支えてくれる人とコロナ禍の話
こんにちは。
いくらです。
前回のブログでちらっと次男が生まれたことを書きました。
このコロナ禍で特に次男について気になっていることがあります。
おばあちゃんの思い出
私のおばあちゃんは、とにかく私に甘い人でした。
絵を描けば、上手だねと褒めてくれるし、
学校の成績を見せれば、賢いねと褒めてくれるし、
できないことがあっても、あなたなら大丈夫、あなたならできるよ、
と背中を撫でながら声をかけてくれる人でした。
お絵描きが好きだった私のためにいつでもクーピーを用意しておいてくれて、
流行りはじめた回転寿司にもよく連れて行ってもらいました。
特に思春期を迎えてからは、両親との関係に問題のあった私にとっては、おばあちゃんがいてくれたことが本当に心強かったのです。
何の根拠もなかったとしても「なんかわからないけど私は大丈夫」と思えること、そんな瞬間があることは、
祖母が亡くなった今でも私を助けてくれています。
きっとたくさんの人に私にとってのおばあちゃんのような、心の支えとなっている誰かがいるんじゃないかなと思います。
不安と焦り
ところが我が家の次男は、1歳過ぎたくらいからコロナが流行りはじめ、親戚の集まりに行けたのは1度だけ。
祖父母とも数えるほどしか会えていません。
幼稚園にもまだ通っていなければ、子育て支援センターなどでのイベントなども激減し、両親以外の大人と関わる時間がほとんど持てない状態です。
子どもにとっても大人にとっても、人間関係を深めるためにはともに過ごす時間が重要だと思っています。
人見知りする子どもであれば尚のこと、相手に慣れるまでに時間がかかります。
これから思春期に差し掛かるまでの間に、将来彼を支えてくれる人と一体どれほどの時間を過ごせるだろうか、
人間関係を築くのに十分な時間が確保できるだろうか、
正直不安はつきません。
たまに祖父母とビデオ通話をしたりもしますが、普段私や夫とは抱っこだったり触れ合って遊ぶのが好きな子なので、
これで足りるのだろうかと思ってもいます。
仕方がないとはいえ、できることが限られていて、それなのに時間はいつも通り過ぎていく現状に正直焦っています。
うちの子たちもいつか反抗期を迎えるでしょうから、きっと私や夫の助けを借りたくないときも来ると思います。
そのときに寄り添ってくれる誰かとつながっていてほしいと心から願っています。
世の中の子どもたちがそのための時間や機会を大きくなるまでの間に十分持てるように、
早くこの事態が落ち着いていってほしいなと思います。
向上心のないものは本当に馬鹿か
今週のお題「大人になったなと感じるとき」
ご無沙汰しております。
あれから長男もすくすく成長し、次男も生まれ、夫とも昔ほど仲良くはないにせよそれなりにやっていっています。
育児と育児
前回ブログを書いたのが3年前。
本当にいろいろなことがありました。
2人の子どもの出産を経て、身体の衰えがひどいです。
いつでもどこかが痛い。調子が悪い。
がんばって子どもを産んだのに、この世には神も仏もいないのでしょうか。
ただ、子育てを通して私自身も育てられていると思います。
自分を自分自身で育て直しているような感覚で、
そこには自分自身の育ちが原因でうまく大人になれなかった部分を直視しなければならない辛さもあります。
同時に何かのきっかけで自分の歪みが少しほぐれたときには、心が軽く穏やかになるのを感じます。
こうやって自分自身を見つめられるようになるにつれ、
物理的な体力が自分の心と対話する内面的な体力へと変化してきたのかなとも思います。
外へと向かう若く活発なエネルギーの代わりに、自分の内面へと向かう大人のエネルギーを手に入れたのでしょう。
とはいえ、今後もこのスピードで体が衰えるとあまりにもしんどいですが…!
