡と伝わる場所には石で造られた玉垣が巡らされ、そこがひとつの歴史的事蹟であることを印象づけている。
 それにしても山の中である。
 自らの身を隠すそのような場所に草庵を結び、そこに潜むように住み続けた日蓮の心の内にあったものは、いったい何であったのだろうか、という思いがふとわき起こる。
 幾度かの試練に遭ったあと、ようやく静穏な生活に戻れる機会を得た日蓮は、いよいよ法華経に専心し、人材の育成に専念しようと考えたであろう。
 だが、それだけの理由であれば、険しい山中に分け入って、不便な生活を営む必然性はなかったといえる。
 許されて佐渡から戻った日蓮が、幕府に申し述べた蒙古来襲の予言は、結局受け入れられなかったが、日蓮みずからは、そのことを確信していたのである。
 いずれ日本国は、蒙古に征服される、その時こそ、法華経の教えを、生き残った民人に布教しよう
 そのためにも、蒙古軍の手が及ばない山中に身を潜め、たとえ亡国ののちも、そこに法華王国をうち建てるのだ、という考えがあったと思われる。山の奥は、精神の自立を確保するにふさわしい場所でもあった。  
 日蓮が身延の山中にこもったその年の十月、「蒙古来襲があるであろう」という日蓮の予言が見事に的中することになる。蒙古の大軍が北九州の海岸に押し寄せてきたのである。 
 幸にして、蒙古軍は秋の台風に遭遇し、壊滅してしまうのであるが、この一事によって、日蓮の声望はいちだんと高まることになった。
 日蓮はこの頃、たて続けに『撰時鈔』をはじめとする数多くの著作をものにしている。また、日蓮の徳を慕って身延の山中を訪れる人がますます増えるようになるのである。
 こうしたなか、弘安4年(1281)の11月24日、念願の十間四面の信仰道場、現在の久遠寺の前身、法華堂が落成する。
 落成式には多数の人々が山を訪れ、その賑わいは京、鎌倉の町中のようであったと、日蓮はのちに書き記している。身延山に入山してから七年後、日蓮六十歳の時である。
 工事は波木井氏の協力によって行われたといわれ、ここに初めて本格的な布教活動の拠点がつくられることになった。日蓮教団の本拠地の誕生である。
 この間、再度の蒙古来襲があったが、神風(台風)が吹いたおかげで、今また蒙古軍が大敗するという椿事が起こる。日蓮はどんな思いで、その出来事を聞いたことだろう。
 法華堂の完成をみた年の翌年の秋、日蓮は、持病となっていた下痢の症状をさらに悪化させる。そして、その療養のために、故郷である安房の国へ赴くことになる。九年間住み慣れた身延の里を後にして、衰えた身体を馬にゆだねて、旅立ったのである。 
 だが、日蓮の病状は、安房の国にたどり着く猶予を与えなかったのである。弘安5年(1282)10月13日、旅の途上の、武蔵の国、池上村の知人宅で、ついに病に倒れ、帰らぬ人となる。享年六十一であった。
 現在の池上本門寺は、その旧跡に建てられたものである。
 そして、遺骨は「たとえ、いずくにて死に候とも墓をば身延山に建て給え」の遺言に従って、身延山に帰ったのである。
 ところで、日蓮がその生涯をかけて信仰した法華経とはいかなる内容のものだったのだろうか。
 法華経とは、ひらたく言えば、釈迦の教えが口伝されたものだといわれる。法華経はそれを文字化、つまり経典にしたものである。法華経の思想は、そもそも大衆部仏教(大乗仏教)の流れをくむもので、それが中国を経由、中国僧三蔵法師羅什訳典『妙法蓮華経』として我が国にもたらされたものである。経典は二十八品から成っている。そのうち十四品には、歴史上の釈尊のことが語られている。そして、あとの十四品では、永遠の命をもつ仏の教えが説かれている。
 法華経は説く。仏教徒が理想の世界とすべきところはこの人間世界の中にあると。日蓮がよって立つ立場もそこにあった。人間は久遠本仏の存在を信じて行動すれば、おのずから事実として仏の道が体験されるであろうと説いて、布教した。「南無妙法蓮華教」と口で唱えることは、まさにその実践であった。
 その意味は、「心身を捧げ尽くして(南無)、法蓮華経を唱えよ」ということであった。この題目を唱えることによって、人は本来そなえている仏性を現わすことができると考えたのである。
 仏性とは今様の言い方でいえば、創造的利他心ということであろう。この題目を唱えること即修行であると見なした。
 日蓮は法華経こそが釈尊の本意をいちばんよく伝えるものであると了解していた。その信念は、断固とした確信に満ちたものであった。
 日蓮の教えが他宗派に対する妥協のない闘いとしてありつづけたのも、法華経こそが唯一絶対のものと見なした結果であった。主著『立正安国論』では、日蓮のこの考え方が如実に表されている。
 日蓮はまた、法華経が世に広まる時は、末法の世であるととらえた。布教の過程で、法難に遭うであろうことも予知した。だがそれに耐えて仏の教えを広めることこそが、真の仏教徒であるともみなした。
 奥の院を訪れた翌日、山を下り、久遠寺の大本堂を訪れる。
 三門を潜ると、そこにも白装束姿の参拝団の姿があった。昨日は、山中では見かけなかった女性の参拝者の姿も交じる。それが珍しい光景に映った。白装束に身を纏い、黄色い声で「南無妙法蓮華経」を唱和する姿に、不謹慎ながら、ふと妙な色気さえ感じたものだ。
 老杉の巨木が影を落とす、冷気の漂う参道を進むと、長い階段が見えてくる。
 本堂に参拝するには、菩提梯と呼ばれる287段のその急坂の石段を登らなければならない。名の通り、それは悟りへ至る階段を意味するが、悟りへの階段は実にきついものだった。
 ときおり、小休止をとりながら、息も絶え絶えに登る。頭の中が燃え尽きそうであった。足腰が萎えて、もうこれまでというところで、ようやく入母屋造りの本堂の屋根が姿を現した。
 本堂の建つ広い敷地には、玉砂利が一面に敷かれていて、そこには大本堂のほかに日蓮上人の尊像を祀る祖師堂や、上人の分骨を納める御真骨堂などが建ち並んでいる。
 私は大本堂の千鳥破風のついた入母屋造りの屋根を仰ぎ見ながら、この地が聖地としてありつづけた意味をあらためて考えてみた。
 そもそも日蓮がこの地を隠棲の場所として選びとったその時から、ここが意味ある、特別の場所になったのは確かである。が、それだけでは聖地誕生の必要充分条件にはならないように思える。
 思うに、この地の山深い地理的条件が聖地イメージをいやがうえにも、高めたといえないだろうか。
 日蓮は蒙古襲来を恐れ、その難を逃れるには、身延山の山中が適地であると判断した。その結果選びとられた場所であったとすれば、自ずと山深い、奥行きのあるところであったことは必然である。
 奥行きのある場所に人が抱く神秘な思いというものは、そこが宗教的雰囲気をもつところであればなおさら増幅されるものなのである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

