旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

日々 回顧録

2024年04月16日 | 日記



少し前、用事があり東京の下町へ足を運んだ。

用事を終えて、次の約束まで時間があったので、
門前仲町あたりから東京駅まで散歩をした。

商店街を通り、
川を越え、
橋を渡り、
映画「パーフェクト・デイズ」で出てくる橋はこの辺りかと思いながら、
高そうなスーツを着たビジネスマンが行き交う兜町を抜け、
東京駅に到着した。

丸の内口の趣のある顔とは異なる、
八重洲口の味気ない近代的な風景

溢れかえるほどの、
大勢の外国人観光客を傍目にJRの改札へ向かう。

駅中のコンコースの路上に座る中国人団体客。
通路は、事故があったかと思うほどの大渋滞。

それを怒り、怒鳴り散らす日本人の中年男性。

やれやれ、だ

僕はホームへと上がる

騒がしい音声案内が響き渡り、
人で混雑したホーム

週末の午後

けたたましい音を立てて電車がホームへ勢いよく滑り込む。
僕は人混みに紛れ、電車に乗り込み、窓際に立つ

窓から見える風景は、
大きなビルが並ぶ東京駅周辺から、
中規模のビルと広告看板が隙間なく建つ風景となり、
やがて、
同じ様な外見の戸建の家々へと変化する。
そして、
再び大きな街へと電車は走る

淡々と過ぎる風景

それぞれの日常がそこにあるのだろう、と思いながら
車窓から流れる風景を見て、
僕は電車を降りる

改札の近くで
偶然、知人に出会う

地元が同じ知人だ

「今、日本に居るんだ?」と知人は僕に言い、
僕は、
「最近、どーなの?」と聞く

知人は、
地元の議会議員が如何にクソか、という話題を話す

相変わらずそうなのか、と思いながら、
僕は知人と別れを告げる

用事が終わると、
帰路の途中、
知人のバーでワインを飲みに立ち寄る

「正直、最近は本当に厳しいよ」と知人は言う

その店のすぐ近く、
年配の女性が趣味でやっていた居酒屋は、
コロナで給付金をたくさん貰ってから、
早々にやめてしまった。

僕が知る限り、
知人は真面目な性格で、
経営も正直にやっていたが、
誰かが言っていた
「正直な人が損する時代だよ」と言う言葉を思い出す。

どんな世界、
どんな業界でも同じかもしれない。


先日、偶然会った友人に、
「キハチさん、優しさ疲れしてるんじゃない?」と言われたっけ。

そうか、俺は疲れているんだ。


門前仲町で見た巫女さんは、
日本の美しい文化だったな

彼女達もオナニーはするのだろうか

下衆な感想だろうと我ながら思う


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昨年末

日本へ帰国した翌日に、
旧知の友人たちと忘年会をし、
その足でクラブへ行った

彼ら彼女らとは、
もう25年以上の付き合いになるのかな

終電前に帰るつもりだったが、
「最近の東京の夜はどうなんだろう?」と思い、
クラブへ行くという友人たちと一緒に行った

友人の力で案内された、
V.V.I.Pという、VIPの上のランクの特別室の隣のテーブルには、
音楽関係か広告関係者、
または、IT関係と思える若い服装をした中年男性2人と、
若いスタイルの良い女性2人のグループが座っていた

