折口信夫は、大正期から昭和にかけて活躍した民俗学者にして国文学者である。また、短歌世界においては釈迢空の名でも知られていた。


折口は、明治20年、大阪府西成郡木津村(現・大阪市浪速区)に生まれる。生家は医業を生業とし、加えて生薬、雑貨を売る商家を兼ねていた。

折口は、明治38年に天王寺中学を卒業したのち、國學院大學に進んだ。


國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける一方、短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。


大学を卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、柳田國男の民俗学に触発されて2年余で職を辞して上京、国文学の研究と短歌の創作に情熱を注いだ。


大正8年には、國學院大學の講師となり、のち教授として終生國學院の教職にあった。


大正9年、中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行に出たのを皮切りに、翌10年から二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行。折口の古代研究の学は、この時期の採訪旅行によって開眼したと言われる。


折口は、師である柳田國男とともに我が国における民俗学の醸成に多大なる功績を残したわけであるが、その一方で両者のアプローチ方法は異なっていた。


柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめ「まれびと」や「よりしろ」という独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。


さらに折口は、国学の研究法に新しく民俗学の研究法をあわせ、さらに独自の個性による実感の学としての要素を加えて、古代から現代に至る日本人の心の伝承をとらえようとしたもので、研究の領域は国文学、民俗学をはじめ、神道学、国語学、芸能史の面に及んでいる。


また、日本人の神観念のうえに外来神の要素をみいだし、それを「まれびと」として位置づけ、さらに「まれびと信仰」に基づく日本文学の発生論を示したのである。



表題作「身毒丸(しんとくまる)」は、大正6年に「みづほ 第八号」に掲載されたもので、本文中の「附言」にあるように、高安長者伝説をモティーフにして、宗教倫理の方便風な部分を取り去って、原始的な物語に再構成して描いたものである。


身毒丸とは、俊徳丸とも表現され、高安長者伝説で語られる伝承上の人物の事である。


河内国高安の長者の息子で、継母の呪いによって失明し落魄するが、恋仲にあった娘・乙姫の助けで四天王寺の観音に祈願することによって病が癒える、というのが伝説の筋であり、謡曲や説教節など様々な古典芸術の表現によって伝えられている。


とくに謡曲「弱法師(よろぼし)」は、観世元雅の作にて能の代表的演目として広く知られているが、他の俊徳丸伝説より悲劇性が高く、伝説のように盲目の病が癒えることはない。


俊徳丸は人の讒言を信じた父・通俊により家から追放され、 彼は悲しみのあまり盲目となってしまい、乞食坊主として暮らす事を余儀なくされる。 盲目故のよろよろとした姿から、周囲からは弱法師と呼ばれるのである。


陰暦2月彼岸の中日、真西に沈む夕日を拝む為、俊徳丸は四天王寺を訪れた。

 天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かいあっていると信じられていたので、彼は落日を拝んだ。これを日想観(じっそうかん)と呼び、落日を拝むことで極楽浄土に行けると信じられていたのだ。


俊徳丸が日想観を行うと、祈りが通じたのか、これまで見えなかった目が見えるようになる。 

気分が高揚した俊徳丸は、あちらこちらへと歩きまわり、周囲の景色を見てまわる。 しかし、行き交う人々にぶつかってよろけ、現実に引き戻される。 目が見えたと思ったのは、ただの錯覚だったのだ。 


日が暮れ、一人たたずむ俊徳丸に彼を偶然見かけた父・通俊が話しかける。 話しかけられた俊徳丸は、乞食の我が身を恥じ、よろよろとしながら、あらぬ方へと逃げてゆく。 通俊はそれに追い付き、彼を家へと連れて帰るのだった。


以上が、謡曲「弱法師」の顛末であり、俊徳丸はその境涯において盲目流離の身にありながら困難に打ちひしがれるも、純粋な心を忘れることなく、たとえば袖に落ちかかる梅の花弁をも愛でる心は失わない清澄さを心に湛えていたのである。


その様子は、下村観山によって「絹本金地著色弱法師図」として描かれている。


この絵は国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されているのだが、右隻には弱法師こと俊徳丸が梅の老木の下に彳んで梅の花弁が散る様子を肌に感じながら森羅万象に宿る仏性を感じる様子を描いている。


一方、左隻には、燃えるような大きな落日が描かれており、俊徳丸が日想観を行うことで、目を癒えることは無かったものの、その求道心ゆえに心眼が開かれてゆく様子を神秘的に描いているのである。




さて前置きが長くなったが、折口信夫の「身毒丸」の内容はこれまで長々と書いてきた「高安長者伝説」または謡曲「弱法師」の内容は大分異なる内容であり、はじめて本作を読んだ時、大きな戸惑いを感じた事を覚えている。


身毒丸は、田楽師・住吉法師の息子として生まれ、自分もまた田楽師として育ち、住吉大社の御田植神事の外は旅廻りで、雲水行脚の生涯を送っていた。


父・住吉法師は、ある夜、寝ている息子・身毒丸を揺り動かして起こすと、「お前にはまだ分るまいがね」と云う言葉を前提に、彼れこれ小半時も、頑是のない耳を相手に、滞り勝ちな涙声で話していたのであるが、その時に父が何を告げたかったのか、幼い身毒丸の記憶にはほとんど残っていなかった。