2023-10-29 12:00:00 | 場所の記憶
 江戸時代以来盛んであった大山詣でを実地体験するために、晩秋のとある日曜日、大山をめざした。
 かつて江戸から大山詣でに出かけるには、幾つかのルートがあった。東海道を下り、藤沢から相州大山道を行く表ルート、これに対して、大山街道(矢倉沢往還)を厚木、伊勢原経由でたどるルート、途中、厚木街道から分かれて登戸経由で行く登戸ルート、それに中原街道をたどるルートなど幾つかの脇往還があった。
 時代によって、これらのルートにははやりすたりがあったらしいが、天保2年(1831)の記録によると、夏のシーズン(7月26日~8月17日)だけでも10万人もの参詣客が訪れたというから、かなりの賑わいであったことが知れる。 
 ところで、現代の大山詣では、小田急線の伊勢原駅を起点にする。
 駅を降りると、目の前にどっしりとした銅製の大鳥居が出迎えるように立っている。それは一の鳥居で、この町が古くからの門前町であることを教えてくれる。
 が、大山詣では、そこから徒歩でたどるわけではない。駅前から出るバスに揺られて、まずは大山の麓まで行くことになる。さらに、そこから、ケーブルカーに乗ってお山の中腹にある下社に行き着く。これが一般の参拝客のたどるルートである。
 門前町の風情に多少はひたってみたい気持ちがあった私は、バスを途中で降りて歩くことにした。
 そこは、すでに寺社の門前を思わせる雰囲気がただよう場所であった。道に沿うように渓流が流れ、風情のある橋が架かり、川沿いには点々と和風の宿が並んでいる。宿はいずれもこぢんまりとしたつくりで、先導師旅館とか宿坊旅館などと記された看板がかかげられている。
 先導師旅館というのも変わった名前である。先導師とは、大山参りを世話する御師のことで、先導師は自分たちの住まいを宿として提供し、お得意先の講の人たちの世話を一手に引き受けていたのである。このシステムは現代まで引き継がれていて、今でも夏のシーズンになると、先導師を頼って大山詣でをする講中がある。      
 ゆるやかな勾配をつくる参道は、ところにより桜並木になっていたりする。花の季節にはのどかな花景色が眺められるにちがいない。渓流の奥に小さな滝があるのだろうか、愛宕滝とか良弁滝などという名のバスの停留所を目にする。
 良弁滝のバス停のところで左に折れ、とうふ坂という変わった名前のついた参道に分け入る。
 そこは江戸時代に使われた参道で、とうふ坂という名は、大山詣でにやって来た参詣人が、手のひらに豆腐をのせ、それをすすりながら行ったところから由来するという。手のひらに豆腐をのせて、それを食べながら歩いたとは、ずいぶんせわしないことだと思いながら、ふと、この地の名物は豆腐であることを思い出す。
 大山豆腐の名で知られる豆腐は、山間に湧く清水が育てた逸品である、と地元の人は言う。その豆腐は、今では懐石料理にまでなって高級化している。
 とうふ坂の左右には講中の名を記した玉垣風の石柱がずらりと立ち並んでいる。大山詣でが「大山講」という名の信仰集団に、長い間にわたって支えられていたことが、それを見てもうなずける。
 大山が修験者の山となったのは古くは平安時代の中頃といわれる。修験者は山に入り、そこに定住した。彼らは時代とともに数を増し、やがて集落をなすまでになる。
 ところが戦国の世になると、彼ら修験者(山伏)集団は、時の権力者に利用されることになる。この地に勢力をはっていた北条氏が彼らに目をつけ、戦闘集団として利用したのだ。
 だが、秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。その結果、彼ら修験者の運命は暗転する。大山修験は解体され、以後は、山を下り、麓で参詣者の世話役に従事することになった。 
 のちになって、この御師の活動が大山信仰をおおいにもり立てることになるのだが、18世紀以降になると、信仰熱は広く一般大衆にまで浸透拡大することになった。特に江戸庶民には人気があった。年に一度の夏の開山の時期になると、押し寄せる参拝客で山はごったがえした。
 この御師の活動はやがて関東一円にまで広がり、彼らは檀家の獲得にはげんだ。そして、檀家になった者たちを地域や職業別に分けて講となし、さかんに大山参詣を誘導した。大山講と呼ばれるものがそれである。
 時代が変わり、明治初年の神仏分離令によって、彼ら御師は先導師という名に改められるが、大山講そのものは生き続けた。神仏分離令ののち、先導師たちは、従来の神仏あわせた大山信仰活動から、阿夫利神社だけの信仰活動にかかわるようになるのである。
 とうふ坂の狭いだらだら道を上るほどに、今しがた、菅笠をかぶり、白い浄衣を身にまとい、腰に鈴をつけた信者の集団が「散華散華、六根清浄、大山石尊大権現」と合唱しながら現れ出たように思えた。 
 御師に引き連れられた一団は、江戸の町からやって来た商家の旦那連のようでもある。なかには女もまじっている。これから、大山寺、石尊大権現(阿夫利神社)とお参りし、大山山頂の上社(奥社)をきわめるのだろう。 
 阿夫利神社へは男坂か女坂をたどることになるが、途中にある大山寺に詣でるには、女坂を行かなければならない。
 大山川に架かる千代見橋をわたると、こま参道と呼ばれる石段の参道が現れる。アーケード街になっているその参道は、軒並みにみやげもの屋が連なっている。
 いかにも観光地のみやげもの屋風情の店では、おばさんたちが、大山名物の独楽や豆腐、伽羅蕗などを通りがかりの参拝客にすすめている。
 参拝前だというのに、すでにみやげ物を買いあさる人がいる。やはり、気分というものなのだろうか。土地のみやげを手にしないことにはお山参りの気分が出ないとでも言いた気である。この「こま参道」のみやげもの店は大山詣での雰囲気を盛り上げる格好の添え物になっているようだ。ここは大山門前町の最前部にあたるところでもある。
 大山川の渓流が美しく眺められる雲井橋という橋をわたり、いよいよ女坂に分け入る。これより先はかつて聖域とされたところである。
 小さな流れをたどりながら山中に分け入ると、急にあたりが静かさに満ちる。野鳥がさえずるほかは、物音ひとつしない。
 道を歩くほどに、女坂七不思議のひとつに行きあう。それは弘法水という、清水のわき出るところであった。曰くを説明する解説板が立っている。
 しばらく行くと、また現れた。こんどは逆さ菩提樹という名のついた、根元にゆくほどに細くなる菩提樹の木であった。どういう理由でそうなったものか、たしかに不思議なことである。
 山中にときおり現れる七不思議の事跡。それらはきっと、山中での無聊をまぎらすために演出されたものなのだろう。今の人はともかく、昔の人はこれでけっこう楽しめたのではないか。
 このあたり、道の左右にいくつもの石碑を目にする。寺に施したお布施の金高を麗々しく彫りこんだ碑であったり、参拝記念を刻する碑であったりする。
 大山寺は長い石段を上りつめたところにあった。いかにも歴史を感じさせる、装飾感のない建物は、質実剛健のたたずまいで建っていた。第一番霊場雨降山大山寺とある。一般には大山不動尊の名で知られている寺である。 
 不動の名は、ここの本尊が不動明王であるからで、関東三十六不動の札所のひとつにもなっている。この大山寺は、女坂の入口から15分ほど歩いたところにある。
 法螺貝の音が聞こえたかと思うと、腹の底をつくような太鼓の音が山間に響きわたり、そのうち読経の声が本堂からもれてきた。いかにも山中の修行地を思わせる気があふれている。 
 女坂と言えば、大体、傾斜が緩やかで登るのに難儀しないようにつくられているものである。が、ここの女坂はかなりきつい。
 なかでも、大山寺を過ぎ、無明橋をわたるあたりから急にきつくなる。急坂の階段がこれでもかこれでもかとつづく。女の名がついていても、決してあなどれないのである。
 膝のあたりの感覚がなくなりそうになった時、ようやく石段が切れて、阿夫利神社下社の境内の前に出た。
 阿夫利神社下社は山を背にした台地状の上に建っている。長い石段を上り、阿吽(あうん)の狛犬が並ぶ鳥居をくぐると、玉砂利の敷かれた明るい境内にいたった。
 すでに大勢の人々の姿があった。神社の参拝者然とした人もいるが、ハイキング風の服装をした人が多い。現代の大山はすでに行楽の山になっていることが知れる。
 明治以前の神仏習合時代、ここは石尊大権現と呼ばれ、大山信仰の原点ともなったところである。ご神体が自然石であると言われる石尊大権現。その霊験のほどとなると、どうも複雑多岐でひと言ではいえないようだ。この山には水の神、豊作の神、豊漁と海上守護の神、除災と商売繁盛の神などが棲んでいるらしい。
 なかでも、雨、水にかかわりが強く、またの名を雨降山と呼ばれるゆえんである。水にかかわりのあるお山であることは、消防関係の団体やら、鳶の講中の名が玉垣や記念碑に散見されることでも了解できる。
 ほとんどの参拝者は、通称下社と呼ばれる阿夫利神社下社を参拝して下山するのだが、なかには、さらに大山山頂にある上社をめざす人たちがいる。
 本来の大山詣では、やはり山頂まで登り、奥社を参拝することで完遂したことになるのだろう。
 案内板を見ると、頂上まで一時間半ほどであるという。登山としては、決して長い距離ではない。勇を起こして、さっそく神社わきの参(山)道のひとつをたどる。
 すぐにきつい登りとなる。雨上がりの急勾配のぬかる道を登るほどに、すぐに息が切れる。それにしても道が悪い。昔の人はこうして皆登っていったのだろうか。
 大岩がころがり、倒木が横たわる、かなり荒れた登山道をあえぎながら登ってゆくうちに、道端に小さな石碑を発見する。
 碑面に「神田竜吐水講中 弘化二巳年正月吉日」とあり、側面に御師邊見民部の名が刻まれていた。ここが信仰の山であり、長い歴史をたずさえてきた山であることを改めて知らされる。
 杉木立がつづく深山の気が満ちた山道をさらに登る。昼前だというのに、すでに下山する人がいる。周囲の植生がやや変化したなと思う頃、「奉献石尊大権現」と大字を刻する背の高い石碑を見る。そこは見晴らしのよい場所で、登山口から小一時間ほどのところである。4メートル近い高さの石碑は、宝暦11年(1761)に初建されたものという。石碑を囲む玉垣に「新吉原三業組合」の名がみえる。 
 じつは、そこは、今たどって来た参道とは異なる、もうひとつの参道(途中に雨乞の水汲場となる二重の滝がある)との合流点にもなっている。そこはちょうど奥社に至る参道の中間にあたるところであるらしく、幾人かの人が思い思いのかっこうでくつろいでいる。
 気を取り直して、さらに先をめざす。
 やや道が広くなったように思える。このあたりから登る人、下る人の行き来がさかんになる。そのたびに、互いに声をかけあって挨拶をしあう。同じ労苦を体験しているという共感が自然とそうさせるのだろう。
 そうしたなかで意外の感にうたれたことがあった。大人でもかなりきつい山道を元気に登る幼児がいた。飼い主に連れられてせっせと登る犬がいる。家族連れあり、カップルあり、グループありで、それこそ老若男女が入り交じってのお山登りである。
 しばらく行くと富士見台と呼ばれる展望地にたどりついた。その名のように富士の眺めがよい場所であるのだろう。生憎、その時は、雲が出ていて富士の雄姿は望めなかったが、奥社をめざす参拝者が、疲れた身体をいっとき休めるには、格好の場所である。別名、来迎谷ともいい、昔は茶屋もあったという。 
 あと頂上までは八丁ほどを残すばかりである。
 いよいよ頂上が近い気配がする。ここで気をゆるめてはいけない、と自分自身に言い聞かせながら、さらに先を急ぐ。足元がやや心もとない。
 なだらかになった道を歩むとやがて、明治34年建立の青銅づくりの鳥居が現れた。東京神田元岩井町大堀講中の名が刻まれている。銅器職人の講中が青銅の鳥居を寄進したのである。
 最後の胸突き八丁をあえぎつつ登る。やがて、もうひとつ鳥居が現れ、それをくぐると奥社の境内に到達した。あちらこちらで歓声の声があがる。
 奥社の境内はじつに狭いものだった。小さな社殿がふたつ、山頂の地形をうまく利用して建っている。境内を入ってすぐ左に三基の灯籠を目にする。灯籠には、東京谷中講中と刻まれていた。
 赤いトタン屋根をのせた奥社は、千木を立て、鰹魚木を屋根に乗せてはいるが、いかにも山の社を思わせ質素である。千木が外削(垂直)であるのは祭神が男神(大山積命)である証拠だ。  
 大山は昔から雨乞いの霊場として知られていたところである。雨乞いの霊場となったのは、そこが雨の降りやすいところであったためである。それゆえに、昔の人は、そこに雨乞いの神さまが棲んでいると考えたのである。
 私が山頂にたどりついた時も、今まで晴れていた空が急に暗くなり、深い霧につつまれることがあった。雨降山とも呼ばれる大山をあらためて実感したのである。完



