釧路城山佛舎利塔(仏舎利ハンター日誌 Vol.3)

2023/05/17

日本のミャンマー 仏舎利ハンター 北海道

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釧路市城山の丘の上に立つ高さ33m、基部直径27mの仏舎利塔。
後に多くの仏舎利塔設計を手掛けることとなる大岡實が最初に設計した記念すべき仏舎利塔である。
また花岡山(熊本)足羽山(福井)に続いて日本では3番目に建立された、日本山妙法寺による仏舎利塔でもある。
塔内には合計6粒の仏舎利が奉祀されており、それぞれインド・セイロン(現スリランカ)・ビルマ(現ミャンマー)から2粒ずつ贈られたものだという。


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この仏舎利塔は釧路市で水産加工業を営んでいた中村小三治(1899/10-1963/06/12)による発願である。
小三治の長女サダ(中村行浄)が1947年(昭和22年)に日本山妙法寺の尼として出家したこと、日本山妙法寺山主の藤井日達上人が釧路は最もソ連に近いところだから是非平和記念の仏舎利塔を建立せよ、と命じたとことなどがその発願の所以である。また釧路には戦中に北海道に渡った日本山妙法寺の中谷行一上人がおり、塔内に奉祀されている仏舎利のうち2粒は中谷上人がビルマの独立運動に関与した南機関の機関長鈴木敬司から譲られたものであるという。

参考:


さて、この仏舎利塔の設計が大岡に託された理由は大岡實設計研究所(外部リンク)に詳しい。藤井上人の命を受けた日本山妙法寺の橘上人は、当初清水建設の小川昌三にその設計を依頼したという。しかしながら清水建設ではこのような特殊な建築物の設計はできないと断られ、代わりに小川の東京大学時代の同級生であった大岡が紹介された。
大岡も自身の専門が日本の古建築であり、インドの建築に関しては本でしか知らないことを理由に一度は断ろうとしたものの、一方で日本でインド建築を手掛けられる人は他にいないと思い立ち、「勉強しながらでよければ」という条件を付けたうえで承諾した。大岡は設計に当たり手あたり次第のインド建築関係の本を集め勉強したという(その後1958年(昭和32年)頃に実際にインドを訪問し実施調査を行った)。

こうして仏舎利塔の設計者が決定し、1952年(昭和27年)6月25日に、藤井上人の釧路訪問に合わせて地鎮祭が行われた。その際藤井上人は仏舎利塔の建立に関して「釧路は港によって発展した地方だから宝塔は港に向かって建てるのが良い」と希望し、実際に完成した仏舎利塔の正面は釧路港を向いている。

地鎮祭の翌1953年(昭和28年)7月10日に起工式が行われた。式典には佐熊宏平釧路市長、設計者の大岡實の他、セイロンからダルメスワール博士(M. Dharmeshwar)が2粒の仏舎利を奉持して参列した。
起工式後、出家者たちによる人力での基礎掘削作業が始まる。工事に際しては地元土建業者から1名の大工を派遣してもらった以外は全て出家者並びに信徒等による勤労奉仕によって進められた。幸い日本山妙法寺仙台道場の小野行寂上人が土木工事の経験を有しており、彼に加えて塙行幸上人、牧野泰蔵上人、明平健児上人の計4名が工事の中心となった。
1956年(昭和31年)に基礎掘削が完了し鉄筋の配筋に取り掛かり、1958年(昭和33年)8月25日、仏舎利の奉納式が行われた。この際にはビルマからウ・オッタマ(ビルマ独立運動家とは別人)も参列している。

その他建立工事の間にはセイロンのフォンセイカ(Susantha de Fonseka)駐日大使(1956年6月)やインド上院議員のカレル・カール・カカサーブ(1957年5月)、秩父宮妃(1958年)も視察に訪れ、特に秩父宮妃からは南・無・妙・法・蓮・華・経の7字を浄書した津軽メノウ石が贈られ、こちらは仏舎利同様塔内に安置されている。

1959年(昭和34年)8月21日、地鎮祭から数えて7年の歳月を経てついに落慶法要が開催された。この法要にはインドからジャガト・ナラヤン・ラール(Jagat Narain Lal)を団長とする仏舎利塔巡拝団を始め、ビルマ、セイロンからも仏教関係者が参列した。また法要に先立つ8月20日には釧路市公民館にて前夜祭として落成記念日印親善大講演会も開催された。
ただしこの落慶法要の時点では、この仏舎利塔の一番の特徴ともいえる四面のレリーフは正面の法界定印を結んだものしか設置されておらず、外壁の石張もない状態であった。実質的に未完成の状態で落慶法要が執り行われた理由は、この時点で発願者である中村小三治の病状が芳しくなく、その命のあるうちに落慶式を行いたいという関係者の希望があったためである。なお小三治の右腕として建立に尽力した釧路市公民館長の丹波節郎(1907/11/3-1994/2/21)も落慶法要直前の8月15日に胃潰瘍で倒れ、落慶法要には両名とも不参加となった。

こうした事情から落慶法要後も工事は継続され、1962年(昭和37年)に降誕仏(背面)、1964年(昭和39年)に初転法輪像(右側面)、1968年(昭和43年)に涅槃像(左側面)がそれぞれ設置され、御影石による石張り工事が1967年(昭和42年)から1970年(昭和45年)にかけ実施、そして1974年(昭和49年)8月29日の仏舎利塔建立15周年記念大法要を以て釧路城山仏舎利塔は遂にその完成を見た。
この法要は日本山妙法寺山主の藤井日達上人が導師を務め、ホンジュラス共和国、コロンビア共和国、中央アフリカ共和国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国など5か国の大使・一等書記官・参事官及びその家族9名が臨席し、一般参加者は300名を数えたという。
落慶式に参列したインド・セイロン・ビルマが不参加であったこと、そしておよそ仏教とは縁がないように思われる国々が参列した点には違和感があるが、残念ながらその経緯については不明である。
なお、発願者の中村小三治は仏舎利塔の完成を見ることなく1963年(昭和38年)に74歳でこの世を去っている。

