殉死の歴史(日光旅行付録)
なんやかやあって、また更新が遅くなりました。ミカです。
前回の日光旅行編で出会った「殉死の墓及び譜代家臣の墓」の続きなのですが、せっかくなので殉死の歴史を紐解いたところ、だいぶ長くなってしまったので、今回は日光旅行が全く出てきませんっ。
殉死の歴史
日本書紀、魏志倭人伝などが伝承する殉葬
武士社会の殉死
江戸時代の殉死
松平忠吉の家臣の殉死、評判になる
家康・秀忠、結城秀康への殉死を差し止める
水野左膳、松平忠昌に殉死せざること
殉死のルール
藤堂高虎、殉死に一計を案じる
息子の死について、家康様こぼれ話
※今回ご紹介している殉死の説話は、神話、軍記物、逸話集などからが多いので、必ずしも史実とはいえないものもありますが、大きな枠組みで当時の世相、人々の考え方や行動が反映されているという点で歴史を読み取れる資料ではないでしょうか。
余談ですが、ワタクシ。家康様には常に敬称を付けたい!派なのですが、場合によっては読むとき邪魔かな?と最近悩んでおります。なので文章中で敬称があったりなかったりしていますが、ご了承下さーい。
殉死の歴史
日本書紀/成立:720年垂仁天皇の条(第11代天皇。だたし実在は定かではない): 垂仁天皇の同母弟、倭彦命(やまとひこのみこと)が薨去した際、近侍の者を集めてことごとく生き埋めにしたが、数日たっても昼夜泣き呻き、ついに息絶えた後、腐敗した死骸を烏や犬が食べた。心を痛めた天皇は殉死を禁じ、この後皇后日葉酢媛命が薨去した際に初めて人の替わりに埴輪を立てたと伝える。 (※現在の考古学的観点では、日本書紀の記述に従い「埴輪は殉死の代用品として用いられた」と考える説には否定的な見解が有力とされています) |
魏志倭人伝/成立:280-297の間 卑弥呼が死んだとき(248年頃とされる)奴隷100人ほどが殉葬させられた。 |
日本書紀645年に |
【地方での殉死例】 播磨国風土記/成立:奈良時代初期飾磨郡胎和里の条:尾張連の祖、長日子が死んだ時、その妻と愛馬を殉葬し、三つの墓が並んでいる。 令義解/成立:平安時代初期信濃国の俗に夫死すれば、即ち婦をもって殉と為す |
江戸時代の殉死編
泰平の世の殉死
また、小笠原監物忠重[元1万4千石]は幼少より忠吉の寵愛を受けていたが、前年機嫌を損ねて奥州松島で蟄居していた。しかし、その死を知ると江戸に馳せ戻り増上寺の忠吉墓前で追腹を切り、それに仕えていた中川清九郎もまた後を追った。
(※ただし、土屋家記録では、左馬助は秀康一周忌の後墓前で自害となっている。辞世の句:我身をば いかなるものかやどり来て 空ふく風に連れてまたゆく)
秀忠:4月16日付けで、国家老の本多伊豆守富正に殉死を禁じる御内書を下す。
家康:追って、4月24日付けで越前老中に殉死を厳しく留める。
閏四月廿四日 黒印 越前年寄中 『本多文書』
主君の死が60日ばかり遅かったから尾張に先を越されてしまった。とか、忠義が厚いようなそうでもないような。微妙な心理状態・・・。
そのようなわけで、殉死を忠であり勇であり義であるというような考えは収まらず、武士の美意識を満足させ、男色の風潮も手伝って流行となってゆき、
殉死者の多さを栄誉と考えたり、殉死した者のそのまた家臣も殉死するなど、10人以上が連なる事もありました。
さて、殉死ブーム中の説話を2つご紹介します。
「水野左膳、松平忠昌に殉死せざること」の巻
※1645年(政保2年)8月:越前福井藩主 松平忠昌に殉死した者、山田隼人等7名
【常山紀談】とは
湯浅常山(1708-1781)著。戦国時代より江戸時代初頭の50年間ほどの大名や武将の言行、逸事700余を伝える逸話集。刊行は著者没後30年ほどのち。内容は玉石混交と言える。凡例には「戦国の間は記載がつまびらかでない為、言い伝えに誤りが少なくない。一事に異説が多く、どれが正しいか分からないものは、その説を悉く記す。
節義の士の姓名が散逸すること嘆かわしく、つとめて殉難忠臣の姓名をしるすのも、またこの書の本意なり。
賞誉すべき事にも非難を記すことあるが、これはただその世の有様を想い見るべき為である。昔、褒め称えられたと思われる事にも心得がたき事があるが、そのような批評はこの書に記さず。」などの趣旨が書かれている。
殉死のルール
●殉死には自然発生的に出来た不文律がある。