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

2023-10-09 00:05:01 | 場所の記憶
 日光山内に秘められる聖なるものの実体とはいかなるものか、それを実感しようと、一日、日光山中をさまよってみた。
 東武線の日光駅を降り、羊羹や湯葉を並べるみやげ屋や手打ち蕎麦屋などが建ち並ぶ、やや登り勾配の参道をしばらく歩くと、やがて、前方に鬱蒼たる緑におおわれた森があらわれる。
 朱塗りの神橋を左手に見ながら大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋をわたる。清涼感がみなぎるのは、瀬音を立てて流れる大谷川の清流を眼下にしているせいかも知れない。これよりいよいよ神域に踏み入るのだという実感が強くわきあがる。
 あたりの樹木がはや色づきはじめている。橋をわたり終えると正面、繁みの中に蛇王権現を祀る小さな祠を見る。
 その昔、日光開山の祖とされる勝道上人一行がこの地を訪れた時に、大谷川の急流に立ち往生してしまった。すると、夜叉のよう な姿をした深沙(じんじゃ)大王があらわれ、手にした二匹の蛇を投げると蛇はたちまち橋に変じ、上人一行は川をわたることができた、という。いわゆる蛇橋(神橋)伝説である。
 勝道上人のことはのちにも触れるが、上人一行が日光を訪れ、大谷川をわたったのは、天平神護2年(766)のことだ。世は天平時代、道鏡が権勢をほしいままにしていた頃である。
 勝道上人が日光を開山したゆえんについては、ある時、夢のなかに、明星天子があらわれ、「汝はこれから仏道を学び、成人したら日光山を開け」と告げられたからだという。
 明星天子というのは、金星のことで、それを祀る星の宮という旧跡が、神橋のすぐ近くにある。勝道上人が日光開山後に祀ったものであるという。 
 無事、大谷川をわたり、山中に分け入ることができた上人は、そののち、とある場所で紫雲が立ちのぼるのを見て、そこに小さな草庵を結ぶことになる。現在、四本竜寺が建つ地で、日光発祥の地とされる場所である。
 今日、日光というと、ほとんどの人が東照宮を想起するのは自然のことだろう。それほどに、日光は徳川家康にゆかりの深い地となっている。が、日光は家康の霊廟がつくられる以前からすでに勝道上人伝説にみるように、聖なる地としてあったのである。家康がみずからの奥津城として、この地を選んだのも、その聖性ゆえであった。
 観光客のほとんどが東照宮の方角に足を向けるのを尻目に、道を右に折れ、人影のない緑陰の奥に分け入ってゆく。すぐに前方に本宮神社と四本竜寺の堂宇が見えてくる。
 古寂びた石段をのぼると、まず目にするのが本宮神社である。唐門、拝殿、本殿といずれも端正なたたずまいで建っている。忘れ去られたような建物だが、いずれも重要文化財になっている。貞享2年(1685)に建立されて以来の社殿という。
 この社が本宮とよばれるのは、男体山の奥宮、中禅寺湖の中宮祠に対する名称で、のちに東照宮の隣に二荒山神社本社(新宮)ができ、二荒山神社の別宮となったのちも呼称は変わらないでいる。それだけに由緒ある建物ということができる。
 陽をさえぎる境内は、まことに深奥という言葉がふさわしく、人影のなさが、それをいっそうきわだたせている。
 さっそく本殿の裏手に足を踏み入れてみる。
 そこは勝道上人がこの地にはじめて草庵を結んだという地で“ある。寄せ棟造りの小さな観音堂と朱塗りの三重の塔がひっそりと建っている。 
 勝道上人がこの地に草庵をもうけたわけについては、つぎのようないわれが伝わっている。
 上人一行がこの地にたどり着いた時のことだ。とつぜん前方に紫雲が立ちのぼり、紫雲はやがて、四つの雲にわかれ男体山の方角にたなびいていった。上人はこの体験から、この地が霊地であることを悟ったという。
 いまも、三重の塔の前には紫雲石とよばれる、四方が平たい石があるが、それが紫雲が立ちのぼったとされる古蹟である。四本竜寺の名の由来もその言い伝えからのものである。  
 四本竜寺をあとにして、柴垣がつらなる、いかにもリゾート風の雰囲気がただよう小道をゆく。 道は北に向かいながら、やがて小玉堂とよばれる小堂にいたる。緑の公園のなかに朱塗りのお堂が建っている。
 そのお堂は弘法大師(空海)にかかわる言い伝えがある。
 弘仁11年(820)、日光山内の滝尾の地で修行していた大師が、この地を通り過ぎたおり、そこにあった池から大小二つの白玉が浮かびあがるのを目撃したという。大の玉はみずからを妙見尊星(北極星)と称し、小の玉は天補星(北斗七星の輔星)と名乗ったという。ありがたく思った大師は、大の玉を妙見菩薩に見立てて中禅寺湖に妙見堂(現存しない)を、小の玉を虚空菩薩の本尊とし小玉堂を建てたとされる。
 この話は、勝道上人が明星天子の導きで日光開山をなしとげ、一方、滝尾神社を創建した弘法大師は北極星にまつわるエピソードに関係している。いずれも日光山域にひそむ星辰信仰をうかがわせるものである
 小玉堂をあとにし、リゾートホテルが散見される広い通りをゆく。このあたり、不動苑とよばれる一帯で、江戸時代、日光参詣に訪れた大名の宿所が建ち並んでいたところだという。そう言われてみれば、土地の風格といったものが漂っている。年をへた赤松が枝を伸ばし、石垣の残骸があちらこちらに残っている。
 せまい通りをたどってゆくと、生け垣にかこまれた別荘風の建物があらわれる。季節の花々が庭を飾っている。道を曲がったところで、大きな犬を二匹散歩させている中年の女性に出会った。
 挨拶をかわし、通り過ぎようとすると、その女性が、「時間があったら庭を見てゆきませんか。この先の木戸をくぐったところが私の家ですので、どうぞ勝手に見ていってください」とすすめる。
 意外な申し出だった。見ず知らずの人間に自邸の庭の観賞をすすめる純朴さに感激した。都会では考えられないことだと思いつつ、何やらすがすがしい気分に満たされたのである。
 東照宮社務所を左に見ながら、さらに北へ向かう。行くほどに左手、木立のなかに朱塗りの建物を見る。 
 山を背にした重層の屋根を置いた宝形造りの建物は開山堂といい、日光開山の祖、勝道上人が祀られている霊廟である。
 弘仁8年(817)三月一日、勝道上人は、この地で八十三歳の天寿をまっとうしたといわれる。その遺体は、上人の弟子たちの手により、開山堂の裏手にある仏岩谷とよばれる巌谷で荼毘に付されたのである。
 ちなみに、仏岩谷は東照宮のほぼ北に接するように位置している。地図を眺めると、勝道上人の墓所(いまは開山堂に改葬されているが)である仏岩谷と家康の墓所とが至近距離にあることがわかる。偶然とは思えない、ある意図が感じられるのである。
 のちの世になって、家康が日光という地にみずからの遺骸を祀るように遺言した、その背景には、日光が古来から聖地として格別の意味をもつ場所であり、風水思想から見ても理想的な位置にあることを認識していたことがあったであろう。いわば、家康の霊廟は、古来からの聖性に守護されてある、ということになる。
 このあたり、東照宮の社域の賑わいと比べると、まるで忘れ去られたように人影もなくひっそりとしている。
 開山堂の堂内には地蔵菩薩が安置されているというが、内部をのぞいても、それらしいものがうすぼんやりと見えるだけであった。裏手にまわると勝道上人之塔と台石に刻まれた五輪塔、それに添うように弟子たちの三基の墓が並んでいる。先に述べたように仏岩谷から改葬された墓である。
 その仏岩谷が切り立った断崖をなして開山堂のすぐうしろに迫っている。崖下に半身を土中に埋めて立つ六部天をかたどった石仏たちが、いまにも動きだしそうな面持ちで並んでいる。
 開山堂のすぐわきに、将棋の駒-それも香車-ばかりを並べる一間社流れづくりの小さな社を目にする。
それは観音堂とよばれる小堂で、香車の駒が奉納されているのは安産に霊験がある駒と信じられているからだという。香車は直進しかできない駒であり、それはすなわち安産につながるというもので、安産祈願に訪れた妊婦が、ここにある香車を借り受けて帰り、出産後に新たにつくった駒とともに返すという習わしになっている。
 “開山堂をあとにしてさらに奥所に足を踏み入れてみることにする。両側に杉の並木がつらなる石畳の道がえんえんと山手の方角につらなっている。
 それは、いかにも散策にふさわしい道で、かたわらに「史跡探勝路」の道標が立っている。その探勝路は空海にゆかりのある滝尾神社にいたるもので、「史跡探勝路」は日光観光協会の指定になるものである。
 奥域とか、奥所とかいう空間概念は、われわれに非日常的なものを想起させる。そこは神秘性がたちこめ、なにかそら恐ろしいものが潜在する場所としてイメージされる。それが山の奥であればさらに近づきがたい印象をあたえ、宗教性を帯びることになった。
 どこまでもつらなる長く細い参道をゆくほどに、ときおり路傍に史跡を見たりする。
 そのひとつ北野神社左手鳥居の奥に巨岩を背にしてあった。
 北野神社となれば、菅原道真公を祀った神社ということになるが、寛文元年(1661)、筑紫の国、安楽寺の大鳥居信幽という人物が、この地に勧請したものという。
 さらにゆくと手掛けの石と名づけられた大岩があり、そなれない大岩がどういうわけか存在していることが不思議がられ、のちの世になって神秘な伝説がつくられたのだろう。
 北野神社に参拝し、この大岩の破片を持ちかえり、神棚に供えると、文字が上達するという。
 苔むした石畳は昔のままの道なのだろう。いにしえ人の行き来した痕跡は、今や摩滅した石畳にわずかに残るばかりだが、“どういう人々が、どのような思いで、この石畳を踏みしめたのだろうかと思うと、ふと不思議な念にとらわれる。 
 人影のない参道はつきるともなく果てしなくつづくようだ。
 やがて、参道の両側にいかにも年をへた巨木の老杉があらわれる。急に周囲の景観が荘厳さを増したように思える。
 これら杉の巨木は、滝尾神社の十五代別当であった昌源という人が植えたもので、今でも昌源杉とよばれているという。以来、数多の杉が、五百年もの年輪を重ねているわけである。
 ようやく参道がつき、滝尾神社の神域に達したようである。
 道の傍らに、「大小べんきんぜいの碑」と刻した石の標柱を見る。それは、これより大小便を禁じる旨を告知した石標なのである。誰にでも読めるようにひらがなで書かれているために、かえって、生々しいものを感じる。今も昔も人間の所業に変わりはないということか。
 かつて、そこには楼門があり、下乗石が置かれ、木の鳥居が立っていたという。
 稲荷川のせせらぎをわたり、左手に古くから白糸の滝の名で知られる小さな滝を見ながら、少し石段をのぼると、平坦な地に出る。右手草むらになっている辺りが、平安時代から江戸の初期にかけて真言宗密教の道場があったところで、「日光責め」で知られる「強飯式」も、じつはここから発祥したという。辺りにいわくありげな岩があったり祠があったりする。いまは痕跡すら残らないが、唱和する読経の声が低く、重く、繁みの奥から聞こえてきそうでさえある。
 前方に石の鳥居があらわれ、その後ろに楼門が見え隠れする。老い杉が林立し、木立がいちだんと密度をます。
 鳥居に近づくと、参拝客が鳥居にむけて、石を投げつけているのを目撃する。見れば、鳥居の額束の真ん中に穴があいている。
 聞けば、その穴に小石を三つ投げてうまく通れば願い事がかなうという言い伝えがあるらしい。運試しの鳥居というニックネームがついているくらいだから、いにしえより、参拝客に親しまれた鳥居なのだろう。徳川三代、家光将軍の遺臣である梶定良という人物が寄進したものというが、遊び心のある人物像がしのばれる。
 重層入母屋造り、漆塗りの堂々とした楼門をくぐると、いよいよ滝尾神社である。入母屋造りの拝殿があり、三間社流れ造りの本殿とつづく。いずれも江戸期のものである。
 いかにも行き詰めたところに鎮座する社の趣がある。紅葉した木々にかこまれて、朱の社殿がいちだんと神々しく映る。
 弘仁11年(820)、弘法大師がこの地に修“行したおりに創建したと言い伝えられる神社である。
 古来から、山岳信仰の霊地として、二荒山神社が男体山の男神を祀るのに対し、滝尾神社は北方にある女峰山と赤薙山(二つの山を結ぶ鞍部の凹形)の二上山の女神(田心姫命)を祀る神社として信仰されたのであった。
 その後、二荒山神社の別宮として新宮(現、二荒山神社)、本宮(神社)とともに日光三社権現のひとつとされるが、それはのちの世になってのことだ。
 かつて、神仏混交の時代には、「院々僧坊およそ五百坊」あったとされるほど栄えたとされる神域は、いまはその面影もなく、ただひっそりと静まりかえっているばかりである。 
 本殿裏手にある三本杉からなる神木のある地に足を踏み入れてみた。弘法大師が修行のおり、天つ神であるところの田心姫命(天照大神の子)の降下があったとされる地。まれは滝尾神社の主神である田心姫命が御手を掛けた岩であると説明書きに書かれてあった。にわかには信じられない話だが、見た、樹間越しに女峰山が遠望できることから、女峰山の遥拝地としても特別な場所とされた。
 空は明るく晴れわたっているが、陽をさえぎる樹林の奥深く眼をこらしてみると、なにやら目に見えない妖気のようなものが立ち込めている気配がする。それはかすかに動くようで動かない。
 ふいに私の身体が重くなったような気がしたのである。 完

画像は滝尾神社









コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

2023-02-19 18:16:31 | 場所の記憶
 富山市の郊外、富山湾に注ぐ神通川の河口にある岩瀬という地区がある。この地は、幕末から明治にかけて北前船交易で栄えた港町だ。そこは富山駅北口から富山ライトレール富山港線という路面電車で約20分のところにある。
 東岩瀬駅という、瀟洒な駅に降りたち、少し歩くと、目の前に閑静な古町があらわれる。街道(旧北國街道)の両側に古風な商家風の建物が立ち並び、いかにも、ここがかって北前船で賑わった地であることをうかがわせる。
 ゆっくりと、通りの左右に注意を払いながら歩を進める。かつて、この通りには廻船問屋が立ち並んでいたというだけに、格式を感じさせる建物群が並んでいる。いずれも二階建ての町家で、東岩瀬廻船問屋型町家とよばれるものである。  
 なかに往時の廻船問屋の家屋をそのままに残している森家という建物があった。明治初年に建てられた、国の重要指定文化財になっている建物である。
 平入りの表構えは、屋根はむくりのついたコケラ葺き、一階はスムシコのはめられた出格子づくり。二階の卯建のついた壁にはこれまた横組みの竹製のスムシコ(格子)が設えられている。
 「むくり」というふくらみのある屋根は、雨水の流れをよくするようにつくられた日本の伝統的屋根のつくりのひとつである。そして、一、二階の窓のスムシコ。内側から外は見えるが、外からは内が見えない構造になっている。
 内部は前庭を備えた三列四段型で、家屋の裏手にある船着場に通じる通り庭(土間廊下)があり、それに沿って、表から順に母屋、道具蔵、米蔵、肥料蔵と続いていたが、今は、母屋と道具蔵だけが残る。オイとよばれる母屋(居間)は、吹き抜け天井にはむき出しの梁が行き交い、重厚な雰囲気を醸し出している。
 森家の家屋構造を見学して気づいたことがある。そこにつくられている独特の空間概念というものである。それは奥と隙間にあらわれている。人と物との関わりが合理的につながるような空間のつくりである。
 この森家だけでなく、馬場家、米田家、佐藤家、佐渡家、宮城家などといった旧家が今も残り、家の形を残したまま、カフェやギャラリー、土産物店などを営んでいる。
 時が止まったような界隈ではあるが、往時、この通りは人馬行き交う賑やかな通りであったのだろう。そんなことを想像しながら、店を覗きながら、そぞろ歩いていると、なんとも楽しい気分になってくるのである。
 街並みは町の歴史や文化を、そこを訪れる者に語りかけてくれる最良の表現体だ、ということをどこかで聞いたことがあるが、なるほど頷けることである。
 昔町はなぜか懐かしい。どこか床しい。








コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

2022-12-09 20:22:52 | 場所の記憶

 慈覚大師がはじめてこの地を訪れて霊地として開山したと伝えられる恐山は、ひょっとすると、大師が発見する以前からそのような場所性をもちあわせた地であったのではないか。私にはそう思えたのである。
 岩原のなかにつくられた巡拝道は順路があってなきがごとしであった。あちらこちらで噴気がたちのぼり、硫黄の臭いがたちこめる中を右に曲がり左に曲がりながら歩んでゆく。ふいに、「ここはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる」の「地蔵和讚」の一節が浮かびあがる。草木も見当たらない巡拝路はまさに冥界のなかをさまよう気分である。
 ひときわ大きな岩のかたまりには「無間地獄」という名がつけられていた。無限につづく地獄。それはどんな地獄なのか。現世にあるものなのか、はたまた来世にあるものなのか。
 慈覚大師坐禅石という場所があった。そこには大きな卒塔婆が二基立っていた。大師がそこで坐禅を組んだといわれる台状の石の上には大小の石が無数に積まれている。
 慈覚大師は恐山を開山した人物として知られている。開山のいわれについては、修行中の大師の夢枕に、ひとりの高僧が立ち、「汝、国に帰り、東方行程三十余日の所に至れば霊山あり。地蔵尊一体を刻し、その地に仏道をひろめよ」とご託宣したことによるという。大師がそのご託宣にしたがって、この地を開山したのは貞観4年(862)のことである。 
 あたりをカラスの群れが徘徊している。急に空がかき曇ったかと思うと、また風が起こった。いまたどって来た道をもどり、さらに先をゆくと、少し高くなったところに大師堂があらわれた。
 トタン屋根の小祠には、赤い帽子をかぶったお地蔵さまが安置されていた。お地蔵さまのかたわらに置かれた幾つもの風車が、風をうけてせわしなくカラカラとまわっている。そのカラカラとまわる音が妙に寂しく、悲しく感じられる。
 いましも賽銭をあげ、頭をたれる人がいる。そのそばで記念写真におさまる人がいる。すぐ前方に、大師説法之地と記された背の高い石の卒塔婆が見える。空、風、火、水、地の文字が鮮やかだ。
 その先に異形の地蔵尊が立っていた。それは明らかに兵士の姿をしている。そばに近づいてみると英霊地蔵尊とあった。
 軍服を着、脚にゲートルを巻いたお地蔵さんは手ぬぐいで頬かぶりしている。しかも、右手のこぶしを力強く握りしめている。
 この前の戦争の出征兵士の姿だろうか。いかにもこの地方を代表する農民兵らしく、土俗的な印象が強い。おびただしい数の戦病死者を供養するために建てられた地蔵なのだろう。
 宇曽利湖の湖岸に近づくほどに草地になり、紅葉した木立があらわれる。その中に血の池地獄と呼ぶ地獄があった。どんな血の池があるのか。興味をそそられてそちらの方に足をむける。
 が、その血の池地獄はただの池だった。しかも小さな池は静まりかえり、池の底にはたくさんの小銭が沈んでいた。血の池とはずいぶんおどろおどろしい名前をつけたものだと思う。
 ふいに鐘の音がひびきわたった。のどかなひびきである。ほっとする気分にさせてくれる鐘の音であった。
 それは近くにある八角堂の鐘であった。死者が集まるという八角堂の裏手にある鶏頭山が真っ赤に紅葉している。紅葉を背景にしたお堂はなつかしいふるさとのたたずまいである。
 血の池地獄をあとにして宇曽利湖岸に向かう。明るい陽があふれている。湖岸に近づくと賽の河原があった。
 あの世に至る一里塚である賽の河原。それに見立てた河原には小石が積まれ、それが小山になっている。「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため」と幼な子が積んだとされる小石である。そこにもお地蔵さんが立っている。
 巡拝路のほとりにあった、「人はみなそれぞれ悲しき過去を持ちて賽の河原に小石を積みたり」(栄一)という石碑に刻まれた言葉をふと思い出す。
 見立てといえば、宇曽利湖をとりまくように連なる地蔵、鶏頭、剣、大尽、小尽、北国、屏風、釜伏などの山々はさしずめ蓮華八葉ということらしい。
臨死体験というものがある。死のふちをさまよった人が、その朦朧とした意識のなかで体験する世界である。
 夢のような現実のような、取りとめのない幻覚めいたものなのだが、それを体験した人は、みな同じような体験内容を告白する。暗く深いトンネルをぬけると、とつぜん、ぱっとまぶしい光の世界のなかに飛びこんだ。見ると、目の前に色とりどりの花が咲くお花畑がひろがっていた、というものである。
 いま、宇曽利湖の湖岸に立って、あたりの景色を眺めていると、花こそないが、この地こそ臨死体験者が見た世界に近いのではないか、とそう思えてきたのである。
 賽の河原に地続きの、湖岸にひろがる白砂の浜は極楽浜と呼ばれている。いままでたどって来た荒涼とした景観とは対照的な穏やかな風景がひろがる湖面が陽をうけてきらきらと輝いている。さきほどまで激しい霙に見“舞われていたのに、いまは、まるで嘘のように晴れわたっている。 
 八角堂の方角から、また鐘の音がひびきわたってくる。時の流れがとまったような一瞬である。遠く人影がゆっくりと動くのが見える。(極楽浄土とはこんなところかな)とふと想う。
 紅葉をまとった山々が陽に映えてひときわ彩りをましている。心に染みわたる風景というのは、こうした風景をいうのだろう。
 極楽世界を見たあとは、一転して地獄世界があらわれる。そこは、あたり一面、荒々しく岩が露出し、あちこちで音を立てながら噴気がある地で、硫黄の臭いがつんと鼻をつく地獄谷と呼ばれる一帯である。
 賭博地獄、重罪地獄、金掘地獄、女郎地獄、現世にあるありとあらゆる地獄を想起させるような小地獄の連続である。    
 危うくも地獄におちるのをまぬがれた人、ようやくはいあがった人、地獄の中で苦しみながらも光明を見いだそうとしている人。地獄に見立てた疑似地獄は、それを見る人に卒然と何かを訴えてくる。
 目をあげると、地獄谷から峰をのぼりつめた地点に一体の地蔵尊が立っていた。それは、この恐山の主体ともいうべき延命地蔵尊で、右手に錫杖をもって、すっくと立っている。 
 この恐山を夜な夜な歩きまわり、冥界をさまよう女や子供がいると救いの手をさしのべるというお地蔵さまである。
 いまにも動き出しそうな延命地蔵尊を見やりながら、硫黄の臭いのたちこめる地獄谷をあとにして、五智山と命名された小丘にのぼった。そこはこの地のオアシスともいうべき場所でシャクナゲの群落があった。花の季節にはシャクナゲが美しく咲きほこるのだろう。
 丘上にひょうきんな表情をした五体のお地蔵さんがならんでいた。細流が流れ草木が繁っている。
 眼下にひろがる宇曽利湖が暗鬱な紫紺色をおびて鈍く光ったいる。ときおり、降りそそぐ陽の光のかげんで、鮮やかなライトブルーに変じたりするが、いかにも北国の湖を想わせて寒々しい。
 波打ちぎわに白い波が立っている。波のくだける音が遠くから聞こえてくる。ぼんやりと浮きあがったように見える極楽浜の白い砂浜が陽をうけてきらきら光っている。湖面の青と、白い砂浜、そして、それをとりまく色とりどりに紅葉した山々。色彩のとりあわせが妙を得て、風景に深いあじわいをつくりだしている。
 ふいに、ぞくっとするような冷たい風が吹きあがってきた。(さきほど目にした霊泉に入ろう)私は境内の一角にあった霊泉を思い出していた。身体も冷えきっていた。冷え抜き湯と呼ばれるその簡単な板囲いの温泉には人影はなかった。冷えきっているだけに熱さが身にしみる。ほの暗い闇の中で、じっと湯船にひたっているとみるみる暖まってきた。ぬるりとした肌触りがなんとも心地よい。
 ときおり、吹きつける風が板戸をガタガタとゆらす。一瞬、立ちこめる湯気の中を、恐山の霊気がさっと吹きぬけたような気がした。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

2022-12-02 21:46:08 | 場所の記憶

 野辺地からたった一輌の気動車にゆられ、いよいよ恐山に向かうことになった。以前から一度は訪ねたいと思っていた恐山である。
 下北半島は、よくマサカリの形をしていると形容される。そのマサカリの本体部分に向かって気動車は進む。
 この大湊線は、ほぼ海岸部にそって走る鉄道のように地図を眺めると思えるが、車窓から海を見わたせる箇所はじっさいはそれほど多くはない。
 そんななかでも、はるか海のかなたの水平線上に、たなびく雲かと見まがう陸地が連なるのを見ることがある。
 それにしても素朴な海岸風景である。人影のない砂浜にうち寄せる波。船小屋だろうか。苫屋がひっそりと建っている。そのそばに小さな船がつながれている。海辺といえば、このような風景が昔はよく見られたものであった。
 小一時間ほど走ったあと列車は下北駅に着いた。すでに、あたりに夕闇がただよう時刻になっていた。ホームのわきに、「JR東北の最北駅下北」の表示があった。はるばるやって来たな、という感慨がしきりにわきおこる。
       
 朝早く宿を発ってバスで恐山にむかった。十月の下旬ともなれば、朝の冷えこみはひとしおである。
 市街地をぬけると、すぐに山勝ちの道になった。しだいに勾配をあげてゆくのがわかる。
 車窓の左右に杉の叢林があらわれる。いかにも樹齢をへたと思われる老杉がなかにまじる。やがて、杉林は雑木林になり、そのうちヒバの林に変わる。ヒバの林はいずれも原生林である。
ヒバはヒノキの仲間であるが、北国の厳しい寒さのなかで育つためかヒノキよりも粗削りで、自然の植生のためか大柄に見える。
 長坂と呼ばれるだらだら坂をゆく頃には、これからいよいよ霊地に赴くのだという実感が強くわきあがる。
 赤い衣を着せられた地蔵や町塚と呼ばれる石の里程標を路傍に見かけたりするためだろうか。
 往時、この道を大勢の信者がかよったという。かれらは麓の宿を夜明け前に発つと、その足で、まだ暗い道を鈴を鳴らし、ご詠歌を唄いながら歩んだのである。
 車窓左手を望むと、すでにうっすらと冠雪した山が見える。釜臥山だろうか。
 風情のある赤松の林に入ったかと思うと、冷水(ひやみず)という地にたどり着いた。
 バスはここにやってくるとかならず停車し、そこにわき出る冷水を飲むらしい。
 ぞろぞろとみな車を降り、手勺をとって、筧から流れ出る水を神妙に口にそそぐ。その水を飲めば長命は間違いなし、とのご託宣を聞けば、誰もが一杯飲んでみたい衝動にかられるというものだ。それが人情というものだろう。
 ふたたび車中の人となる。やや下り勾配の七ツ七坂をゆき、湯坂というところを過ぎると、突然目の前に広い湖があらわれた。それが宇曽利湖であった。
 寒々しい宇曽利湖のほとりに出たバスは、ほどなく三途の川に架かる朱色の太鼓橋を左に見てから恐山の総門前に到着した。  
 
 バスを降りると硫黄の臭いが鼻をついた。それだけで異風の地にやって来たな、という実感を強くする。
 霧で白くかすんだ視界の先に恐山の総門が見え隠れしている。あたかもたちはだかる総門。その総門の前に立つと、いま自分は冥界を前にしている、これよりいまだ見ぬ世界に足を踏み入れるのだ、という思いがひしひしとわきあがる。
 砂利を敷いた参道が目の前にまっすぐに直進している。その途中に山門があり、その奥に地蔵堂が見える。
 参道をゆっくり歩んでゆく。参道の両側にうがたれた溝から湯気が立っている。湿り気をふくんだ硫黄の臭いがいちだんと強くなる。
 ふいに空がかき曇ったかと思うと、霙とも飃ともつかないものが落ちてきた。それとともに一陣の風が巻きおこった。恐山に似つかわしい臨場感が満ちる。
 私は、ここを訪れる前から恐山の風景をいろいろ思い描いていた。私にとって、恐山というところは、幽明の境にあるような輪郭のおぼろな場所でなければならなかった。いま目の前にする恐山それにふさわしかった。