完成後は小三治の長女である中村行浄(サダ)や釧路仏舎利塔奉賛会長の丹波節郎などが長年維持管理を行っていたが、中村行浄は1992年(平成4年)に遷化、丹波も1994年(平成6年)に逝去した。この時点で既に建立に関わった人物や信徒の大半がこの世を去っており、今後の維持に不安を残すこととなったが、建立の際の勤労奉仕から家族で参加していたという工藤妙浄が夫婦で管理を引き継ぐこととなった。
工藤夫妻は中村水産株式会社に勤務しており、定年退職と共に出家。特に妙浄は小三治と同じく岩手県岩泉町の出身である。2008年(平成20年)に夫が遷化した後は長らく1人で塔を管理していたが、維持費は自身の貯蓄や年金から捻出しており、金銭的にも体力的にも維持管理が年々難しくなっていった。
そうした中、釧路市材木町で左官業(有限会社明吉左官店)を営む中野吉次が2013年(平成25年)より10年計画で塔の補修工事を始めた。中野は20代半ばから昭和30~40年代の日用雑貨収集を始め、そのコレクションを市内数か所の私設博物館(なつかし館蔵)で公開し、昔の暮らしを後世に伝える意義を地域に訴えていた。
中野にとってこの仏舎利塔は釧路で一番のシンボルであり、その町のシンボルをこのまま朽ちさせるのではなく、後世へと残すべきであると考え無償での補修を請け負った。現在はその補修工事もほとんどが完了している。


さて、この仏舎利塔はこれ以降に建立される仏舎利塔とは異なる特徴を有している。
その一番の特徴はなんといっても実際の仏像ではなくレリーフが設置されている点であるだろう。このレリーフは青銅製で富山出身の仏像彫刻家、斎藤高徳(1920/2/21-2004/2/3)による作品。
四面に配されたレリーフは、正面に法界定印を結んだ結跏像とその周囲に7体の化仏、背面に降誕仏と摩耶夫人、侍女2名、向かって右側面に初転法輪像と合掌の比丘、天女、左側面に涅槃の釈迦像と悲哀相の比丘等となっている。レリーフの表情については、インド的にするか日本的にするかと問われた江川照男(小三治の義理の息子)が日本人的な表情にして欲しいという要望を出したという。レリーフの鋳造は高原四郎によるもので相輪最上部の宝冠も同人による。

正面

背面

右側面

左側面

前述の通り本塔には計6粒の仏舎利が奉祀されており、その内訳はインドのジャワハルラール・ネルー首相(Jawaharlal Nehru)から贈られた2粒、セイロンからもたらされた2粒、そして日本山妙法寺の永井行慈を介し、鈴木敬司より贈られた2粒となっている。


最後に発願者である中村小三治と経営していた中村水産株式会社について簡単に述べておく。
中村小三治は1899年(明治32年)10月、岩手県下閉伊郡岩泉町で生まれた。20歳で北海道へと渡り、多くの苦労を重ねながら1920年(大正9年)にソボロ加工業を開始。以降肝油製造やフィッシュミール製造などにも手を広げ、釧路の水産加工業の先覚者となった。1960年代に建設された同社の製氷工場は、現在も釧路フィッシャーマンズワーフMOOの対岸に残っている。1963年(昭和38年)に小三治が亡くなったあとは、長男の直次郎が跡を継いだものの就任の翌年に急死(享年47歳)。その後3代目の社長として小三治の義理の息子(次女の夫)である江川照男が跡を継ぎ更に発展させ、最盛期の売上高は150億円を超えた。
なお、同社は1997年(平成9年)3月31日に解散し現在は存在していないが、前述した同社の旧製氷工場はその後釧路の地ビール(くしろ港町ビール)製造工場として2007年(平成19年)まで使用されていた。現在はくしろ夕日カフェが入居している。

旧中村水産製氷工場

また中村小三治の曾孫にあたる中村純也が釧路市内で現在も鮮魚店を営んでおり、水産業に関わる中村家の血は脈々と受け継がれているようだ。更に建立に当たって小三治の右腕として尽力した丹波節郎の孫が経営する株式会社丹波商会は、釧路フィッシャーマンズワーフMOO内やたんちょう釧路空港内にて特産品・土産物を販売するたんばやを運営している。

参考:



参考文献:
釧路城山仏舎利塔建立奉賛会編:釧路城山仏舎利塔
吉田仁磨:炎の人 小三治一代
週刊時事編集部編:この人・その事業(6)
釧路新聞社:道東 戦後四十年史(下巻)
釧路新聞(1959/07/14・1959/08/21・1974/08/22・1974/08/30)
北海道新聞(1959/08/19・2012/06/19・2013/06/25・2015/07/21)
毎日新聞(1959/07/14)





幣舞橋より








仏舎利の名を冠したバス停

日本山妙法寺釧路道場



釧路城山佛舎利塔
Address : 北海道釧路市城山1-11


2022/4・2023/4撮影



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Author

散る散るミチル

ヤンゴンのコロニアル建築を中心にミャンマーのニッチな観光情報をまとめています。
日本帰国後は日本にあるミャンマー関連のものを中心に取り扱ってます。

あと最近仏舎利ハンターに転職して全国各地の仏舎利塔を巡っているので近いうちにこちらもまとめる予定。

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