-殉死は事前に主人から直接許可を得る必要があり、家臣が勝手に主人を思って切腹をしても殉死とは認められない -もし生前の許可が証明できなかった場合、世継ぎの当主や家老など周囲が殉死の願い出が妥当であると判断して許可する場合もあったようだ ●生前、主人の方から持ち掛けた例も多々うかがえる。ミカのつぶやき 「殉死者ゼロではかっこ悪い」とか思う主人に水を向けられて止む無く頷くとか、 実力以上に贔屓された立場からして当然殉死するだろうという周囲の目。 など外圧が作用した場合もありそうです。実際、殉死しないことを落手で揶揄される事例もありました。 生命を軽視する戦国の気風冷め遣らぬ当時は、命よりも名を惜しむ風潮があったので、後ろ指をさされるよりは死んだ方がマシみたいな・・・。キツイ! |
「藤堂高虎、殉死に一計を案じる」の巻
慶長18年(1613)頃のこと。高虎の一計により家臣たちは殉死を思い止まったが、一人の右腕を失った者が「私はこのような身でありますので、特別の事情をもって殉死を認めて欲しい」と食い下がった。
それを聞いた家康様は「和泉守(高虎)は我が代々の先手なり、しかし命に背いて強いて殉死をすると言うのなら、先手は取り消す」と上意を伝え、この者もついに殉死を止める気持ちになった。
藤堂家の先手はこの時から始まったという。
また元和元年(1615)のある時、高虎は駿府にて土井利勝に 「私も年老いた。倅大学頭は未熟者にて、大事の地は任せられないので速やかに国替えを言い付けて欲しい」と語った。
この話を利勝から聞いた家康様が高虎を呼び、その理由を尋ねると、高虎は地図を出して「伊賀は上国にて、しかも国人は剛の者。船に乗って大和川を下れば夜中に人知れず大坂へ到る。伊勢は近江山城の隣にて、これまた大坂に便ある地、このような国を不肖の息子に託すのは心許なく、私が生きているうちに返上できれば安心です。」と説明した。
家康様はそれをじっくりと聞いてから
「この両国とも並の大名には預け難き地ぞ。なに先年、殉死を申し出た忠義の厚き70人余の者らが大学頭を補佐すれば、なんぞ心配する事はなかろう。その方が死しても両国とも大学頭に相続させるぞ」と仰った。願いは聞き届けられなかったが上意は有難いと高虎が館に帰って家中の者にこの話をすると、いずれの者も有難い事だと安堵した。
こうして藤堂高虎が1630年に没した時には殉死者が出ることはなかった。
これはお互いに、何を言えばどう相手が答えてくれるか、相手が何を言って欲しいか、分かった上うえで阿吽の呼吸の高等コミュニケーションなんでしょうか。
忠義心が殉死の発露であるという大義名分があり、また主従や同輩との私的な情宜が絡んだ問題であるために、身内・親族の殉死を止めることはまだしも、幕府と言えども、法を掲げて他家にまで殉死の禁止を勧告するには非常に繊細な問題なのでした。
後年、第4代将軍徳川家綱の代になっても武家諸法度に殉死の禁止を盛り込むか否かについては、気を使っている向きがあります。
今回はこの辺で 殉死については、いっそもう一回。武家諸法度で禁止するトコまでまとめたいと思いますっ。
結城秀康は病中に、於佐の局という家康様も以前から見知った女房を使者として駿府に参上させた。
秀康の意を受けた局は「去3月5日に尾張の薩摩守殿が死去され、私も病気がはっきりせず快気の見通しも立ちません。在世の内にこの事を申し上げたく思い、局を派遣しました」と口上し、
これに大変驚いた家康様は「私に子は多いが中でも秀康は長子、その上、度々私の役に立ってくれたのに、ただ越前一国のみを与えておくのは本意ではない。
今度、病気の快気祝儀として25万石の地を加増し百万石とするので、汝も早く越前に返ってこの旨を申して慰めよ。」と、近江と下野の中で25万石と書付た朱印状を託した。
局は夜を日についで急ぎ立ち返ったが、三河岡崎の宿に至ったときに秀康の死を知り、また駿府に引き返してそれを知らせると、家康様の悲しみの様は限りなかった。
ちなみに、局が「大事な御書ですので」と書付を返上すると、家康様は局の志に感心したが、この事を伝え聞きいた越前の家中は、公の死去を知らないことにして国元へ書付を持ってくればよいものを、いらぬ機転だと局を憎んだ。
『天元実記・貞享書上・落穂集・越藩史略』
- 関連記事
sponser