 参道の両側に永代常夜燈がずらりと立ち並んでいる。さきほど前方にあった二層の山門が目の前に近づいてくる。それをくぐり、さらに奥へとつきすすむ。
 大きな黒い翼をひろげながらカラスが飛びかっている。ずっと以前からここの住民ででもあるかのようだ。
 巨大な卒塔婆がひとかたまりになって立っているのが見える。それが亡者の黙祷する姿のように思えて、そら恐ろしい気分になる。ここがただならぬ場所であることをあらためて知らされる。
 参道のはてに地蔵堂があった。恐山を訪れる参拝客がまず参拝する場所である。
 いましも、三々五々訪れた参拝客が思い思いにお賽銭をなげ、なにごとか願をかけ、無心に手をあわせている。
 この地蔵堂に安置されている本尊は延命地蔵尊である。地蔵尊とは母なる大地そのものの心をもち、衆生の痛みをわが痛みとして受けとめてくれる菩薩であるとされる。
 なかでも延命地蔵は、人々の命が永からんことを願い、短命や不幸の魔の手から防いでくれる菩薩であるという。
 ついでながら、本尊の唐胴の延命地蔵尊は竹内徳兵衛という船頭が江戸期に寄進したものと伝えられている。この徳兵衛という人物は、のちに嵐で船が難破しカムチャッカに漂着。その後ロシアで生きながらえたが、ふたたび日本に帰ることがなかったという。遭難したのは延享元年(1744)のことであった。
 裏山の地蔵山や剣の山が紅葉して鮮やかに陽に映えている。

 いよいよ地獄めぐりのはじまりである。ごつごつとした岩原の間をぬうように歩むと、ここかしこに石の地蔵があらわれる。恐山に集まった亡者が無事三途の川をわたり、極楽に行き着くように見守ってくれているというお地蔵さんたちである。
 死んだ者の霊魂がかならずこの恐山にやって来ると信じられている山。恐山は死の山なのである。あの世へ逝った者の霊を呼びもどすというイタコの口寄せもここならではのものなのである。
 恐山という名のそもそもの由来はアイヌ語のウソリからきているという。ウソリとは、窪地を意味し、宇曽利から恐山と転じたものらしい。
 以前に、恐山を上空から撮した写真を見たことがある。そこには緑につつまれた宇曽利湖があった。ところが、その湖のほとりの一角に、そこだけ緑を欠いた、灰白色の岩原がひろがる場所があった。それは見るからに特異な景観に思われた。
続く
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍馬遭難の地の記憶ーその2

2022-11-15 19:15:37 | 場所の記憶
不思議な因縁だが、この伊東は、龍馬が暗殺された数日前に、龍馬を訪ね(伊東は龍馬の隠れ家を知っていたのである)新撰組が狙っているので身辺を警戒するように忠告している。
 その伊東が、龍馬暗殺の三日後、こともあろう、新撰組の手に掛かって惨殺されたのである。その日は奇しくも坂本、中岡の葬儀が行われた日であった。
 葬儀は坂本、中岡、下僕の藤吉等3名の合同葬としてとり行われた。夕刻、近江屋から三つの棺が出て、それらを海援隊や陸援隊士がかつぎ、その後を、土佐、薩摩の藩士が列をなし、葬列は二町ほど続く盛大なものだった。
 葬列を幕吏が襲うかも知れないという情報があり、拳銃を懐に刀の鯉口を切って行く者などがいて、悲壮の感が漲っていたという。
 そして、遺骸は、東山の高台寺の裏山墓地に手厚く葬られたのである。墓標の文字は桂小五郎の揮毫によった。

 いずれにしても、この伊東の証言で、その後、久しく新撰組が疑われることになった。 
 坂本、中岡の出身母体である土佐藩は新撰組に嫌疑をかけて、時の幕閣永井尚志に事件の真相解明を迫っていた。永井は新撰組局長、近藤勇を呼び寄せて、この一件を糾した。が、近藤は関与を否定した。
 実は、永井は以前から将軍慶喜より、大政奉還の立役者である坂本には手をつけぬようにと忠告されていた。永井自身、坂本と面識があった。この件について、下役に伝えようとしていた矢先の龍馬暗殺だった。
 新撰組にかけられていた嫌疑は、翌年の慶応四年の近藤勇の処刑にまでつながるのだが、事実は、新撰組はこの一件にはかかわりがなかったのである。
 実行者の名が具体的にあがったのは幕府崩壊後のことだった。
 これも元新撰組の幹部、大石鍬次郎という者が、自分は事件直後、局長の近藤から、坂本を仕留めたのは、京都見廻組の今井信郎、高橋某らであると耳にしたことがあると証言したのである。 
 この証言をもとに新政府は二人の行方を探索した。 
 すると、今井については、函館の五稜郭で降伏した、旧幕軍の将校のなかにいることが判明した。ただちに再逮捕され、厳しい尋問のすえ真相が明らかになった。
 今井の供述によると、坂本、中岡を殺害したのは、京都見廻組の者たちであり、実行者は、指揮者の佐々木唯三郎はじめ、渡辺吉太郎、桂隼之助、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎、それに自分の計七名である、と告白した。
 今井の証言によれば、実際に手を下したのは自分ではなく、自分は見張り役をしただけだという。この当時、今井のほかは佐々木をはじめ、すべて鳥羽伏見の戦いで戦死していたのである。今井の供述しか頼るものがなかった。のちに、今井には軽い禁固刑が下されて、この件は一件落着を見たのであった。
 この件に関して、平成六年十月、桂隼之助の子孫の家で新発見があった。家の箪笥から錆び付いた一振りの小刀が出てきたのである。血痕を調べてみた結果、龍馬の血痕と一致した。これで直接龍馬らを襲った刺客のうちの一人が桂であることが確定した。桂は特殊な二刀流の免許皆伝の持ち主で、右手に小太刀を使う名手だった。
 ここで幕末の河原町界隈を幻視してみることにする。 
 一帯は下京に属する町人の多く住む地域で、市内いちばんの繁華な場所であった。これは現在も同じで、四条通りと河原町通りが交差する四条河原町は京都随一の繁華街になっている。
 北に三条通りが東西に、南に四条通りが同じく東西に走り、この間を西から河原町、木屋町、先斗町通りが並行して南北に連なっている。
 これら通りにはそれぞれ特徴があった。
 三条通りには、池田屋をはじめ大小の旅籠が建ち並んでいた。一方、四条通りには道具屋や小間物屋が店舗を並べていた。
 また、河原町通りの西側には土塀をめぐらせた社寺の堂宇が、東側には各藩の藩邸がいかめしく建ち並んでいた。
 通りに沿って商家も点在していたが、四条通りのような賑わいはなく、昼間でもひっそりとしていて、夜になれば実に寂しい通りと化した。近江屋のあった場所もそのようなところで、建物のすぐ裏は誓願寺という寺の境内につながっていた。いざというときには、この寺に逃げ込む梯子が龍馬のために用意されていたといわれている。
 現在、この寺の敷地は往時と比べてずっと狭くなっているが、この界隈、裏寺町と呼ばれるように、幾つもの寺社が建ち並んでいたのである。
 これとは対照的に高瀬川に沿う木屋町通りや先斗町通りはお茶屋や料亭の密集する紅灯の巷だった。今も先斗町通りは京情緒がただよう希少な一角になっている。市中のほとんどの店が、夜の八時頃になると店を閉めるというのに、ここだけは例外だった。
 そのような繁華な場所で幕末、殺傷事件が頻発したのである。文久年間からはじまった血で血を洗う尊王攘夷派の過激浪士たちによる天誅と評するテロ行為の現場になったのも、この界隈であった。また、三条河原では天誅で倒れた人間の生首が晒されたりした。
 龍馬が京に足を踏み入れたのは、血なまぐさい事件が起きていたそんな時だった。その後、ふとしたことから知り合うことになる、のちに龍馬の妻となる、おりょうとはじめて出会ったのもこの場所であった。おりょうの実家(医者)は三条下ル柳馬場にあった。さらに、隠れ家として使っていた酢屋も近江屋も、さらに土佐藩邸もみな河原町界隈にあった。
 このことから、龍馬に馴染みのあった京の町は、河原町界隈というごく限られた場所であったことが知れる。
 時代が変わるなか、古都京都の町のたたずまいも大いに変化した。特に、町の中心部の変貌は急激である。かつての瓦屋根の家はほとんど消えて、今はどこにでもあるようなビルが櫛比している。夜ともなればきらびやかなネオンが瞬く町になる。
 とはいえ、幕末期の歴史的事跡を町の中に探し歩くと、今でも町角や川沿いに当時を記録した石碑を発見する。
 河原町通り沿いの近江屋のあった場所には、現在「坂本龍馬遭難碑」が立っているし、木屋町通り沿いには、中岡慎太郎の寓居跡、また、高瀬川のほとりには土佐藩邸があったことなどが印されている。
 ひっそりと立つそれら碑は、そこが過ぐる日、激動の地であったことを告げていて、あらためて場所の記憶というものに思いをいたすことになるのである。
 