しかし、その夜の光景は、身毒丸が父親を見た最後の姿であり、父が人知れず業病に苦しみ、神仏に仕える身としてこれ以上田楽師の仕事を続けられないこと、我が子に自身の病に関する悪い噂が付かないように、断腸の思いで姿を消すに至ったことなど、知る由も無かったのである。


こうして身毒丸は、父の弟弟子に当たる源内法師に引き取られ、住吉の神宮寺に附属している田楽法師の瓜生野と云う座に養われることになった。


この座のしきたりでは、齢が十二になると、用捨なく剃髪させられ白い衣に腰衣を着けさせられた。

ところが、身毒ひとりは、十七歳になるまで剃らずに済んだのは相応の理由が存在した。


身毒は、細面に、女の様な柔らかな眉で、口は少し大きいが、赤い脣から漏れる歯は、貝殻のやうに美しかった。額ぎはからもみ上げへかけての具合は、剃り毀つには堪えられない程の愛着が、師匠源内法師の胸にあり、弟子のうちで唯一赦されていたのである。


身毒丸の美少年ぶりは、毎年田楽興行で訪れる各地の人々のあいだでも噂となっていた。

とくに、五月に訪れた伊勢の関の宿で、田植え踊りを披露したところ、高足駄を穿いて足を挙げながら勇壮に踊る身毒の姿に、観客たちは神々しいほどの美しさを感じていた。


関から鈴鹿を踰えて、近江路を踊り廻り、水口の宿まで来た時、一行の後を追うて来た二人の女があった。


それは、関の長者の妹娘が、はした女一人を供に、親の家を抜け出して来たのである。妹娘は、身毒丸の美しい風貌に惚れて、わざわざ水口くんだりまで必死になって追いかけてきたのだ。


はじめて女に追いかけられる経験をした身毒は、耳朶まで真赤にして逃げるように師匠源内の居間へ上がって委細を打ち明けたところ、師匠は慳貪な声を上げて、たちまちのうちに二人を追い返してしまった。


そして、源内は女たちを惑わせたのは身毒にも責任があるとして、夜一番鶏が鳴くまで、師匠の折檻に受けることになり、これを機に身毒も剃髪させられたのであった。


また、ある時、泉州石津の郷で盆踊りがとり行われるので、源内法師は身毒と、兄弟子の制吒迦(せいたか)童子とを連れて、一時あまりかかって百舌鳥の耳原を横切つて、石津の道場に着いた。


身毒は、月明かりの下、一丈もある長柄の花傘を手に支へて、音頭をとった。月の下で気狂ひの様に踊る男女の耳にも、身毒の迦陵頻迦(かりょうびんが)の様な声が澄み徹った。


誰もが身毒丸の美声と美しい容姿に酔いしれていたのも束の間、身毒の目の前に、女の放恣な姿が忽然と現れて、彼の純粋な心を捉え、呆然となった身毒は音頭を止めてしまった。


この事が源内法師の逆鱗に触れ、身毒の襟がみを掴むと自身の部屋へ引き摺っていった。

源内は、「芸道のため、第一は御仏の為ぢや。心を断つ斧だと思へ」と言うと、身毒に龍女成仏品の一巻を手渡してそれをひたすら写経するよう命じたのである。

写経は、血書でおこなわれ、身毒は師匠の言われるがままに、己の指から血を滴らせながら写経を続けるも、提出した血書は悉く源内によって引き裂かれ、やり直しを命じられるのであった。


源内は、身毒が煩悩に溺れて修行に支障が出ることを恐れていた。この子の年齢ならば性に興味を覚えるのは自然の成り行きではあったが、源内は身毒の事を我が子の様に可愛がれば可愛がるほど、身毒が女に興味を持つことを恐れ、狂焔のごとく嫉妬したのである。


実は、源内も身毒の神々しいほどの美しさに蠱惑されていたのである。


源内自身も妻を早くに亡くし、兄弟子である住吉法師が韜晦(とうかい)すると、その衣鉢を継いで瓜生野の座を率いる立場になったものの、それ以来、兄弟子の忘形見の扱い方には常々戸惑いを感じていた。


師匠と云う立場ゆえ、身毒が煩悩に捕らわれようとすれば、その度に峻厳に叱咤しなければならなかったが、実を言えば源内自身も煩悩に心を紊されていた。


しかもあろう事か、弟子の身毒に完全に心を奪われていたのである。源内は、自身の姿をあさましく感じると、持仏堂に走り込んで、泣くばかり大きな声で、この邪念を払はせ給えと祈った。

身毒の身体的魅力に関する妄念から解き放たれることは至難だったのである。


ここまで書くとお気づきかと思われるが、この物語は、衆道(しゅどう)をテーマにしているのである。


女犯(にょぼん)を罪としていた仏教世界に生きる男達の間では、しばしば男色(なんしょく)が密かな営みとして行われていた。

女犯にせよ男色にせよ、己の煩悩との戦いは熾烈を極め、結果として多くの悲劇を生んだ事は、歴史が証明しているところである。


さらに言えば、折口自身、同性愛者であり、彼は「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べるなど、同性愛を忌避する当時の社会通念に異を唱えたこともあった。


現代は多様性の社会であり、同性愛を特別視する事自体、ナンセンスな風潮になりつつあるが、少なくとも、本作を執筆するにあたって、折口自身の個人的な心情も込められているという意味においても、興味深い作品であると言えるだろう。


評点

★★☆☆☆