だらけるにも向上心がいる
高校生の頃、私はどちらかといえば怠惰なタイプでした。
周りに真面目な頑張り屋さんが多かったというのもあるかも知れませんが、とにかく私はできればずっとグウタラしていたいと思っていました。
そんな私が反発心を抱いたのが
「向上心のないものは馬鹿だ」
という夏目漱石の『こころ』なかの言葉です。
高校の授業で習い、小説の内容はすっかり忘れましたが、この言葉だけは心に強く残っているのです。
ぼんやり生きることの何が悪いのだろうか、私はできるだけソファでごろごろして今後も過ごしていくぞ!と当時の私は思っていましたが、
高校生の頃よりいくぶん大人になった今思うのは、一生ソファでだらけ続けるにもきっと向上心がいるのだということです。
それなりにいい大人になった今でも、隙を見つけてはソファでごろごろする生活を送っていますが、最近どうも高校生の頃とは違う感じがするのです。
あの頃はだらけるぞ!と思えば時間の許す限りどれだけでもごろごろしていられました。
ところがこのところ、ごろごろしていると体のコリが気になるようになってきました。
横になってテレビを見るにもある程度時間が経過すると体が疲れてきて反対側を向きたくなります。
体が年をとってきたということだと思うのですが、
ただグウタラ過ごすために体のケアを行う必要があるという不思議な事態が起こっているのです。
現状維持はゆるやかな変化
生きている限り変わらないことはたぶん何もないのです。
心ではいつまでもグウタラしたいと思っていても、体は少しずつ年をとっていきます。
ただダラダラと過ごすにも体の状態を見つつ最適なだらけ方を探っていく必要があるのです。
この心と体のギャップを埋め、自分のありたい姿を目標に取り組み方を変化させていく、
これが向上心でなくて何であろうか!
そんなわけで高校時代より少しだけ大人になり、斜め上の向上心を身につけた私は
YouTube見てストレッチをしながら日々できるだけ怠惰に過ごすのでした。
いつかちゃんと読みたい。
激動の2ヶ月、及びその愚痴
こんにちは、いくらです。
こんにちはというよりお久しぶりですね…
9月末から私生活でバタバタとしていました。
それ以前から思うところもあって、更新が滞りましたが、また少しずつ書けたらと思っています。
あくまで理想ですが…!
失業と転職
私ではなく、夫が失業しました。クビです。
それが9月末のことです。
完全に夫が悪いので仕方ありませんが、転職とそれに伴って夫実家近くに引っ越しをしていました。
ブラックな職場でしたので、大変だったのはわかるのですが、すごく情けなくなりました。
何より夫本人がそのことについて全く反省するそぶりもないので腹立たしい…
転職先が決まったのが今月半ばですが、案外早くに決まったことも反省しない原因かもしれません。
また、次に書く理由で散財していたため、家の貯金はなく、引っ越し費用や新居の契約にかかる初期費用は私の婚前の貯金や息子の子ども手当から出すことになってしまいました。
趣味への没頭
これもまた夫の話です。
車いじりが好きな夫は第一子誕生とともに車を買い替えました。
その納車が3月。
息子が生後2ヶ月になろうかというときです。
まだまだ眠れない日々が続き、産後の体調がやっと回復してきたかな、というころでした。
夫、息子より車を取りました。
そもそも夫が早く子どもがほしいと望んだはずなのに、休みには車をカスタムしたり、パーツを探しにオートバックスとイエローハットを行ったり来たりする日々。
頭にきて車いじりをやめてほしいと伝えたところ
「そんなに時間をかけていない」
「よその旦那さんより家のことやっているのに」
「なんでそんなにしんどいの?」
などなど心無い言葉を浴びせられ、離婚も考えました。
ですが、納車前は本当に優しかったんです。
子どもが好きな人だったんです。
戻れるなら納車前に戻りたいと思って、離婚する前にできることをと思って色々と試してみました。
その間も上記のような嫌味ばかり。
もういいや、と思った矢先のクビでした。
好きな人を諦める寂しさ
息子が生まれ、幸せだったのにあっという間に転落してしまった気分です。
産後クライシスの話も聞いていたので、離婚が浮かび始めてすぐに色々と改善を試みたのですが、うまくいきませんでした。
さっきも夫は泣いている息子を無視してスマホゲームに打ち込み、今私が息子をお昼寝させたら一緒に寝ています。
正直に言えば、こんな人だと思わなかった。
納車前までは私が困ったら必ず助けに来てくれる人でした。
今は、息子より車を取ったこと、クビになったこと、という2つの大きな裏切りで夫を信頼できなくなっています。
寂しい。
今後は生活が落ち着くのを待って、息子のためにならない父であれば離婚しようと思います。
好きで結婚したはずなのに、なぜこうなってしまったのか、何度考えても答えが出ません。
こんな状態から、また以前のような仲のいい夫婦に戻れるのか不安でたまりませんが、とりあえず息子の幸せのために動いていきたいと思います。
バニラアイスと派閥の話
今週のお題「好きなアイス」
こんにちは、いくらです。
夏風邪を引きました。
久しぶりにしっかり熱が出てしばらく寝込んで、もいなかったんですけど、寝られる時間は出来るだけ体を休めてました。
ブログを始めてすぐ夏風邪なので、このブログはバカが書いてるのかと思われそうですが、その通りなのでぐうの音も出ません。
せめてもう少し頭のいいフリをしていたかった…
風邪っぴきとアイス
子どもの頃、風邪を引くと母はアイスやらプリンやらゼリーやらを用意してくれました。
普通なら真っ先におかゆをこしらえそうなものですが、母特製おかゆを食べたような記憶はありません。
今はおくすり服用ゼリーみたいなものが市販されていますが、当時はそんなものなかったので恐らくその代わりだったのだろうと思います。
熱でポカポカした体に冷たいアイスって最高なんですよね。
のどをすっとアイスが冷やしてくれる感覚。
なんとなくですが、だるさが取れる気がします。
バニラアイス、何派ですか?
ハーゲンダッツやレディボーデンのようなちょっと高級なアイスはもちろん美味しいけど、普段食べるには少し高い。
100円くらいで買えるバニラアイスを考えると、スーパーカップ、爽、モウあたりになるかと思います。
結構何派かは分かれるのではないでしょうか。
ちなみに私は長い間、爽派でした。
これはバニラアイスをそのまま食べるときに限ってであって、フロートにしたりアップルパイに添えたりするならスーパーカップが好きでした。
最近少し派閥を変えようかと思っていまして。
モウが好きです。
濃厚な味がします。
爽は氷がしゃりしゃりするあっさり味なので、180度転換するわけですが、爽よりモウが食べたい。
実家にいる頃、モウはほとんど食べませんでした。
食べてもやっぱり爽か、スーパーカップだなと思っていました。
結婚してから夫が買ってくるので、食べるようになったら、「おいしい…!」
結婚する、生活が変わるって大きなことなんだなーとぼんやり思います。
今回の風邪のときも夫がモウを買ってきてくれました。
モウを食べながら「私、爽派からモウ派に移っていい?」と言うと「そんなん報告するようなことでもない。好きにしていいこと。」と。
実家では宣言しなければならなかったし、爽派は私一人でずっと変だと思われて肩身が狭かった…。
これからは気分に合わせて好きなアイスを食べようと思います。
ちなみにモウ以外だと王将アイスが好きです。
最近知ったばかりですが、三種類の味が一度に食べられて贅沢な気分になれます。
手書きは便利ではないけれど役に立つ、と思う
こんにちは、いくらです。
細々とブログを書き始めて、自分なりに少しずつ書くスタイルができつつあります。
以前の記事に写真を載せたのですが、紙にボールペンで書いてから、音声入力で記事を書いています。
最初の記事は直接投稿画面から書き込んでいたのですが、ここまでどう話を展開してきたか見るにはスクロールして戻る必要があって、それが面倒臭くて…
それで、紙に書くようになりました。
スマホからの入力なのですが楽です。
ただスマホを買い換えたばかりで、使いこなせていないだけかもしれませんが…
手書きなら全体を見渡せる
今まで手書きで書いた記事は、だいたいB5両面がちょうど埋まるくらいの文字量です。
これくらいだと、見返しやすく、繋がりがおかしくなってきたらすぐに訂正できます。
また、表現の被っているところや連続しているところを全体を見つつ調整できます。
画面をスクロールするよりも文書の完成形を想像しつつ体裁を整えていけるところが最大のメリットだと感じています。
大学時代の、レポートなんかも手書きで構成や主な主張を書いてからキーボードで入力していました。
今でもパソコンでの入力は『清書』というイメージがあります。
小論文試験の思い出
思えば、高校時代の小論文試験対策の模試の頃から、このような使い分けをするようになった気がします。
問題とメモ欄と解答用紙が与えられて、提出する解答用紙にいきなり清書はできないので、メモ欄に細々と書きたい内容をまとめていく。
小論文試験のための授業もあったから、このような書き方をするものだ、と刷り込まれているのかもしれません。
今この記事は、直接打ち込んでいます。
というのも、思ったことをそのまま雑多に書けばいいかなと考えている記事だからです。
だから多分手書きした記事より短い。
でも紙とペンと平らな場所を用意しないといけない手書きよりも場所を選ばずに書けます。
その時の気持ちをありのままで書くなら、手書きよりも優れているのかもしれません。
どんな書き方をするにせよ、長文を書くときはきゅっと引き締まるような気持ちになります。
自分の考えを外に出すことは緊張を伴います。
ただ、そうすることでぼんやりとしていたことがはっきりするのも事実で。
少しずつ書いていければいいなと思っています。
男尊女卑について考えてみたけど壁は高そう
こんにちは、いくらです。
こちらの記事は様々なコメントが付いていて興味深かったです。
大したことじゃないんだが、バリバリの男尊女卑だと思ってた祖父が実は女..
結婚してから男女のあり方、もっと言えば夫婦のあり方についてよく考えます。
現状我が家では仕事をして稼ぐのは夫の役割で家のことは妻の役割となっています。これには夫の仕事の都合で頻繁に転勤があることも関わっているので、今の時点でお互いに不満はありません。
女性も外で働くことが一般的になるにつれて、男尊女卑、女尊男卑と言う言葉を聞く機会に出会うことが増えました。
深まる男尊女卑議論
フェミニズムの第1期において、教育を受ける権利、参政権、労働の権利を女性にも与えることが求められました。
現在ぱっと見はどの権利も男性と変わりなく与えられています。
しかし問題を掘り下げていけば、ここでまだ達成できていない部分があるから未だフェミニズムや男尊女卑の議論が盛んに行われているといえます。
女性が理系の学問の学べば「リケジョ」と言われるし、政治の世界でも「女性初の○○」とか女性であるだけで特別な名前がついたり枕詞がつきます。
「女性が理系でもいいんだけど、普通じゃないよね」って言う暗黙の差別があるのは間違いないといえます。
これを取り払うため男尊女卑に関する議論は深まりを見せてきました。
フェミニズムに関して議論すれば、必ず男は損だとかジェンダーに関する議論もついてきます。
もう女性が女性の権利を主張するだけの時代ではなく、社会的、生物的な性、それぞれの立場からそれぞれの権利について主張し、折り合いをつけていく段階に至っているのかもしれません。
男女を対立するものと捉えていては、この問題は解決に向かないのだと思います。
生物としての性差によってお互いに及ぼす影響
女性は結婚すれば必ず子供が仕事が選択しなければならなくなります。
子供を持つと決めれば、女性には一瞬の途切れもなく仕事を継続することは不可能になります。
そしてこのことは、女性が妊娠、出産、育児で休職する間は、男性が稼いで来なければ家計が回らなくなることも意味しています。
保活やマタハラを嘆くのは女性ばかりです。
直接的には女性のキャリア形成を阻む要因だからと言えますが、共働き世帯が増えた今妻のキャリアアップが阻害されれば、家計にも反映され、夫も苦しくなりかねません。
女性が生きたいように生きられる環境を作ると言う事は男性にとってもメリットがある時代になってきたのかなという感じがします。
男性の権利との共存
ここまで書いてふと気付いたのですが、女性が産む性である以上、子供を持ちたいと考える夫婦の夫には、結婚後すぐに専業主婦になるという選択はできません。
仮に女性の産後の職場復帰が容易になったとしても、女性と男性の賃金だったり役職だったりで差別がなくなたとしても、妻が働けない間の家計は夫に頼らざるをえません。
今は専業主夫を希望する男性は少ないですが、もっとライフスタイルの多様性を認めていくとこういった問題にもぶつかる可能性はあります。
女性と労働の問題に関しては制度を整えていけば解決する問題が多いように感じます。
戦後、良妻賢母教育の象徴であった家庭科を男女共通科目にしてから、100年もたたないうちにそれが当たり前になりました。
このように、制度ができれば、それに伴ってゆっくり意識も変わっていくと思います。
このことを考えると、女性に与えた生き方を自由に選ぶ権利と同質のものを、男性にも平等に与えることが困難であることがわかります。
生物的な違いによってどうにもならない部分を含む問題について、社会がどう克服していくかが問われているからこの問題は難しいのかもしれません。
私自身もまだ、はっきりとした考えはありません。
これから少しずつ考えていきたいと思っています。
美術品がドミノ倒しなんて絶対ダメ…!