タイトル写真:霊山神社内の坂本龍馬・中岡慎太郎像




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

龍馬遭難の地の記憶ーその1

2022-11-06 10:45:48 | 場所の記憶
 京都はすでに冬の気配であった。冷たい雨が朝からしとしと降りつけていた。鴨川の川面を吹き抜ける風が橋をわたる人の頬を凍らせた。 
 今しがた、雨装束で四条大橋を渡って行く黒い一団があった。橋の途中まで来ると、何を思ったか、彼らは雨装束を川に投げ捨てた。皆一様に押し黙っているが、そこには鋭い殺気が漂っていた。
 慶応3年11月15日(新暦12月10日)の夜、今の時刻でいえば八時過ぎのことである。四条通りにはまだ、雨中とはいえ人影が多く行き交っていた。
 黒い一団は、橋をわたり終えると、四条通りを進み、河原町通りを北に歩いた。そして、蛸薬師下ルところにある醤油商近江屋の前でぴたりと止まった。
 主立ちと思われる男がなにごとか指図すると、あらかじめ決めてあったのであろう、三つの黒い影が客を装う風にして店の中に押し入った。
 店の中に押し入ると、ひとりが「十津川郷士の者でござる。才谷先生はご在宅か」と、下僕である相撲取り上がりの藤吉に名札を渡し、面会を求めた。 
 藤吉はその名札を受け取り二階に上がり、取り次ぎを済ませたあと、再びふたりの男を先導して階段を上って行った。
 その時である。いきなり一刀が藤吉の背後から振り下ろされたのである。藤吉はもんどりうってその場に昏倒した。すると、二階の部屋の主が、叱りつけるような低い声で、「ほたえな」と叫んだ。それで二階の部屋に人がいることが確認された。
 二人の男が階段を忍び上ってゆく。狭い廊下をすり足で進み、そのうちのひとりが一番奥の部屋の障子をそっと開けた。
 男たちはぬっと部屋に押し入るや否や、「坂本さん」と声をかけた。薄暗い部屋の中には二人の男が火鉢を囲んで話し込んでいた。その声に応えるように、そのうちのひとりが、行灯を手にとって男たちに振り向けた。それで、その人物が坂本であることが知れた。
 賊は部屋の中のどちらが坂本であるかを確かめようとしたのであった。あくまで坂本という人物が目的であることが知れる。
 坂本は初対面のことでもあり、身元を確かめようとしたその時である。「こなくそ」という鋭い怒声を浴びせて、賊のひとりの小太刀が力強く横ざまに払われた。寸分の狂いもない太刀さばきだった。
 「こなくそ」という言葉は、伊予(愛媛)松山地方の方言で「こん畜生」を意味した。のちにこの言葉が下手人探索の中でいろいろ憶測されることになった。しかし、この言葉を聞いたのは瀕死の状態であった中岡であるので、不確かな部分も感じられる。
 不意の闖入であったために部屋にいた二人はたちまち斬り倒された。坂本は前頭部を左から右に深く斬りつけられ、中岡は後頭部を斬りつけられ昏倒した。
 坂本は、いったんは前頭部を斬られたが、身を退けて、床の間に置いてあった太刀を取ろうと、後ろ向きになった。すると今度は後ろから袈裟懸けに二太刀目を浴びた。
 坂本はそれにも屈せず、鞘のまま相手の刀を受け止めようとしたが、三太刀目を浴びた。今度は前額を右から左に、脳漿が飛び出るほどになで斬りにされたのである。坂本は苦痛に満ちた、奇妙な声を発して意識を失った。
 部屋の中はまたもとの静かさにもどっていた。
 坂本と中岡を沈黙させると、刺客のひとりは謡曲を謡いながら去っていった。これは虫の息の中での中岡の証言である。
 賊が去ってからほどなくして、坂本と中岡の二人は意識を取り戻した。坂本は気丈にもよろめきながら行灯を提げ階下の人を呼んだ。が、家の中は静まりかえっていて、応答する者はいなかった。中岡は這いながら隣の家の屋根に逃げのびた。このあと坂本は絶命。中岡は深手ながら意識はあったが、二日後に命を落とした。
 表通りをお陰まいりの群衆が「ええじゃないか」を唱えながら通り過ぎて行った。刺客たちの黒い影はその渦にまぎれて消えていった。大政が奉還されてから一カ月余りたった後の出来事だった。
 こうして維新の立役者があっけなくこの世を去ったのである。坂本龍馬33歳、中岡慎太郎31歳。皮肉なことに龍馬はこの日が誕生日であった。
 二人の暗殺はさまざまな憶測を呼んだ。
 河原町の隠れ家に龍馬がいることをどうして刺客が知り得たのか、という疑問が取り沙汰された。内情を知る者の密通があったのではないか、とも噂された。
 当時、龍馬は、市内に幾つかの隠れ家ともいうべき場所を確保していた。いずれも市中のど真ん中にあり、古巣の土佐藩邸にも近かった。時と場合に応じて龍馬は隠れ家を転々としていた。それだけ警戒をしていたのである。近江屋に移るまでは、三条下ル一筋目東入ル、材木商酢屋嘉兵衛宅に寄寓していた。が、そこも幕吏の手が伸びて危険だというので、近江屋に身を隠していた。
 殺害されたその日は風邪気味で、近江屋の裏庭にある土蔵の一室で休んでいた。が、龍馬は土蔵の部屋は窮屈で嫌だといって、母屋の二階の八畳間に移り、真綿の綿入れを重ね着て、火鉢で暖をとっていた。
 そんな中、幾人もの来客があった。中岡慎太郎もそのひとりだった。彼が龍馬とともに刺客の手にかかったのは偶然のことだろう。刺客はあくまで龍馬が狙いだった。中岡はそれに巻き込まれたのである。
 疾風のごとく通りすぎていった暗殺団。彼らの正体は、その後、容易には知れなかった。
 現場には黒鞘の刀が一本と二足の下駄が残されていた。下駄には焼印が入っていた。一つは下河原町にある料理屋のもので、もうひとつは祇園にある中村屋のものだった。二つとも、日頃土佐藩の者がよく出入りする店だった。
 それにしてもこの事件には偽装工作とも思える遺留品が多い。これほどまでに目くらませの必要があった龍馬暗殺だったのだろうか。それが気になる。
 黒鞘の刀については、龍馬暗殺直後、現場に駆けつけた元新撰組の幹部、伊東甲子太郎という者が、それは新撰組の原田左之助所有のものだと証言した。原田の出身は伊予松山藩で、刺客のひとりが、「こなくそ」と松山方言を使ったということで強く疑われた。 続く
タイトル写真:京都霊山護国神社内 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香幻想ーその2

2022-10-20 09:39:15 | 場所の記憶
 甘橿(あまかし)の丘を間近に見る飛鳥寺は、のどかな田園の中に建っている。時折、観光バスでやって来た団体客が一塊になって寺を徘徊するが、それもいっときで、またもとの静かな静寂が戻る。
 境内を抜け、甘橿の丘を望む寺の裏手に出ると、そこには蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がぽつりと立っている。南北朝時代になって建てられたものという。
 蘇我入鹿が誅殺された現場・板蓋宮大極殿跡は、現在は史跡公園になっている。そこは北方向を除いて、三方を小丘に囲まれた見晴らしのいい野っ原で、ほぼ真北に天香山を望み、西に飛鳥川が流れ、そのほとりには甘橿丘のこんもりとした山影を視野に収めるという場所である。今そこに立ってみても、かつてここに大極殿が建っていたなど想像もできない。山間の田舎びた野面の盆地風景が広がるばかりである。
 不思議なことだと思う。遠い昔の出来事とはいえこれほどまでに様変わりして、ただの平凡な草原に帰ってしまっている場所があるということが。
 過去はとうの昔に消え去ってしまって、今この世に生きる人は誰ひとりとして、遥か昔の、この地のありさまを目にした者はいない。それ故にと言えるかも知れない。その地に埋め込まれた過去の記憶が、さまざまな想像と憶測をからめて、色とりどりの形をなしてよみがえってくる。
 一説によれば、中大兄皇子が蘇我入鹿を倒したといわれる、いわゆる大化の改新というものは、実際はなかったのだ、という。そうなると蘇我氏の排除というものは、血生臭い出来事によってではなく、もう少し政治的な陰謀のなかで行われたことになる。となると、『日本書紀』に記録されているような宮殿内でのクーデターが語り伝えられているは、正が邪を討伐するという、勧善懲悪物語として作り上げられたものなのか。
 のどかな陽が満ちる野面に立って歴史の虚実を想っていると、複雑な思いがこみ上げてくる。古代王朝が置かれていた頃、この地は権力争いが生臭く渦巻いていたのである。だが、それらのことがまるで嘘のように、今そこは平和なたたずまいに包まれている。
 皇極帝の宮があったと伝えられる板蓋宮跡と県道を隔てて、ひときわ伽藍の大きな寺があるが、それが橘寺である。
 この寺は聖徳太子の生誕地として知られるところだ。太子の誕生は西暦五七二年のこと。それから二十一年後、太子は成人し、時の女帝推古帝の摂政として歴史の表舞台に登場する。
 この推古帝は時の権力者蘇我馬子の姪であり、太子も馬子の血筋をひく係累であった。さらに推古帝は太子の叔母にあたる関係にあった。この蘇我馬子の直系である蝦夷、入鹿が五十年後の六四五年滅ぼされることになる。いわゆる、大化の改新である。
 そもそもこの地は太子の祖父にあたる欽明天皇の別宮があったところで、太子の父(用明帝)もここを別宮として住まわれていた。その因縁で、太子誕生の地として伝えられているのである。
 別宮であったものを尼寺として改造したのは太子その人で、寺の縁起によれば、当初は東西八七一m、南北六五〇の寺域に、金堂、講堂、五重塔をはじめ六十六もの堂宇が建ち並んでいたという。現在みる伽藍からは想像もできない。
 寺名は、この辺りが橘の白い花の咲く里であったところから由来するもので、別宮も橘の宮の名で親しまれていた。ちなみに、橘はミカンの原種といわれ、これには次のような言い伝えがある。
 『日本書紀』によると、橘は、垂仁天皇の勅命を受けた田道間守(たじまもり)が不老長寿の秘薬として、常世の国から持ち帰ったもので、その種をこの地に撒くと、やがて芽が出て立派な樹に育ったというのである。それ以来、この地は橘の里と呼ばれるようになったと伝えられている。
 現在、寺の正門にあたる東門から境内に足を踏み入れると、突き当たりに本堂が見える。およそ三八mの高さがあったと推定される五重塔の跡地は、参道の左手にあり、そこには塔の心礎であった土壇が今も残る。
 太子にまつわる幾つかの伝聞が残る、静かな寺の境内に佇んで瞑目すると、爽やかな風が頬を撫でてすぎてゆく。落葉を焚く煙がどこからともなく漂ってくる。
 いわゆる飛鳥時代と呼ばれているのは、推古帝から文武帝までの九代、ほぼ一二〇年近くの時期をいう。その間、二度ほど都が飛鳥以外の地に移されたことはあったが、代々の天皇が即位した都はすべて飛鳥の地に置かれた。
 推古帝の豊浦宮、小墾田宮(おはりだのみや)、舒明帝の岡本宮、皇極帝の板蓋宮、斉明帝の川原宮、天武帝の浄御原宮(きよみはらのみや)、持統帝、文武帝の藤原京といった具合に奠都を繰り返したのである。
 今、これらの都のあった場所を地図の上で確認すると、ほとんどが飛鳥川の流域に点在していることが分かる。平坦な川の流域は建物を建造するにふさわしいし、第一、水利の便がいい場所は、物資の流通に好適であるという実利的な理由があったのだろう。
 が、それ以上に、古代の飛鳥人は、飛鳥川の流れにある意味をもたせていたのではないかと思われてならない。それは現世と他界を結び付ける聖なる場所としての明日香川の存在である。
 次に訪れたのは、飛鳥寺の北西方向に小高く盛り上がる甘橿丘(標高一四八)であった。古くから神奈備山として崇められた山である。神秘的な山として崇められたこの小丘は、こんもりとしたその形といい、雑木の植生といい、神が宿るにふさわしい山容を呈している。飛鳥人がこの山を特別視した理由が分かるような気がする。
 地図を眺めてみると飛鳥の平野部のほぼ中央に位置し、地の利の良さがうかがえる。当時の一等地であったのであろう。豊浦という響きの豊かな地名がそれを表している。そして、その丘の麓には蘇我氏の大邸宅があった。大化の改新で滅ぼされた蝦夷、入鹿親子の時代である。
 現在歴史公園に指定されている甘橿丘は、大和三山を一望するにふさわしい展望地で、この丘に立つと、北に天香久山、耳成山、西に畝傍山を望むことができる。
 ところで、よく飛鳥の地を言い表す際に、大和三山に取り囲まれた地というが、この丘からの実際の眺めはそうした表現からはほど遠い感じがした。 
 というのも、それぞれの山の位置が離れすぎているためと、標高が二〇〇mにも満たないために、取り囲むという景観にはなっていないからである。
 とはいえ、古代の飛鳥人がこれらの山々に特別な感情を抱いていたことは間違いない。特に、天香久山はそうであった。「大和には群山あれど、とりよろふ天の香具山」と舒明天皇によって讃えられたほどの山なのである。
 王朝人が詠った歌のなかにも天香久山はしばしば登場する。天香久山は他の二山とは異なって独立峰ではない。形もよくない。多武峰の山つづきになる端山である。
 その山が特別の意味をもっていた理由は、そこが国見山として選ばれていたためであった。国見とは、支配者が山の上から地上を眺め下ろすことで、地上を支配する力を身に帯びる儀礼として行われたものである。
 そもそも高い峰つづきの、しかも前方に大平原を望む端山は、天から降り立った神が、地上に足を踏み入れる最初の場所、即ち、国原を見渡すに最適な場所として理解されたのである。そうした聖なる場所にあやかった国見であった。
 それにつけても、飛鳥という地は、日本人の風土感覚にぴたりとあう土地だと思う。周囲の山々がどことなくなだらかで、柔らかく、それらの山々に囲まれて、ちょうどよい広さの平野が広がり、川が流れ、それはまさに山間処(やまと)の地なのである。
 この凹型的風景の中をさ迷っていると、いつしか言い知れぬ安堵感に包まれてくる。ずっと昔、こうした風景に親しんだことがあるような錯覚にとらわれるのである。不思議なことだと思う。
 丘に登り、谷をわけ、田園の中を歩き回っていると、いかに飛鳥という地が古代の土俗的な雰囲気に溢れたところかが分かる。
 たとえば、真神原(まかみのはら)。その地に飛鳥坐(あすかにいます)神社と呼ばれる古社がある。飛鳥の産生神を祀った神社として、また、竜蛇信仰を伝える聖なる地として古くから地元の人々に親しまれている。 
 神社の石段を上ると、うっそうとした樹木に覆われた境内のあちこちに社が立ち、なにやら神々しい雰囲気が漂う。昼なお暗く、森閑としたたずまいだ。
 ふと気づくと、境内の片隅に大小さまざまの石が並んでいる。
 よく見ると、それらはみな陰と陽とを組み合わせた生殖器に見立てられた石で、古来、そこには神が宿るものとされた。古代人の素朴な信仰心を今に伝えるものとしてほほえましいものがある。
 そういえば、飛鳥川の上流、祝谷の地で見たマラ石なるものを、ふと思い出した。そこには古さびた石が斜めになって地面に突き刺ささっていたのである。その古色を帯びた石は、何やら滑稽さをたたえて、地面から這いあがっているのだ
 が、それを周囲の風景のなかに置いて把えて見てみると、なにやら古代人の大いなる意図が見えてくるようで実に愉快であった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香幻想ーその1

