赤穂城訪問レポートその2です。
赤穂といえば誰もが「忠臣蔵」を思い浮かべます。その忠臣蔵の元となった赤穂事件の概要をおさらいしておきます。
元禄14年(1701年)
一方、喧嘩両成敗というのが鎌倉幕府以来の慣例であるのに、
しかし、
元禄15年(1702年)12月14日、
ちなみに内匠頭が吉良に切りつけた理由として吉良に賄賂を贈らな
この討ち入りから47年目に大坂・竹本座で初演されたのが『
以後、赤穂事件は「忠臣蔵」と呼ばれ、現在も小説・映画・
大石神社
大正元年(1912年)に三の丸に建立されました。正式名称は赤穂大石神社。
参道の脇には四十七士の石像がずらりと並んでいます。
(左)堀部安兵衛(右)吉田忠左衛門
堀部安兵衛は四十七士随一の剣客と言われます。江戸からの急使、内蔵助への説得、浪士たちの取りまとめ役など、
(左)原惣右衛門(中)片岡源五右衛門(右)堀部弥兵衛
原惣右衛門は内匠頭切腹の第二報を早籠で大石内蔵助に知らせた人
片岡源五右衛門は内匠頭切腹の際に最後に面会した人物として忠臣
大高源五
吉良家の茶会を通じて12月14日に上野介が屋敷にいることを突
大石主税(ちから)
大石内蔵助の長男。討入時は最年少の16歳で、
大石内蔵助良雄
忠臣蔵では多分に脚色が加えられていますが、
大石神社拝殿
祀られているのは四十七士と浅野家三代など。赤穂浪士は江戸時代は幕府より叛逆者とみなされたため正式に祀られることはありませんでした。
境内に建つもう1つの大石内蔵助像
宝物殿
境内には、拝殿の他に、義士宝物殿と義士木像館、大石邸庭園があり、セットで入場することができます。
采配と呼子
忠臣蔵でお馴染みのアイテムですが、まさか本物がここで見られるとは
鎖頭巾と鎖襦袢
堀部安兵衛が討ち入り時に使用していたものです。
討入後、両国橋を渡る浪士たちのジオラマ
大石邸庭園
さきほど表から見た長屋門の内側です。
隣の屋敷内では、早駕籠に乗って江戸から戻ってきた萱野三平らが、主君刃傷の第一報を記した手紙を大石内蔵助に渡している場面が等身大の人形で再現されています。
脇に控えるのは長男 大石主税。
次回は、赤穂城二の丸、本丸をご紹介します。
境内には、拝殿の他に、義士宝物殿と義士木像館、
采配と呼子
忠臣蔵でお馴染みのアイテムですが、
鎖頭巾と鎖襦袢
堀部安兵衛が討ち入り時に使用していたものです。
討入後、両国橋を渡る浪士たちのジオラマ
大石邸庭園
さきほど表から見た長屋門の内側です。
隣の屋敷内では、
脇に控えるのは長男 大石主税。
次回は、赤穂城二の丸、本丸をご紹介します。