#311 私の落語家列伝(7) ―拙ブログ#296参照― | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

29七代目 橘家圓蔵(1902-1980 たちばなや えんぞう)

(アメフリソウ)

 転職を繰り返し、21歳で八代目文楽に弟子入りしたというから当時としては遅かった方である。だがその後も一言居士が災いしてか、師匠と衝突して破門されて幇間になったり再入門したりと波乱の経歴の持ち主であったようだ。

新作を得意としたという情報があるが“私のライブラリー”には「紙屑屋(#264)」「甲府い(#55)」「高尾(反魂香)」「袈裟御前」などの古典ばかりで、中でも「芝浜(#109)」はなかなかの出来である。江戸落語に古き良き時代を見たようで、マクラで当世をぼやいたり皮肉ったりしていた。また、噺の途中で横道へそれることも観られ、弟子の初代三平八代目圓蔵に通じるものを感じさせる。他には「子別れ(#44)」を持ちネタにしたようで江戸落語を得意とした、ちょっと気難しい噺上手であったかと私は思う。

 

30四代目 三遊亭圓遊(1902-1984 さんゆうてい えんゆう)

(サザンカ)

 軽快な語り口調で江戸風の粋を感じさせた噺家であった。笑顔を絶やさない気さくな性格で楽屋でも人気があったと言う。弟子筋にはあまり恵まれなかったが、高座はもとより落語芸術協会の大御所としても落語界の興隆に貢献した人であった。

持ちネタは滑稽噺中心であったと思われ、古典の「かつぎや(#110)」「二番煎じ(#104)」「野ざらし(#248)」「湯屋番(#160)」は絶品で、「長屋の算術」「抜け裏」などの新作も残されている。芸域は広い方とは言えないが名人の域に達していた落語家であったと私は評価している。

 

31九代目 鈴々舎馬風(1904-1963 れいれいしゃ ばふう)

(チョウセンアサガオ)

 高座に上がるや、「よく来たな、他に行く所はなかったのかい。よく遊んでいられるな、早くお帰りよ」と客を叱るのを常套とした毒舌落語家であった。もっともこれはギャグで、その直後に「嘘だよ! ちょっと言い過ぎたな。ゆっくりと遊んでいって下さい」と頭を下げる愛嬌家でもあった。客も心得たもので、叱られるのを楽しみに寄席へ来たようであった。当時としては珍しく知性派で、トピックスをネタにした時事落語で一世を風靡した人気者であったと言う。“私のライブラリー”には「夏の風物詩」「権兵衛狸(#252)」があるだけで、彼の値打ちを評価することはできないが、ぼやき芸人の元祖と言われ、古典の改作を得意ネタとしたワルタイプの落語家であったようだ。

なお、どっちでもいいことだが、本人は九代目を名乗っていたが実際は四代目に当たるそうである。当代もこれを引き継いで十代目を名乗っており、毒舌も受け継いでいる。

 

32八代目 春風亭柳枝(1905-1959 しゅんぷうてい りゅうし)

 軽快な語り口は耳に心地良く、安定した実力の持ち主であったと評価している。温厚誠実な人であったそうで、弟子の三遊亭圓彌六代目三遊亭圓窓もマスコミに登場するなど名を成したが地味なタイプで、真面目タイプの師弟一門という感がある。

持ちネタは多い方と思われ、「王子の狐(#165)」「甲府い(#55)」「山号寺号(#8)」「垂乳根(#178)」「四段目(#14)」「五月幟(#191)」「元犬」など馴染みの噺を得意としたようである。

(ツワブキ)

 

33三代目 林家染丸(1906-1968 はやしや そめまる)

(ヒマワリ)

 布袋さんと恵比須さんを合わせた風貌が何とも印象的な、いつも笑顔の人であった。私が彼を初めて見たのはテレビ番組「素人名人会」(1960-2002年放映の長寿番組 毎日放送)の審査員としてであった。風貌と喋りとで茶の間の人気者となった。

 経歴を見ると、少年の頃に両親と死別し、丁稚や事業家など色んな仕事をし、苦労したようである。幼い頃から義太夫の素養はあったが落語家として芸人をスタートさせたのは26歳であったから遅い方で、太平洋戦争を挟んで実業家と落語家の兼業であったようだ。

話芸の実力については、私は名人級と評価しているが専門家の目からは稽古不足で大衆に迎合し過ぎという評価が専らのようである。当初は“上方四天王(#294参照)”に彼を含めて“上方落語五人男”と呼ばれていたが後に外されたようである。三代目米朝は彼をあまり評価していなかったがその弟子の二代目枝雀は彼に憧れていたと言う。同業者でも意見が分かれている。難しいことは抜きにして大衆にとにかく笑いを与えることが彼の落語哲学であったのかも知れない。

 1957年に、上方落語協会の設立に際しては初代会長に推された(#294参照)。“上方落語五人男”の中の最年長者であったことと豊富な実業経験がその理由であったようで、芸の力から推されたものではなかったようである。素質を持ちながらも稽古不足で終わった落語家というところであろうか。いずれにしても上方落語を聴く上で外せない一人である。

 日常の生活は高座の顔とは打って変わって厳しい人で、弟子たちはピリピリしていたが、その一方で、人情に厚い人でもあったと言う。

 得意ネタは義太夫を活かした「堀川」「片袖」の音曲噺それに幇間ないしはお調子者が登場する滑稽噺「猿後家(#310)」「幇間腹(#251)」「ふぐ鍋(#116)」「源兵衛玉」「莨の火」などと言われている。前者の音曲噺は私は聴いたことがないので何とも言えないが、後者は彼の風貌が幇間を連想させる関係で、地で演じている臨場感があって確かに聴き物である。

 

 

#296 私の落語家列伝(1)

 

 

#298 私の落語家列伝(2)

 

 

#300 私の落語家列伝(3)

 

 

#304 私の落語家列伝(4)

 

 

#307 私の落語家列伝(5)

 

 

#309 私の落語家列伝(6)

 

 

 

 

 

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