2022-09-28 22:16:48 | 場所の記憶
 晩秋の十月のある日、ローカル色あふれる飛鳥駅に降り立つ。朝の光が満ちる前の、夜明け間もない時刻であった。爽やかな風が頬をなでて過ぎる。
 駅を出て周囲を見渡した時の最初の印象は、この地が想像していた以上に山勝ちである、ということだった。早速、のどかな田園風景の中を東に向かって歩きだす。辺り一帯に雅やかな色香が漂う。
 陽はようやく山の端から離れ、朝の光が東の方角から満ちあふれてきている。
 私は歩きながら、古代人が東の方角に特別の意味を認めていた理由が分かるような気がした。東が日に向かう方向であり、それ故に生命あふれるものたちが住まう地としてとらえられていたことを実感した。飛鳥の地はまさに、古代人が「東に美しき地はあり」として選びとった場所としては最適な地であったのだろう。古代人は「日の向く方向」にこそ彼らが求める常世があると考えた。
 秋の色づいた清澄な大気は、歩いているだけでも快い気分を高めてくれる。周囲にはなだらかな山並みがうねうねとつづいている。
 やがて左手にこんもりとした小山が見えてくる。それは天武、持統帝の墳墓であった。一帯が既に古代の遺跡のただ中にあることを知る。うっそうとした雑木に包まれた御陵は、辺りの景観を圧して、ひときわ気品がみなぎる。それがただの小山ではなく、歴史をたずさえた霊のこもるひとつの記念物であることを感じさせる。そのような目で眺めると周囲の小丘がみな古墳のように見えてくるから不思議だ。
 飛鳥の里をさらに東行すると飛鳥川に出会う。
 飛鳥川は明日加村のほぼ中央を南北に流れる川で、『万葉集』にもしばしば登場するほど重要な意味をもっていた。また、『古今集』にも、「世の中はなにか常なるあすか川 昨日の淵ぞ今日は瀬となる」と謳われているように、渕瀬常ならぬ川として飛鳥人には受け止められていたのである。
 そもそも川というものは、その絶えざる流れゆえに、我々には無常と断念を象徴するものとしてイメージされてきたのである。
 飛鳥川の源は飛鳥の南方、高取の峰々に発し、栢森、稲淵の谷合いを流れ、祝戸(いわいど)で冬野川と合する。さらに明日加村の中央を縫い、藤原京跡を経て大和川に注いでいる。しかし、現在みる飛鳥川は瀬瀬のうちなびくかつての激しく流れる川の面影はなく、流れもゆるやかで、水も濁り、歴史を積み重ねた川といった様相ではない。
 古代の飛鳥人は、この川を、遠い山奥の霊界からはるばる流れ下る神霊を運ぶ川としてとらえていた。そうした神聖なトポス(場所)に、飛鳥人は多くの重要な建造物をうち建てたのである。
 現在の明日香村の中心地にあたるのが岡集落。飛鳥川を西に見るこの集落の北はずれに飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)跡と伝えられる旧跡がある。いわゆる大化の改新クーデターの現場になったところである。
 中大兄皇子と中臣鎌足が、時の権力者蘇我入鹿を倒し、政権の転覆を図ったあの有名な出来事である。かつてそこには板蓋宮大極殿が置かれていた。
 事件が起きたのは皇極四年(西暦645)六月十二日のことである。
 その日は朝から曇が重く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな日であったという。大極殿ではこの日、皇極(こうぎょく)天皇を迎えて、貢物献納式が行なわれる予定になっていた。
 それは三韓から寄せられた貢ぎ物を天皇に差し上げる儀式であった。式は予定通り進んでいった。だが、大極殿の中はいつもとは少し違う、どこか殺気を含んだ雰囲気が漂っていた。そうした中、蘇我石川麻呂が表文を読み上げ始めた。石川麻呂の声はかすかに震えているようであった。彼はあらかじめ、この日の謀りごとを知らされていたのである。
 その時である。中大兄皇子の大声と共に刺客が式場の中になだれ込んで来たのである。式場は悲鳴の声とともに混乱の渦に包まれた。突然の出来事であった。見れば蘇我入鹿が長槍で頭と肩を刺され、鮮血を浴びて式場の傍らに倒れている。
 時の権力者が誅殺されたのである。それは一瞬の出来事であった。その場に居合わせた人々は皆、これから起こりうる出来事を直感的に察知し、事の重大さに恐懼した。
 蘇我氏側の反撃があるであろうことは火を見るよりも明らかであった。それをいちばん強く感じ取り、それへの備えをしていたのはほかならぬ中大兄皇子その人であった。
 この出来事が起こる少し前、皇子はすでに飛鳥寺に多数の手兵を集めていた。飛鳥寺は飛鳥板葺宮からほど近い地にある蘇我氏の氏寺である。蘇我入鹿の祖父にあたる馬子が、推古十四年(606)に造営した寺だ。建立当時、塔を中心に東西北の三方に金堂が建つ独特の伽藍であったという。
 後年のことになるが、中金堂に飛鳥大仏の名で呼ばれた釈迦如来像が安置された。寺域は今見る飛鳥寺の四倍というから、かなりの広さであったのであろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