こんにちは、いくらです。
こちらの記事を読んでなぜこんなことに本当にびっくりしました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170716/k10011061351000.html
私自身大学で学芸員資格を取得し、様々な実習にも参加してきました。
実習の中で美術品の取り扱いについては複数回授業があったが、本物の巻物や掛け軸になんか絶対に触るなんてできませんでした。
その実習を担当なさった学芸員の方は「美術品を私たち学芸員が破損するようなことがあれば後世の人々には大きな損失である」とおっしゃっていました。
だから、学芸員にとってこんな事故の起こりかねない展示の仕方はありえないのです。
学芸員とキュレーター
そもそも学芸員は、博物館で収集・保存・調査を行い、展示の企画を立てる研究者のことを指します。
博物館の受付や展示室内で監視をしているスタッフは派遣さんなどで、彼らは学芸員ではありません。
また、学芸員は普通、学芸員資格を保有していなければならないけれど、公立の館ではエデュケーター(教育普及担当者)を美術系の教員が担当していることもあるようです。
海外では学芸員のことをキュレーターと呼ぶが、その職務は学芸員よりも狭くなっています。
キュレーターは、展示専門職員や修復技術者保存管理者などを束ねる最も位の高い役職です。
逆に日本ではこれら様々なことを一人でこなさなければならず、人手不足の問題を抱えています。
しかし、今回の事件は細分化されているがために起こってしまったのではないかと思うところもあります。
私が実習に行った美術館は展覧会の企画担当者が開館前、開館中、閉館後と展示室内を巡回していました。
様々な業務を一人でこなすからこそ気づける異常があるのではないでしょうか。
人手不足は解決すべき課題だが一人の学芸員が広く展覧会を管理できる状況は好ましい側面もあると今回感じました。
とはいえ、ひとつの展覧会を終える前から次の展覧会の企画を立てるという厳しいスケジュールの元で働いているので、そこはどうにかしていくべきではあります。
どんな美術品にも「現代美術」だった時代がある
美術品に限った話ではないが、全てのものに最新だった時代はあったはずです。
そして当時は認められなかったものの、後からあれが時代の転換点だったと言われるものもあります。
かつて、マルセル・デュシャンが『泉』を発表し、ニューヨーク・アンデパンダン展に出品した時、美術品とは認められずオリジナルは紛失されてしまいました。
当時の人にとって、サイン入りの便器は美術品ではなくガラクタだったかもしれません。
しかし今となっては非常に惜しい損失です。
また、特に大々的に広告を打っている展覧会では、客のマナーが悪いと感じることもあります。
展示室に大きなキャリーバッグを転がしながら入ってきた人を見たときは、驚くと同時に入室前になぜ止めないと怒りが湧きました。
今回のことも同様に、現代美術なんてガラクタと言わず、ぜひ後の世のために保存していって欲しいと思います。
そのために学芸員の方々にはそれが出来る展示環境を整えていってほしいし、展覧会を訪れた人にも美術品を後世に遺していくという意識を持って鑑賞して欲しいです。