見下げるダンス・フロアは若い男女のグループで満員だった

友人が言うには、今日は有名なパーティとの事だ。

そうなのか、と思いながら、
フロアに降り、
少し踊る

何かが足りない

何処か、
勢いを感じない

タトゥーだらけの若い女の子も居るが、
何処かが
整頓されている

何処かに
見えない枠、
見えない制限、を感じてしまう

刺激的だった90年代、
イスラエル人などのパーティ・フリーク達が、
世界中からこぞって集まっていた、
2000年から2006,2007年頃の東京

渋谷近辺では、イラン人達の闇の商売も横行していた

今、
そのイスラエルとイランはミサイルを撃ち合っている


そして、
当時の、
ヨーロッパの狂ったクラブの数々

数年前にも、
ジョージアの盛り上がっていた、
無軌道なクラブ

インドの
無茶苦茶な人々

今の東京と、
何かが違う


僕が変わってしまっただけなのだろうか

僕以外の何かが、日本が、変化したのだろうか

それとも、

僕が知らないだけなのだろうか

分からない




深夜の東京

なんか小さく見えたな


日本

もう、だいぶ前に飽きちゃったよ

耳に入るのは悪いニュースばかりだ

日本は快適なんだけどね
素晴らしい部分、
美しい文化も沢山あるし、
好きなところも多い。
そして、
僕は日本人である

でも、
今は、
居心地が悪いし、
退屈だよ


遠くを想う



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不確かな実在と、感謝

2024年04月08日 | 日記



『そこに在る』

僕が物に対して、よく使う言葉です。
度々登場させてきた言葉です。

物の佇まいや、
物と人を取り巻く物語など

それらを表現したいので使っております。

しかし、同時に、

「実在はしていない」

とも感じております。

実在はしていないが、
僕が認識することによって、
「在る」と
位置付けているのを表現したい側面もあります。

これは、
量子力学でいうところの、
「観測(認識)されなければ、それは存在しない事と同じ意味」に由来し、
逆説的に言うと、
「見れば(見た時に)それは存在する」
という事を言いたいのです。

大丈夫かな、あってるかしら?
まぁ、そんな感じ。

量子力学は難しすぎるので、
僕はうまく表現できない。
そもそも分からない。

マジで難しい。
難しすぎるっす。



僕が知る限り、
デンマークのニールス・ボーアが唱えた理論は、
アインシュタインの理論とは異なり、
多くの論争が長年あったそうだ。

んー、
アインシュタインの説も、大いに共感できる。
(詳しくは理解できんが、何となく)

一方で、
僕自身が感じている事は、
ボーアの説に近い。
または、
「共感する・共感したい一面がある」印象を持っている。
(自身の経験が、理論を理解する壁になる場合もあるし、真理は分からんが)

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『僕を見つけて頂き、ありがとうございます』

初めてのお客様へ品物を送る時など、
僕が時には、
お手紙に添える一文でもある。

これは、承認欲求とは異なる、と僕は思っていて、

「誰かに認識してくれたおかげで、僕はそこに存在できる」

に近い感情を持っておりました。

存在欲求になるのかな?
知らんけど。

何となーく、
「あー、この感覚なのねー」と、
感じる時もあるのです。

そして、
僕が扱う品物たち

量子力学を自分的に解釈すると、
(例えば)僕の品物を、
僕や、僕のお客様達、が認識する(見る)事で、
その品物は「存在し得る」
となるのかしら。
(実在は別にして)

量子力学上で言えば、
もし見なければ、それは存在していない、のと同義なので、
僕や、あなたが、品物を見つけなければ、
品物は、僕らにとって存在しないのです。

これは、深い。

もっと大袈裟に言うと、
あなたの世界は、
あなたにとって、その世界が全てであり、
そこに僕が存在するか否かは、
あなたが僕を認識しなければ(見つけなければ)、
僕は存在しないのです。
それは、
世界に僕が存在しないと同義なのです。

では、僕は実在するのでしょうか。

逆の事も言え、
果たして、
あなたは実在すると言えるのでしょうか。

そう

実在っつーのは、
不確かなものです。

不確かなものを、世の中は信じているのです。

不思議ですな。

僕の超絶極薄(間違いも含め)の知識での物理学で説明すると、
表現が難しいのですが、
僕の感覚では、
「存在する事」に、
いや、
「あなたや、僕や、対象となるモノが、世界に存在する為に」
この仕事の意義や、
僕が生きている意味、
があるのかもしれない、と思う時もあるのです。

例え、
全てが
実在しようと、
実在しなかろうと、
僕らは
「存在を求めている」とは思えるのです。

難しくなってきちゃったなー

伝わらなかったり、
間違っていたら、すみませぬ。

とりあえず、
世に無数にあるモノゴトから、
僕を見つけて頂き、
また、
僕を見て頂き、
僕の品物を見つけて頂き、
本当にありがとうございまする。


それが言いたかっただけでした。



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チベットの十字刺繍ティクマの襤褸

2024年04月04日 | チベットもの



『チベット襤褸』という価値観を、
人知れずやっております。

しかも、
十字の紋様ティクマと襤褸が合わさった物は、
極めて美しい布だと僕は思っております。


日本の藍染の古い野良着や布団等の襤褸は、
英語では、
「BORO」と表記され、
今や、その価値観は欧米で評価と認知がされてます。

個人的には、
その襤褸の価値観は、
日本の藍染等の襤褸に限らず、
世界の様々な布、織物に共通する価値観だと思っています。

中東などの古いキリムや絨毯にも、
朽ちた物や、
修復が重ねられた物は見られ、
それらは「フラグメント」と呼ばれ、
評価もされている。

一方で、
チベットの襤褸

僕が知る限り、
一部を除き、ほぼ認知されてこなかった。

日本では特に。

これはチベットの織物や布自体の、
認知度が低いからでもあると思う。

6,7年くらい前かな

ネパールのチベット圏で、
チベットの襤褸の布、
刺繍された古い民族衣装の端切れなどが、
一斉に姿を消した時期があった。

知人のチベット人業者に聞けば、
中国人が買い漁っているとの事だった。

中国人の間では、
以前から、
古い布類や刺繍布に価値(美的価値・金銭価値)を見出してきて、
既に、チベット本土または東チベット、
北京などの中国都市部でも高額で需要があった筈だったが、
それとは異なる理由で姿を消したのだった。

彼ら中国人業者、
または、
中国本土での買い手は
美しさを改めて見出した訳でもない。

理由は明快だった。

偽物のタンカ(仏画)の表装に使うとの事だった。

掛け軸でいう所の、
天地や中廻し、柱と呼ばれる、
絵の周りを額装する生地に使うのですわ。

つまりは、
絵は新しく描いて古加工し、
額布部分の生地に古いオリジナルを使って、
偽物を作る手法だ。

そうすると、
全体的に古く見えて、
偽物であったとしても、
超高額で売れるというカラクリである。

その時期にネパールでは、
チベットの龍柄などの端切れ布であれば、
中国本土より安く手に入れるのも可能だったので、
まとめて買われた、との事だった。

ただし、
上記の真偽や本当の理由は分からないし、
その時期には、
中国人富裕層向けの高額オークションでも、
古い布類は多く出品されていた印象もある。

ただ単に、
需要が多くなったのかもしれない。
分からないっす。

いずれにしても、
良くも悪くも、
実に中国人らしい理由だ。

その後、古いオリジナルの襤褸の値段は、
何十倍にもなったかな。

昨年、ネパールで、
古い刺繍ハギレ(良い刺繍の柄であった)が4,5枚に、
15万ルピー(約16万円)の値段がついていた事も見かけた。

アホやん。

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それはさて置き、
僕も以前から襤褸や、
ティクマをひたすら扱ってきたが、
あまり評価されんかったよね、これが。