2022-09-02 12:00:55 | 場所の記憶
 町田市の北部にある野津田は、明治の10年代、自由民権運動が盛んだった頃、その一拠点になったところである。また、その運動の中心人物のひとり、豪農石阪昌孝の娘美那子が初めて北村透谷と出会ったことでも知られる場所でもある。
 野津田------その響きからしていかにものどかな田園のただ中にあるように思える地を、春の一日ぶらりと訪れてみた。
 JR町田駅前からバスで行くこと30分ほど。鎌倉街道に沿って走るバスは、次第に田園のたたずまいが色濃くなる風景の中を走る。田植え前の水田には、レンゲが紫色の絨毯を色鮮やかに広げていた。
 それを見やりながら、私は、ある懐かしい記憶を呼び起こしていた。それは小学校の二、三年頃であったように思う。ヒバリのさえずる田圃道をカバンを背負い学校へ通った頃の記憶である。畦道にはハコベやヨモギの若草が生い茂り、ぽかぽかと暖かい日差しがあたりに満ち満ちていた・・・。
 ふと我に返ると、ちょうど下車する予定の停留所にバスが停まった。「薬師ケ丘前」という名のバス停でバスを降りると、目の前に、こんもりと緑に包まれた小丘陵が望めた。
 明治18年の初夏6月、蒸し暑い曇り空のもと、白地の紺絣を着た長髪姿のひとりの青年が、この地を訪れている。その青年こそ、友人たちからトラベラーと呼ばれていた放浪の人・北村門太郎その人である。のちの文学者北村透谷(透谷の名は彼にゆかりある数寄屋橋のスキヤから命名した)である。
 彼は、その頃盛んだった、自由民権運動にかかわりをもっていたために、この地の民権家、石阪昌孝を訪ねるべくやって来たのであった。 
 明治18年という年は前年に加波山事件や秩父事件が起こり、武相困民党が壊滅の危機に瀕している時でもあった。いわば、民権運動が急速にかげりを見せはじめた時である。
 このような民権運動の衰退を目にして、北村は思い悩み、これまで歩んできた自らの方向を転換しようと考えていた。石阪昌孝を訪ねたのも、その答えを得ようとしたためであった。透谷はそれより二年ほど前、すでに石阪昌孝、公歴(まさつぐ)父子と活動を通して知り合っていた。 
 当時、石阪昌孝は、地元南多摩地域はもとより、神奈川県下にひろくその名を知られた民権運動家で、若手民権家の領袖的存在であった。
 バスを降りたところで目にした、こんもりと緑に包まれた小丘陵--その一帯は暖沢(ぬくざわ)と呼ばれる地で、透谷が訪ねた石阪邸もその暖沢にあった。
 それにつけても、暖沢と呼ばれる一帯は、実にのどかなたたずまいのところだ。その名が意味するように、気候穏やかな地であるのだろう。
 今回、私がそこを訪れたのは、その地になにがしか、透谷が訪れた頃の痕跡を発見できるのではないか、というかすかな期待感からであった。  
 ゆるやかな坂を登りながら、明治18年という遠い過去の風景を思い描いていた。
 今でこそ、人家が建ち並び、宅地化の波が押し寄せてきている様子がうかがえるが、透谷が訪れた頃は、もの寂しい山里の風情が色濃くただよう場所であったにちがいない。
 丘陵をぐるりと巡るように切り開かれた道をたどって行くと、小さな社が現れた。それは野津田神社という名の、地元の産土神を祀る社であった。
鳥居をくぐり、杉の木立が暗い影を落とす境内に足を踏み入れてみる。
 ふと拝殿の前に立つ、石造りの中国の伝説に出てくる、贔屓(龍の子)の背中に乗る灯明台(灯籠)に目が向いた。風雪にかなり削り取られてはいるが、台石に寄進者の名がかすかに読み取れる。そこには、「先孝石阪昌吉、石阪吉利謹建 文久二年」とあった。
 ひょっとするとこれは石阪昌孝に関係する事跡ではないか、と早くも歴史的痕跡に出くわした好運に胸が高まる。
 百年以上たった現在も、その場にしっかり立ち尽くしている、その古びた灯明台が物語るなにがしかのエピソード、それにいたく興味をもったのである。
 そう言えば、野津田神社には、石阪昌孝揮毫の幟が保管されているということを何かの資料で読んだことがあった。昌孝とこの神社とは確かに接点があるのである。あとで知ったことだが、石阪昌吉は昌孝の養父であり、灯明台の寄進者吉利はのちの昌孝その人であった。昌孝21歳の時の寄進である。
 神社の境内の脇から背後の山の中に分け入る細い径が切り開かれていた。そこに道しるべが立っていて、「民権の森」と記されている。近くに透谷と美那子の出会いを記念した碑があるということを聞いていたので、たまたまそばで農作業をしていた老婆に尋ねると、それは、ぼたん園の敷地のわきにあるということだった。 
 もと来た道を戻り、ボタン見物に訪れた人で賑わうぼたん園をまわりこんで、斜面上の畑を縫ってゆくと、丘の中腹に御影石でできた記念碑が現れた。  
 ちょうど、大小の石が抱き合うような形で向かい合う碑面には「自由民権の碑 透谷、美那子出会いの地」と刻まれている。大小の石は透谷と美那子をイメージしているのだろう。さらに丘を登りつめると、その頂の木陰に、石阪昌孝の墓がひっそりと立っていた。
 このあたり一帯は、石阪邸の屋敷地であったところである。475坪の宅地に73坪ほどの木造草葺き平屋の母屋があり、ほかに二棟の土蔵と一棟の物置があったという。まさに27町歩の大地主にふさわしい大邸宅であったことが知れる。
 明治18年6月、透谷はこの地を訪れ、石阪昌孝の娘の美那子に出会い、その後、ふたりは「全生命を賭けた恋愛から結婚」へと突き進んでいったのである。時に透谷17歳、美那子20歳。
 二人が初めて出会った時のことを回想して美那子はのちにこう書き留めている。
 「透谷は柿の木に登った。私はそれをぼんやり見上げていたが柿の実がまだ青かったという記憶が残っている。(透谷の)白地の着物といい、青い実といい、たぶん学校(その頃美那子は横浜の共立女学校に在学していた)の夏休みで、郷里に帰省していたときではなかったかと思う」
 柿と言えば、暖沢の背後を流れる、今はコンクリート護岸になっている鶴見川沿いにも、禅寺丸と呼ばれる柿の古木を見ることができた。その柿の枝ぶりが、この辺の古格の風景を演出する格好の道具立てのひとつになっていた。 
 ここで、石阪昌孝について少し触れておこう。 
 昌孝が生まれたのは天保12(1841)年。14歳の時に叔父である名主石阪又二郎(昌吉)の養子として、石阪家に入る。当時、石阪家は野津田村きっての豪農で、27町七反余りにも及んだといわれ所有地は村の五分の一を占める広さであった。
 その彼が16歳の時、養父の突然の死によって家督を継ぐことになる。それは村の名主となることでもあった。時代は昌孝を激流の渦の中に投げやることになる。
 時は幕末の激動期であった。彼の住まう南多摩地方にもその波は押し寄せてきていた。混乱に乗じて、よそ者が村に入りこみ、風紀が乱れ、村の治安を危うくするという事態になっていた。
 そうした状況下にあって、農民たちの不安はたかまるばかりであった。隣村小野路村の、同じく名主である小島鹿之助と義兄弟の契りを結び、小島を通じて、出稽古で訪れた近藤勇・土方歳三らを紹介され、天然理心流を学び、彼らと密接な同志的結合(門弟)をもち、またみずからも治安維持のため農民武装集団「小野路農兵隊」に結集した。昌孝二十代の頃である。
 これら一連の動きはまた新しい時代の到来を予感させもした。やがて、その予感が現実になる。御一新という名の新時代がやって来たのである。王政復古の大号令が発せられ、時代は慶応から明治と変わる。
 時代が変わり、新政府のもと矢継ぎ早な改革がおこなわれるなか、昌孝は区長、戸長、神奈川県会議長などを歴任。さらに、明治10年代になり、自由民権運動が盛んになるとそれに参画、野津田村戸長村野常右衛門らと原町田に民権結社、融貫社を設立、国会開設運動の一翼を担った。(ちなみに、融貫社の社員に、樋口一葉の婚約者であった渋谷三郎がいた)また、同年自由党が結成されると、これに入党。明治23年、第一回総選挙で東京から衆院議員に当選、以後四回連続当選を果たすことになる。
 今は死語になってしまったが、「井戸塀政治家」という言葉がある。これは「井戸と塀しか残さない」政治家のことを言ったものだが、石阪昌孝はまさにその人だった。
 松方デフレによる資産の激減ということもあったが、彼は自身の資産を政治につぎ込み、明治40年(1907)、六十六歳で亡くなった時には、 わずか五反余の土地が残るばかりであったという。
 彼の子どもたちも同様だった。
 長男の公歴は、自身のアンビシャスの挫折と石阪家の資産の蕩尽を目の当たりにして、日本で生きることに行き詰まり、いわば亡命のような形でアメリカに新天地を求めて渡航する。明治19年12月のことである。
 その後、彼は数奇な運命をたどった果てに、太平洋戦争終了直前の昭和十八年頃、アメリカで客死する。その死は失明状態での野垂れ死であったという。
 一方、長女の美那子と北村透谷の「全生命を賭けた恋愛から結婚」に至る経緯は容易ならざるものだった。
 すでに許嫁のいた美那子との出会いと、その後の美那子に対する恋情は、以後、透谷の精神を狂わせるまでの葛藤となった。
 その許嫁(平野友輔)はすでに医師として、また民権家としても認められていた人物であり、いまだ海のものとも山のものとも知れぬ書生である若者(透谷)とは比較にならなかった。二人の結婚に石阪の家族が反対したのは当然のことだった。
 そうした中で、美那子は許嫁を捨てて、透谷との強引な結婚を選ぶ。しかも、六年という短い結婚生活の後、夫である透谷が自殺(明治27年5月、享年27歳)してしまう。
 この透谷の自殺について、のちに親友の島崎藤村は『春』という作品の中で、次のように描いている。 
 『なぜ青木(透谷)は自殺したろう。この問は二人の友達が答えようとして答えることの出来ないものであった。世間ではいろいろ言触らした。「食えなくて死んだんじゃないか」というものもあれば「厭世だろう」というものもあり、「芸術の上の絶望からだ」と解釈するものもある。これといって死因と認むるべきものは、二人の友達(島崎藤村、戸川秋骨)にすら見当たらなかったのである。「なぜ青木君は亡くなったんでしょう」と岸本(藤村)は未亡人に尋ねてみた。「さあ、私にも解りません」こう未亡人が答えた。この「私にも解りません」が一番正直な答えらしく聞こえた。』
 その後、美那子は失意のうちにアメリカに留学し、八年後帰国して英語教師となり、義母と娘(英子)と共に東京牛込でひっそりと暮らした。教師のかたわら透谷の詩の英訳にも手を染めていたという。
 後年、ある雑誌の中で、美那子はつぎのようなことを書き残している。
 「私の洋行しやうと決心した動機は、只今申す通り、最愛の良人を失って、此の世の中の唯一の慰藉を奪はれたから、何か事業に慰藉を求むると云ふが、重(おも)なる動機で御座いますが、併し、今一つの有力の動機は、透谷の感化であると思ひます。夫れは透谷が在世の時から、常に申した事は人間は何か一つの仕事を成就して、世を救ひ、社会の利益を謀らねばならぬと、始終申し聞けられたもので御座いました」と。日米戦争のただ中にある昭和17年4月、美那子は76歳の生涯を閉じたのであった。
 ところで、野津田一帯は、雑木林の繁る丘陵地の間に、細く開ける谷戸田と呼ばれる耕作地が多いところだ。そこは田方(たがた)と呼ばれ、山の麓から湧き出す水を利用した水田があり、米が採れるところとして、昔から農耕に適した場所として知られている。
 現在、薬師カ池公園になっている地には、かつて、湧水の溜池がつくられ、水は農業用水として使われていたという。
 ゆるやかな勾配の山径を巡っていると、このあたりには、土地の風格のようなものが漂っていることに気づく。すでに鎌倉時代には鎌倉街道が通じていたといい、時代は下り、江戸時代になると、大山参りの道筋として人の往来が盛んになるのである。そうした古い歴史を刻んだ風景の相貌というものが、あちらこちらにほのかに見える。
 そう言えば、起伏のある地形に切り開かれた道を歩いているうちに、いつの間にか、道に迷ってしまったことがあった。歩くうちに、隣の山域に入ってしまったのである。
 そこは七国山(ななくにやま)と呼ばれる一帯で、実にのどかで快い気分にしてくれる場所であった。なだらかな斜面にはネギやキャベツなどの野菜畑が開け、畑を取り囲むようにして若葉も鮮やかなクヌギやナラの雑木林が風に揺れていた。
 あとで知ったのだが、そのあたりは、景観保全地区になっているらしかった。たしかに、ざっと見る限り、宅地造成で緑地が削り取られているという状態は見られなかった。起伏に富んだ沃野がうねうねと広がっているのである。
 それにしても、こうした自然が濃密に残され、その美しい景観が保たれているところが少なくなった。風景の中に浸っているだけで快い気分になり、自然に優しく抱かれたような心持ちになる場所がやはり懐かしいのである。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京のランドマークー上野の西郷像

2022-08-28 09:46:18 | 場所の記憶
 かつて東京が幾度かの災害に見舞われ、廃墟に近い状態に陥った際にも、その東京を静かに見守っていたひとつの像があった。
 西郷さんの銅像で知られる、あの犬を連れた銅像である。
その西郷さんは単衣の着流しスタイルで、草履をはき、短剣を差している。右脇に、やや胴長の小型の和犬を連れている。
 西郷さんといえば、巨漢の体躯と相場が決まっているが、銅像も全体がずんぐりとしていて、大きな目、いが栗頭が、まぎれもなく西郷さんである。
 この銅像ができたのは明治30年、工事が始まったのが明治26年だから、四年の歳月をかけて造られたものである。
 明治22年2月、憲法発令の大赦で許され、正三位を贈位された西郷さんの遺徳を偲ぼうと、旧友、同志が相はかって、建像を発議したと、由来書には書かれている。
 さらに由来書はいう。建像のための資金としては、天皇から賜った御下賜金のほかに有志二万五千余人の寄付金によったと。そして、像は彫刻家高村光雲の手によって造られたものであると。ちなみに、高村光雲は詩人高村光太郎の父親である。
 ところで、この像の除幕式の際、それを見た西郷の妻が、「やどんは、こげな人じゃあなかった」と言ったという逸話が残っている。 西郷の妻が述べた感想の意味するところは、西郷さんは人前で、あのような着流しでいることはなかったことを、言ったものだというが、そもそも、西郷さんという人は、写真を一枚も残さずに亡くなった人で知られている。
 よく目にする西郷さんの肖像は、あれはキヨソネというイタリア人の銅版画家が、人から聞いた西郷さんの風貌を、自分のイメージで描いたものだという。
 従って、写真はこの世にないのである。そうした状況下で、高村光雲も彼なりのイメージを膨らませ、銅像を造り上げたのである。 西郷像はあくまで西郷さんらしくできあがらなければならなかった、のである。

西郷像は、当初、皇居の大手門前に建てられる予定であったという。
 ところが、それでは、あまりにも西郷の過去の事績からして問題があろうということで取りやめになった。
 その後、皇室から上野の山が西郷像建立地として下賜され、今の場所に建てられたものだ。
 明治に入って、上野の山は皇室領になっていた。しかも、そこは上野戦争の現場であり、いわば、官軍が徳川幕府軍を制圧した記念すべき、意味ある場所であった。 
 現在、銅像が立つ場所は、かつて、山王台と呼ばれていた。上野戦争のおり、そこには彰義隊側の大砲が据え置かれて、迫りくる官軍を標的にしたと言われている。
 地形的にも、ちょうど、上野の山の縁に位置するそこは、御徒町方面の低地を睥睨するような格好になっている。防戦をするには好立地のポイントだったのである。
上野戦争のさい、黒門付近は両者の激戦地であった。その黒門は西郷像の立つ、すぐ目の下にあった。
 当時、彰義隊は上野山内にある寛永寺によって、官軍と一戦を交えようとしていた。
 そのためにも、黒門を死守することは絶対に必要なことであった。山王台は、黒門という防衛線が確保できるかどうか、その一部始終が手に取るように分かる場所でもあった。 結局、黒門は破られ、そこから怒涛のように官軍が上野の山に攻め入るのであるが、官軍から見れば、山王台はいわば橋頭堡ともいえる場所であったのである。
従って、そこに、いわば、官軍のシンボルでもある西郷さんの銅像を建てるということは、充分に意味のあることだった。
  
いつの頃からか、西郷さんの銅像が、お上りさんがかならず訪れる場所になったのか、定かではない。
 それが人々に、東京のシンボルのひとつとして受け止められるようになったために、東京見物の定番の地になったのだろう。 
 久しく、そこを訪れたことがなかった私は、西郷さんの銅像の周辺がどうなっているのか確かめてみたくなった。
 あの場所は変貌してしまったのか、と私は昔の記憶をたどりながら、感慨しきりであった。心にこびりついた、懐かしい記憶のシミがふき取られてしまったような、寂しささえ感じたものである。
冬のある日、私は西郷さんの立つ上野の山に上った。
 銅像の辺りには人が群れていて、家族連れが記念写真を撮っていたり、アベックが所在なげにぼんやりベンチに座っていたりする。 その間を鳩の群れが、餌を求めて舞い降りたかと思うと、飛び立つ、といった風に、せわしなく動き回っている。
 人のいない少し離れたベンチにはホームレスの男もいる。どれもこれも、あの懐かしい光景が、暖かな冬の日差しの下に広がっていたのである。
 人々は西郷さんの銅像という動かぬものの前に立つことで、さまざまに転変する人の世の移りげな、頼りなさに強く立ち向かって生きようと意志するのだろうか。
 その思いは、東京という憧れの都会を訪れるお上りさんにしても、夢破れたホームレスの男たちにしても同じものであろう。
 それゆえに、東京のランドマークたる存在になっているのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする