京都で熊野詣(京都三熊野めぐり)熊野三山に相応するのは・・・。

 

京都三熊野

京都には熊野神社が数か所ある。
その中で、京都三熊野とよばれる熊野神社が3つある。
京都熊野神社
熊野若王子神社
新熊野神社

これらの熊野神社は、本家の和歌山県の本宮町・新宮市・那智勝浦町にある熊野大社に相応する神社があると、ウィキペディアに記載があった。
京都熊野神社は、熊野速玉大社「前世の罪を浄め」
熊野若王子神社 熊野那智大社「現世の縁を結ぶ」
新熊野神社  熊野本宮大社「来世を救済する」

京都熊野神社の人に聞いた話では、どの熊野神社がどの熊野三山の大社にあたるかは特にないとのことだったが。

ja.wikipedia.org

京都でも熊野詣ができ、熊野古道も歩くことができるかもしれない。

熊野詣に執心した後白河上皇の影響が大きいと思う。上記の京都三熊野のうち二つは、後白河上皇がつくらせた。

 

   

 

京都熊野神社

京都の東西の大通り丸太町通りと東山のふもと南北に走る東大路通りの交差点の北西角にある。

創建は、弘仁2年(811年)に修験道の日圓が国家護持の為に紀伊国熊野から熊野大神を勧請したのに始まる。熊野詣を度々行っていた白河上皇は、すぐ近くにある熊野として当社も厚く崇敬していた。寛治4年(1090年)、上皇は園城寺の増誉を熊野三山検校に補任し、増誉を開山として当社の北東に聖護院を創建させ、当社はその鎮守社とされた。また、当社の周りから聖護院にかけて大きな森があったが、以降この森は聖護院の森といわれるようになった。平安時代末期には、これまた熊野詣を度々行っていた後白河法皇によって、当社は熊野から持ってきた土や樹木によって整備されている。(ウィキペディア「熊野神社(京都)」より)

今はそれほど敷地の大きな神社ではないように思うが、往時は鴨川まであったそうだ。
この神社は、熊野三山の熊野速玉大社に相応するようだ
境内には神倉神社がある。
f:id:m3785com:20220102110326j:image
↑神倉神社(京都熊野神社)
和歌山県新宮市の熊野速玉大社の元宮は神倉神社。神倉神社には、ご神体のコトビキ岩がある。
f:id:m3785com:20190126191313j:image
↑神倉神社とコトビキ岩(2019年1月撮影)
熊野権現が神倉神社から今の速玉大社の場所に遷座された。それから神倉神社を旧宮
それに対して、速玉大社を新宮と呼んだ。
和歌山県新宮市の名前の由来は、此処からくるようだ。

「前世の罪を清める」熊野速玉大社。
 和歌山県新宮市の神倉神社は、山の頂上近くにあり、ゴツゴツとした岩のような石が敷き詰められた石段を上がっていく。とてもの急で、上るのに苦労した。
2月には、お燈祭りが行われる。
お燈祭りは、2月の寒い時期に、神倉神社から松明をもったふんどし姿の人がこの石段を駆け降りる勇壮な祭り。残念ながら今年は中止のようだ。
f:id:m3785com:20190127100932j:image
↑神倉神社(新宮市)に上がる石階段

話はもとに戻って、京都熊野神社は、交通量の多い道路の交差点にありながら、境内に入ると雰囲気が変わる。
境内には、木々が茂り、外との世界を遮断するように、静かな感じがある。
鎮守の森というほどではないが、大きな木が茂っていた。

 この神社は、811年、修験道の日圓が熊野大神を勧請して創建。後白河上皇はこの神社の鎮守の森を整備したそうだ。今ある木はその時の木もあるのだろうか?後白河上皇の祖父の白河上皇も尊崇したようだ。

アクセス
京阪電車「神宮丸太町」駅下車、東へ徒歩約5分
市バス「熊野神社前」下車、徒歩約1分 

f:id:m3785com:20220102110335j:image
f:id:m3785com:20220102110331j:image
f:id:m3785com:20220102110322j:image

   

 

熊野若王子神社

熊野神社を出て、丸太町通りをずっと東山の方に向かい。
白川通りとの交差点を南に向いて。
そして冷泉通りを山に向けて歩く。
哲学の路をこえたところにある。熊野神社からは歩いて30分ほど。
哲学の道の南の終点にある。
哲学の道を歩いた人の多くは、終点に来て、冷泉通りを山側に向かわず、反対にむかう。
訪れる人も、まばらだ。
この神社へは何度も参ったことがある。
山が神社の裏まで迫り、このあたりまでくると、空気が少し変わる。
春には桜。境内にも桜の木がある。
この神社の裏に迫る山の上は、桜の名所桜花苑がある。

初夏には、静かな境内にうぐいすなどの鳥の鳴き声が響く。
秋には、桜の紅葉を楽しめる。
お気に入りの神社だ。

この神社は熊野三山の熊野那智大社に相応するようだ。
熊野那智大社というと、ご神体の「那智の滝」が有名だ。
熊野若王子神社にも滝がある。境内を出て、山の方に歩く、桜花苑の入り口をこえて、さらに上がり、獣よけの柵を出て、徐々に山に入り、歩いていると小さな流れが現れ、さらに進むと、突き当りに「千手の滝」がある。
小さな滝だが、
千手の滝が那智の滝に相応するのだろうか?
f:id:m3785com:20210329195537j:image
f:id:m3785com:20210329200517j:image
↑2021年3月撮影
この滝は、この神社の管理だが、なかなか手が回らないようで、少し荒れていた。
以前行った時、滝の周りを掃除している年配の女性にあった。わざわざこの滝の前を掃除をするために、車で通っていると言っていた。
ボランティアで掃除をしているようだ神社の先代のことをよくご存じのようだった。

この神社は、後白河上皇が、禅林寺の鎮守として、紀州那智権現の若一王子を勧請したそうだ。熊野那智大社にゆかりがありそうだ。

アクセス
市バス「南禅寺・永観堂前」下車、徒歩約10分
市バス「東天王町」下車、徒歩約10分 

f:id:m3785com:20220102110426j:image
f:id:m3785com:20220102110429j:image
2021年12月29日撮影。お正月の準備が進んでいた。

   

 

新熊野神社

熊野神社の横を通る東大路通りをずっと南み進み、八坂神社の前を通り、智積院の前を通り、JR線の上を過ぎれば、大きな楠が見えてくる。
f:id:m3785com:20220108232422j:image
このクスノキは後白河法皇手植えのクスノキと言われている。
樹齢800年ほどになる。
この神社がある一帯は、後白河法皇の法住寺殿の境内にあったそうだ。

下写真は、当時の法住寺殿のイラスト。現在の神社の敷地から比べると、相当広い。

JR線を越えて、今、法住寺がある三十三間堂のあたりまであった。
敷地の設計は、熊野本宮大社をならったのだろうか?
大きな池がある。これを熊野川になぞらえたのだろうか?
今の熊野本宮大社は、和歌山県田辺市本宮町の小高い丘の上にある。
かつては、今の熊野本宮大社の近くの「大斎原(おおゆのはら)」という熊野川の中州にあったが、1889年の十津川洪水で流され、現在の位置に遷った。
新熊野神社の神社の説明の案内版に、新熊野神社の往時の領域を示すイラストとその上にかつて熊野本宮大社が大斎原にあったころのイラストがあった。

f:id:m3785com:20220108231926j:image

このイラストの上に、熊野本宮大社のイラストもあった。

f:id:m3785com:20220108232156j:image

新熊野神社は、熊野三山の熊野本宮大社に相応するようだ。

この神社は、後白河上皇が、住んでいた法住寺殿の敷地内に平清盛が鎮守社として創建したそうだ。


 アクセス
京阪電車「七条」または「東福寺」駅下車、徒歩約15分
市バス「今熊野」下車、徒歩約3分

f:id:m3785com:20220102110549j:image
f:id:m3785com:20220102110540j:image

京の熊野古道

新熊野神社の裏の小高い丘に、熊野三山にまつわる展示がされている。
f:id:m3785com:20220102110544j:image

 

今熊野観音寺

新熊野神社の近くの泉涌寺の塔頭の今熊野観音寺がある。

平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。
後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。
(ウィキペディア「今熊野観音寺」より) 

当時には、この地域一帯は、「今熊野」と呼ばれていたようだ。