僕のやり方が悪かったのだろう。

僕が無名の行商であるからかもしれない。

でも、
最近、よーやく認知されかけてる気がする。

以前から、僕は骨董市で、
チベットのティクマや、
チベット仏教の襤褸布を頻繁に売っておりました。

最近、推し始めたと思われがちですが、
そーではござらん。

なんなら、この仕事を始める前から、
チベットの襤褸や、ティクマは好きでござった。

当時、骨董市の僕のブースで売ってるのは、
ほぼ全部ティクマの物とか、
布は全部、ボロボロの襤褸とかで、
全力で売っていた事もあるけど、

「あら〜、知ってるわ、日本のお茶道具よね〜」とか
「そんなダメージが多い布、値段、つかないでしょ」とか

勘違いや、失礼な言われ方もされてきました。

売っていた場所がマッチしなかったのかもしれない。
東京以外の骨董市で売ってたりしたので。

ごく一部の有名美術館関係の学芸員さん達や、
僕の価値観の趣向を理解されてくれた方々、
博学な方や、
見聞を広く求める開かれた心をお持ちの方々などには、
評価されていたかな。

それらの方々以外は、
全スルーでしたね、ぶっちゃけ。

例え、素晴らしいと言ってくださっても、
「実際に買っていかれる人」は
多くはなかったです。


さて、
泣き言などはここまでで、
当時、僕が扱っていたティクマの襤褸でござる。

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正方形のティクマの布。
長い年月を経た襤褸です。

座布団の表布ですな。
僧侶が使います。
名前は忘れてしまった。






良い味である。

日本の古い布で、リキと表現される、
力強さ、説得力がある。








特筆すべきは、
十字紋様が刺繍である事です。

よく見ると、
十字紋様ティクマが、「刺繍」で表現されておるのです。

正確には、織りと刺繍の中間。
織りの隙間に糸を通している。

「結び」となるのかな。

便宜的に刺繍としてます。

多くのティクマ(ティグマ)は、
絞りや押印(スタンプ)がマニアには知られるとこだが、
実は、刺繍での十字ティクマも存在します。

絞りの上に、刺繍で十字を表現しております。

某織物研究者の文献には、
ティクマに関して、
刺繍は触れられていないらしいけど、
実際には、チベットのティクマ紋様は刺繍も存在します。








襤褸の雰囲気が良き

色は褪せ、
生地は劣化している。

海外のサイトでは、
ティクマの布を、19世紀と一概に記載している場合も多いが、
確かに、19世紀と思われる物も存在する。
ただ、僕は、
大抵は20世紀中頃から前半位と、時代を聞かれれば言う事が多い。
物にもよるが、概ね、80年くらいかしら。
あえて若く言っている場合もある。
根拠は、布や色の質感(文献等とかと比較している)等に加え、
状況での見解となる。

この座布団に関しては、100年位は経っているとは思えます。
それ以上かも。正確には分からんが。








十字紋様が満載です。

渋い赤紫色と青色のコントラストも佳き。












裏面

裏面には絞りが表れている。
表面とは異なった雰囲気の顔をしております。

色は色褪せた表面に比べて、濃く残っている。






実は、このティクマの座布団

もう一枚、同じ物を対で持っていた。

もうだいぶ前に売ってしまったのです。

この一枚は、
刺繍での十字ティクマの襤褸なので、
参考資料として手元にずっと残しております。

襤褸でない、
厚手のティクマの座布団バージョンも何枚も持っていたが、
今では手元に一枚もない。

見識のある方々の元に、
旅立ったのです。

もちろん僕は、
商売の売り手としての側面もありますが、
無知で無学で稚拙な僕ですが、
単に、
チベットのティクマ、
チベットの襤褸、
その無類の美しさ、
現地の風土や人、
興味深い文化を感じて扱っているつもりなのです。


「チベットの襤褸とティクマ」


チベット仏教文化を表す、
『美しい布』と僕は思っておりやす。


そして、僕は、
それを追い求めているのでござる。



(写真掲載のティクマの襤褸座布団は、個人コレクションです)




