#309 私の落語家列伝(6) ―拙ブログ#296参照― | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

25四代目 三遊亭圓馬(1899-1984 さんゆうてい えんば)

 私のライブラリーには「須磨の浦風(#210)」「にゅう」「棒屋」というマイナーなものしかないが、踊りや二人羽織というお座敷芸を得意とした人気者であったようだ。東京落語界に籍を置きながら上方でも活躍したこともあり、三代目三遊亭遊三を始めとして弟子が多く集まり、現在でも一つのグループを形成している。「淀五郎(#246)」「宮戸川」を得意としたようである。

1960年代ではまだお座敷での宴会が主流で隠し芸がよく観られたものである。三味線を伴奏にした小唄や都々逸、香具師の口上などと共に二人羽織も人気があった。

 

(ハギ)

 

26六代目 三遊亭円生(1900-1979 さんゆうてい えんしょう)

(アジサイ)

 

私の好きな落語家十指に入る一人である。高座の冒頭に音を立ててお茶を飲むのがトレードマークで、淀みない明快な語り口調が魅力的であった。ジャンルは人情、滑稽、芝居、怪談、音曲噺と幅広く、持ちネタの多さはトップクラスの名人であった。また、著書も多くあり、端正な顔立ちの文学博士というイメージであった。

大阪市の名主家の女中の子に生まれたが実子として育てられ、幼少の頃から義太夫の稽古をさせられた。だが、家は没落、両親は離婚し、母と二人で義太夫芸人として生計を立てることになる。この頃から聞き覚えた落語を舞台でも披露するようになっていた。評判がよく、9歳の頃落語家に転身した。師匠は母の再婚相手の五代目三遊亭圓生であった。この芸歴の長さと記憶力の良さから300題とも言われた持ちネタの多さが彼の財産であった。

戦後に一挙に芽が出て五代目志ん生らと並ぶ第一人者となり、1973年には昭和天皇に呼ばれて御前落語を演じた。演目は「お神酒徳利(#91)」であった。芸に厳しい人で、1978年、落語協会の真打ち大量昇進に反対して協会を脱退し、“三遊協会”を設立した(現在も“圓楽一門会”として引き継がれている)。

得意ネタを選ぶのは難作業であるが「鰻の幇間(#180)」「火事息子(#174)」「小間物屋政談(#179)」「子別れ(#44)」「唐茄子屋(#19)」「鼠穴(#125)」「妾馬(#170)」「淀五郎(#246)」「豊竹屋」それに圓朝作の怪談噺を挙げておく。人情噺と義太夫で鍛えた喉を活かした音曲噺に彼の真骨頂が観られる。

習志野市の商業施設の一角で開かれた彼の後援会で小品の「桜鯛(#155)」を演じた後に倒れてそのまま帰らぬ人となった。幾多の大舞台を踏み、幾多の大ネタをも自家薬籠中の物とした彼とはあまりにも対照的な最期が語り草となっている。

 

27初代 柳家金語楼(1901-1972 やなぎや きんごろう)

(チューリップ)

 

私が知っている金語楼はエノケン(榎本健一)と並ぶ喜劇俳優としてであって、落語家であったことは知らなかった。彼を知ったのは、剥げ頭の芸人を売りにして、テレビの草創期に「ジェスチャー(1953年放映開始)」や「おトラさん(1956年放映開始)」で、また、映画で超人気者となっていた金語楼であった。彼は1942年に落語家を廃業していたと言うから、私が落語に興味を持った頃には既に廃業していたのであった。

 だが、廃業しても落語と縁を切ったわけではなく、有崎勉というペンネームで多くの新作落語を創作し、彼が六代目柳橋と一緒になって立ち上げた落語芸術協会の会員に提供を続けたのであった。

 “私のライブラリー”には「きゃいのう(「団五兵衛」の改作)」「身投げ屋」の2席、それに自分の軍隊時代を漫談風に話した「落語家と戦友」「落語家の兵隊」があるだけで、特に聴き物はない。他に、「我が生い立ちの記」という50分に及ぶ一席というか随談があり、金語楼ファンには必聴ものである。

 

彼は正に多才な人で、劇作家でもあり発明家でもあった。児童が体操の時に被る赤白帽と爪楊枝の頭の切り込みは彼が発明したものである。

 なお余談だが、1960年前後に平尾昌晃、ミッキー・カーチスと共にロカビリーブームを巻き起こした山下敬二郎は彼の息子である。

 

28三代目 桂三木助(1902-1961 かつら みきすけ)

十代後半に落語家となったが博打にのめり込み、“橘ノ圓”という高座名より“隼の七”という博徒名の方が有名であったという。好きな女性が現れ、落語家として名を成したら結婚させてやると言われて心機一転、落語に打ち込んだ。そして、それまでの自分の生き様を反映したかのような心情で演じた「芝浜(#109)」で人気が爆発し、念願の結婚もできたという根性の人であった。

後年は実力を発揮して名人の域にまで達し、六代目柳橋と共にNHKラジオの“とんち教室”のレギュラーともなったから頭の回転の速い人だったのだろう。後に売れっ子になる九代目入船亭扇橋林家木久扇ら多くの弟子を育てた功績も大きい。

最後の高座は「三井の大黒(#161)」「ねずみ(#198)」も彼の代表作と言われており、左甚五郎が好きだったようである。名人級の中では残されている音源が極端に少なく、40演目位に止まっているというのが残念である。上述の他では「たがや(#207)」「竃幽霊(#249)」「味噌蔵(#135)」、小品の「加賀の千代(#164)」、文芸ものの「左の腕(#151)」がお薦めである。

 

(アガパンサス)

 

#296 私の落語家列伝(1)

 

 

 

#298 私の落語家列伝(2)

 

 

 

#300 私の落語家列伝(3)

 

 

 

#304 私の落語家列伝(4)

 

 

 

#307 和足の落語家列伝(5)

 

 

 

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