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チベットの十字絞りインディゴ・ティクマ

2024年03月29日 | チベットもの



さて、チベットの十字絞りティクマ(ティグマ)の事です。

しつこく発信して恐縮です。

推しの人ならぬ、
推しの物です。

もう散々、今までもティクマ(またはティグマ)に関して、
書いてきました。

今後は、古手の物は、
もう多くは手にできないであろうのを感じ、
記録的要素として残しておきますのです。

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古いホース・ブランケット「タ・ケップ」です。

チベット語で正確に言うと、
ニンバ・ティクマ( ティグマ)・タ・ケップですな。

十字絞りの名称のティクマに関して、
ティ「グ」マと呼ばれていたり、または記載しているのは、
多くの英語表記だと「ク」の表記が、「g」(tigma)となるからだけど、
実際のチベタンのチベット語の口語表現だと、「ク」(音聞き)になる場合が多く、
僕は、ティ「ク」マと、メインに表記しております。

さて、早速。




蒼いインディゴの地です。

良い色をしております。

ティクマの布類または織物には、
絞りを入れる「地布の色」は、
青や赤、紫や白、黄色、緑など、多彩な下地の色がありますが、
個人的に青という色が好きです。




美しい十字紋様が明確に表現されてます。

輪郭に薄い黄色が現れています。




全体像。
物としての美しさ、完成度が素晴らしい。

上部部分の赤色が鮮やかに撮れてしまっているが、
実物は、燻んだ赤をした古色です。






古手ですな。
本当に古いです。






無数に表現された十字紋様。

所々、十字紋様が紅い色でも表現されている。

以前、他の店の知人でないチベット人業者で「十字の数」なるものを言う人も居たが、
個人的には、それは売り文句であろうと感じている。
十字紋様ティクマの数の意味や、
数による価値の有無は、
今まで納得できる理由を聞いたことがない。






白黒にしてみました。
十字紋様が惹き立つのです。






問答無用に美しいチベット民藝と個人的には思っています。
安易に、民芸または民藝という言葉は使えないけど。

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以前も書きましたが、
ティクマ(またはティグマ)のホース・ブランケットと言えど、
多種多様で、
サイズ・年代・裏地の素材や色、などなど、様々な種類がございます。

チベット本土はもちろん、
ラダックやザスカールなどでも目にするティクマ

民族衣装や、祭事衣装、
靴や帽子、
座布団、馬具や法具類にも表現されている、
チベットの十字絞りティクマ紋様

古くは、
ネパールにもチベットから渡ってきたティクマの織物たち。

ネパールでも、10年前位には目にする機会も今よりも多く、
値段も比較的買いやすかった。

チベット本土ラサとか東チベットには、
今や、じぇんじぇん無いよ。
いや、ほとんど無い、と言った方が正確かな。

ラダックであっても
ザンスカールであっても、
古く、十字紋様が多く表現された質の良い民族衣装ゴンツェやリンツェは、
もう、だいぶ少なくなった。

8年前位だったかなー

いつだったかなー

真偽と理由は知らんが、
フランス人の間で一気に人気になったらしく、
凄い勢いで値段が急騰し、
今では、数は激減しました。

ラダックで、
大量に古い十字絞りのリンツェを持っていた店が有ったが、
店の経営を父親から息子が引き継ぎ、
昨年の夏には、
ティクマ関連は、ほぼ無くなっていたよね。
なんなら店も新しくしてたし。

ネパールであっても、
めっちゃ高い物が高級店に幾つか残っているのを、
今ではわずかに目にするのだけど、
その値段は、
僕の売値より遥かに高かったりするほどです。

ラサや東チベットに至っては、
ティクマの物を見つけるのすら大変の上、
行くのが面倒すぎる。
手間もお金もかかってしまう。

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この投稿のホース・ブランケットは、
普段、店を開けない知人のチベタンの店に有った物。

前々から彼が持っていたのは知っていたけど、
古いズィ・ビーズとか扱ってるし、
「めっちゃ良いけど、高いんだろうなー」と思って見ていた。

今回、もう多くは手に入らないのを改めて痛感し、
他の店で僕が見送ったホース・ブランケットも滞在中に売れていた。

以前もブログで書いた、
白地の同手のティクマのホース・ブランケットは手に入れたが、
可能な限り、もっと手に収めておきたい。

そこで、
英語がほぼ話せない彼の店で、
お茶をしてるついでに値段を聞いてみた。

「やっぱ、高けぇ」

そう思ったよね。

しかし、
むっちゃ良い。

よく見せてもらったが、
問答無用に良い。

あー、もう、やんなっちゃうよ。

店主も
「これ、めっちゃ良い」
とか
「本当に古いぜ」
とか
「もう入ってこないんだよね」とか
あんま良く分からんチベット語と、
おぼつかない英語まじりで言っている。

まぁ、たぶん事実よね、これに関しては。

俺が「高いよ、値引きしてよ」と言うと、全然割り引かず、
「安いよ!」と言い、
奥から、センゲェ(雪獅子)柄の、
大きく古いオリジナルのチベタン・ラグを出してくる。

「これなんか、〇〇万ルピーだよ」と、
チベタンの親父は言う。

超高いー

でも、相場的には安い部類なんだろう、とも感じた。

ニューヨークとか持っていったら、
いくらの値段がつくか分からん。

超欲しいー

同時に、
このホース・ブランケットの「物の美しさ」は、
個人的には、その超高額なラグに劣る物ではないと感じた。

状態も申し分ない。
十字絞りティクマも複数表現されていて、
大きさもある。
裏地も良い。
古さもある。
何より、好きなインディゴ・ベースだ。
色も良い。

この先、また出会いのは簡単ではないだろう。
出会えるかもしれないし、
出会えないかもしれない。
出会ったとしても、いつになるのかは分からない。

僕は決めた。

「分かったよ、買うよ。金、持ってくるから待っとけ」

そう言うと、僕は現金を取りに帰った。


1000ネパール・ルピー札(約1100円・1000ルピーがネパーでは最高額紙幣)の、
分厚い札束を持って戻ると、
僕は買い取った。


あー、もー、やんなちゃうな


でも、良いもの買えた。


そんな思い出。



現状、私物(個人コレクション)



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死ぬ事すらもカスリ傷 輪廻編

2024年03月27日 | 日記



今回は、
死の捉え方に関して書きます。

笑いが必要とか言っときながら、
開き直って、
ド真面目な話題です。

結論を先に言うと、
生きる事に関してですな。

「オメーごときが言うなよ」と怒られるでしょう。

単なる、
自分に対しての書き留め事です。

間違っていたり、
考え方が違っていたりするかもしれません。
ご容赦くださいませ。

---

少し前に、テレビで安楽死に関して特集が放映されていた。

よく放映したと思う。

難病を患い、
スイスでの自死を求めて渡航し実施する人や、
直前で考えを変える人、
または、
同じ難病を患いながらも、
生きる選択をして考えを広める活動をしている人

そういった人々を、
ドキュメンタリー形式で撮影していた。

その後の反響をネットで見る範囲では、
反響はすごく大きく、
様々な意見が飛び交っていた。

あるサイトでは、
多様性AIなるものがピックアップした意見は、
安楽死の「議論」の必要性を訴える意見を
選抜してもいたが。

何日か経つと、
次から次へ湧き起こる世間の話題の中に埋もれ、
その話題は消え去ってしまった。


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死後の事、死んだらどうなるかは、
考え方や信じ方は人それぞれでしょう。

チベット仏教では輪廻転生という考え方がある。

チベット仏教では、
全ての生きとし生きるものは輪廻転生するとなっていて、
「肉体は死んだとしても、生まれ変わって、永遠にその魂は続きまっせ」と言うらしい。

つまりは、
再スタート

六道輪廻(ろくどうりんね)と呼ばれる、
神・人間・非神・地獄・餓鬼・畜生
(または、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)という、
六個の生まれ変わり先が存在し、
そのどこかに生まれ変わるのですな。

それがグルグルと周り続け、魂は不滅という訳でして。

正確には、
トゥルクやヤンシーと呼ばれる存在の様に、
人から人へと自在に生まれ変われる存在も信じられているけど。

いずれにしても、
現世での
再スタート(厳密には魂の延長線上だが)となる。

チベット仏教上、
「魂のゲーム・オーバーは無い」という考え方でござるな。

そう、
多くの場合、
喜びと共に苦悩に満ちた生が再スタートとなる。

例え、
バッタに生まれ変わったとしてもね。

厳密には、
ニルヴァーナ(ヒンドゥーや仏教等でも)、涅槃、と呼ばれる、
輪廻からの解脱、があると思うが、
それを話し出すと話が複雑になるんので、
ここでは一旦、置いておきましょう。

----

一方で、
「死んだらそこで終わり」という考え方がある。

現代社会では、それが一般常識であろう。
特に現代の先進国では。

簡単に言ってしまうと、
医学的見地?に基づいた、
「肉体が完全停止したら終わり。その先は無いっしょ」的な
考え方ですな。

まぁ、
古代エジプトとかでも死後の世界感とか、
日本でも多くの国々でも、
お墓とかお盆とか、
色々な儀式等で、
形式上は死後の世界を意識した行為が実在しているし、
世に無数にあるスピリチュアル的な様々な考え方も
色々とございますが、
現代での一般的な価値観では、
「死ねば、あの世に直行で、そこでエンド」

実際、
「死ぬことが最終」と考えてるだろうね。

それが普通だろう。

だからこそ、
「一度きりの人生」という言葉や価値観が、
大いに支持されているのかもしれない。

そこには、
「死=終わり」と言う概念が根付いているのだろう。

---

ここでは、
「魂の不滅か、死んだら全部終わり」の
どちらが真実かを論じたいのではなく、
実務的に、
日常生活において、
どっちを
信じる(または重きを置く)方が、
楽(または役に立つ)のでしょうか?と言う話です。


現代社会での人生は一度きりとした時、

「一度きりの人生、だったら思いっきりやろうや」

とも、ポジティブな面では考えられるし、

「一度アウト(死)すると全ては終わりだぁぁ、恐ろしい」

とも考えられる。


もし生きる事が苦しいのであれば、

「終われば(死ねば)楽になれる」

とも考えられる。



一方のチベット仏教での輪廻。

「死んでもまた始まるんだから、思いっきりやろう。善い行いもしちゃおうかな」

とも考えられるし、

「この苦しみがまた始まり永遠に続くんでしょ、やってらんねぇぇ」

とも考えられるかもしれない。



いずれにしても、
「死」を一定の境にしているのは共通する事であろう。


ぶっちゃけさー、
死んだら実際どうなるかって誰も知らんでしょ。


でも、例えば、
僕らの手元にゲームが二種類あるとしましょう。

一つは、
一度使って、ゲーム・オーバーになると、
二度と使えないゲーム。

もう一つは、
ゲーム・オーバーしても、
何度も再スタートできるゲーム。

どちらを選びますか?


人生をゲームに例えるのは適切では無いかもしれませんが、
僕であれば、
後者を選びます。

しかも後者のゲームには、
涅槃という最終ゴールが設定されています。
そして、
そのゲームは永久に続けられます。

---

基本的に、
多くの人々にとって、
人生は苦難の連続でしょう。

「あ〜、あんなに悲惨な事があった」
「人間関係が苦しいぃぃ」
「つらい事ばかりやがなー」
とかとか無限に苦しみや悩みや疑問は生まれます。

もちろん僕だって、
悩みや苦悩は溢れるほどあり、
在庫過多で倒産するほどあります。

「良い生き方してるね」とか
「旅を楽しんでるね」とか
よく言われます。

しかし、
もちろん、
実際にはそんな気軽な事ではなく、
悩みは絶大な苦しみとして、
僕に覆いかぶさってきます。

海外の安宿で、
悲しみや、
苦しみ、
溢れ出る様々な感情を、
外に聞こえないように、
枕に顔を埋め、
大声で叫ぶ時もあります。

もう発狂寸前よね。


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「死んだら楽になれる」

よく聞く言葉です。

「死ぬ事以外はカスリ傷」

有名な台詞です。

それは逆を返せば、
「今、生きている事は辛い」のを感じているのかもしれません。


公的な心の相談窓口は、
多くの悩み、
自らの命を絶つ事の相談がとんでもない数、寄せられるので、
繋がらないらしく、
そこで先日、
知人の友人が個人的に、
「命の電話」を開設したと聞きました。

心の悩み、
命の相談電話ですな。

今、
その電話は鳴り止まないそうです。

僕自身も生きてきて、
近くで、
自ら死を選んだ人々の話は聞いてきました。

これは異常な社会状況なんだけどね。

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そこで僕は想うのです。

死を、
絶対的な最終ゴールをしちゃうとさー、
生きる価値観に固執しちゃう気がします。

そして、
それはある種、
もっと自分の心を苦しめる(追い込む)かもしれません。


僕の死の捉え方、
捉えようとしている方法は、

「死んだって、どーせ、また始まるんでしょ〜
現世の細かい事なんか気にしてられんよ」

です。

つまりは、

『死ぬ事すらもカスリ傷』

です。


「あー、すんごい失敗しちゃった。でも次の世界では上手くやりますよ」程度ですな。

そう考えると、
良い意味で、
どうでも良くなる時があります。

僕の場合、
現世を一度きりの絶対的な出来事として考えると、
失敗せずに上手くいく幸せ、を考え過ぎちゃいます。

他人と自分を比べる、
幸せ迷子にもなりがちです。

しかし、
もし、死んでも再スタートすると捉えるならば、
今の苦しみすら限定的な事かもしれません。

そう考えると、
アホらしく思える時があります。

まぁ、チベット仏教ベースですが、
それには、
魂の苦しみは解脱するまで永遠に続くって考え方も付随しますが、
それまで信じてしまうと、
無理ゲーを永久に続けるようなもんです。

僕は都合よく良いとこ取りをしたいです。

だって、それは自由じゃん。

ぶっちゃけ、
死生観なんて、
自分勝手に信じ込んだもん勝ちよ。


基本、
人は、
善い行いだけをして生きる事は、
不可能だと僕は思っています。

そもそも、
善い悪いの基準すら人によって決められ、
曖昧なものだと僕は思っています。

自死や安楽死すら、
今の時点では、
いや、少なくとも
全員に共通する、
「善悪の真実」なんて分かりゃしないと思うのです。

家族や親しい人々など、
「現世に身を置く側からの見解や感情」、
それらが、
自分自身と安楽死という行為を複雑にしているかもしれません。

安楽死に関しては、
国によっても国民性によっても違うのだから、
尚更ですよ。

死んでも、
また始まるから。

次の世では、
きっと上手く出来るよ。

現世の人生の展望がなく、
または辛すぎるなら、
究極論、
死んだって良いかもしれない。
だって、
価値観は人それぞれです。
それを家族や
愛する人達ではない人が、
こうだと断じる事はできない、
あくまで、議論にとどめるべきだ、と僕個人は思っています。

しかしながら、
今、悩んで死ぬより、
この今の世の命で、
得な考え方を選んで気軽に、
自分勝手に生きた方が良いかもね、
とも考えています。

命に向き合うってのは、
非常に重い行為と思想でもあるだろう。

でも、
だからこそ、
今の社会に置いて、
あえて、
時には、
そんな軽いノリで良いんじゃないのかしらね。


そんな事を思うのでした。



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