八瀬天満宮社 立派な鳥居と苔むした木々に囲まれ厳かな雰囲気がある本殿周辺・地元の人に大切にされている天満宮・八瀬童子が繋ぐ皇室とのつながり、美智子上皇妃の歌碑、天武天皇も壬申の乱の傷を癒した・足利尊氏に追われた後醍醐天皇の御在所・延暦寺との利権争いを経て【京都市左京区】20240112

 

八瀬天満宮社

この神社は天満宮なので、当然菅原道真とのゆかりがある。

菅原道真が亡くなった後、師である叡山法性坊阿闍梨尊意(八六六~九四〇)の勧請により建立されたと伝えられる。

 

歴史の中の八瀬天満宮社 八瀬と天皇家とのつながり

この天満宮社がというより八瀬との関わりと言った方がいいのかもしれない。

八瀬天満宮社=八瀬考えてもいいのかも。

京都市街地から離れた集落にポツンとある神社にしてはと言うと失礼かもしれないが。

朱色の鮮やかな立派な鳥居があった。

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鳥居の前あたりはちゃんと整備された感じがした。

八瀬天満宮社

皇后美智子様歌碑(現在は上皇后)

鳥居を潜ってすぐに、

上皇后美智子様の歌碑があった。

平成十六年八月二十一日京都行幸にあたり

天皇皇后両産下には京都命所の前庭で八瀬の人々による散免地踊りをご覧になりました。

この時読まれた歌。

大君の御幸祝う八瀬童子

踊りくれたり月若きたに

平成十六年八月二十一日京都行幸港にあたり
天皇皇后両産下には
京都御所の前庭で
八瀬の人々による赦免地踊りを
ご覧になりました
この神歌はその夜
三日月の光のもとで踊りをご覧に
なり更に踊りの人々と共に
三日月を仰がれた喜びを
お詠みになったものであります。
この光栄な事を後世に記念として
残したく御歌碑建立します

八瀬は天皇の御幸の際に踊りを披露するような関係が天皇家とあるようだ。

 

後醍醐天皇から明治天皇に至るまでの間の綸旨が保存されている。

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古くから八瀬で生活してきた人々を八瀬童子といい、天皇の大礼(たいれい)・大喪(たいそうの際には葱花輩(そうかれん)を担ぐ駕興丁(かよちょう)という役を務めていた。
現在も、京都の三大祭の一つである葵祭には、天皇の奥丁(よちょう)の装で参加している。
2010 年八瀬童子会が保有する八瀬の古文書・装束類741点が重要文化財に指定される。

綸旨以外のも多くの史料がある。

これらの史料は、八瀬童子会宝庫に保存されているのだろう。

地図からすると市役所左京区役所八瀬出張所の前あたりにあるように思えた。

帰りに探してみた。

出張所の向かいに高床の蔵のようなものがあった。

ここかな?

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公開はしていないようで、史料を見ることはできなかった。

 

壬申の乱の天武天皇や足利尊氏に追われた後醍醐天皇にもゆかりがあるようだ。

 

申の乱の際、この地で天武天皇が矢傷を癒した。

この天満宮社は江戸時代には「矢背天神宮」とも呼ばれた。

足利尊氏に追われ比叡山に逃げる後醍醐天皇の御在所があった。

足利尊氏に追われ比叡山に逃れた後醍醐天皇の行在所があった御所谷、境内には後醍醐天皇御旧跡」などがある。

八瀬天満宮社 後醍醐天皇御旧所跡

 

 

比叡山延暦寺との紛争

天満宮社から少し行ったところに、比叡山の登山口がある。
昔はそこから比叡山に上がって行っていたのだろうか?

そのこともあってだろうか?

八瀬は比叡山の麓でもあるし。

延暦寺との境界論争があった。

その際、八瀬の利権(租税の免除)を認めた裁決をした時の幕府老中の秋元但馬守喬知(たかとも)も祀っている。

その時以降に八瀬童子は赦免地踊を奉納するようになった。


延暦寺は皇室ともいろいろいざこざがあった。

 

京都の中心から離れた八瀬にある八瀬が時代の中でいろいろな役割を果たしたことが偲ばれる。

そんな時代を様子を示す痕跡はなく、由緒書きや歌碑でなど知ることができるだけ。

八瀬年表

由緒書きの横には、地図看板もあった。

八瀬の里という地図。

前述の綸旨の件もここに書かれていた。

前出の八瀬赦免地踊り、「八瀬小原女」などの説明があった。

「黒木召せ」と柴を頭に都大路を呼び歩いた小原女。いにしえの八瀬を小野庄といい、小野原女が訛り小原女と。紺の着物に縫いの手拭、白のはばきに女わらじで「黒木召せ」と京で柴を売る小原女の姿は、古くから絵や歌に詠まれてきた。
今日では正装のきりくずしは見られず、略装の大原女姿がよく知られている。八瀬小原女は紺の着物に御所染の細帯、吹き流しに冠る紺手拭には古今の名歌を縫った。
白いはばきや二幅半の前垂れの部(ひな)びた愛らしさは、阿波の内侍の姿に習ったとも

 

   

 

長ーいまっすぐな舗装されてない参道

鳥居を一礼してくぐり前を見ても、本殿が見えない。

本殿は手前の山の麓の木々に隠れて見えない。

本殿のある山まで、まっすぐ続く舗装されていない砂利が敷き詰められた参道。

なぜ舗装されていないのか?

砂利が敷かれているということはこれから道が舗装されるのかな。

地元に大事にされている天満宮社

ずっと先の山の麓にある天満宮社本殿に向けて歩いた。

天満宮社は山の麓の木々の中にあり。

本殿のあるところは陰になりよく見えない。

近づくにつれ、天満宮社の様子が見えてきた。

数人の人が見えた。
参拝に来ている人かと思った。
よく見ていると、ちょっと様子が違う。
複数の人が、あっち行ったりこっち来たりウロウロしている。
どうも掃除をしているようだった。
地元の人がこの神社の掃除に来ていた。

この日は朝から寒いだった。
大変だなと思いつつも、大きなキレイ朱色の鳥居や案内看板などを見て、地元に大事にされている神社なのだと思った。

弁慶の背くらべ石

本殿につづく石階段を上がる手前に

なぜか弁慶が出てきた。

八瀬天満宮社 弁慶の背くらべ石

本殿

新しいしめ縄

本殿他周りの末社の鈴の縄も奉納者の名前が書かれた真白の紙に包まれていた。

八瀬天満宮社

境内には九つの末社があるようだ。

境内

うし

階段を上がったところには天満宮で必ずいる牛像があった。

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狛犬

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境内の様子

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御神木の跡

何年か前まで御神木があったようだ。

太い幹、そこそこの樹齢だったに違いない。

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この空の見えるあたりに御神木が立っていたのかも。
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山へ上がる道

山へ上がる道があった。

この道が御所谷へ続く道だろうか?

少し上がって見た。

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境内の雰囲気

住人の方々が掃除をしたといって、
境内にある苔むした感じは損なわれていなかった。
周辺の木々の木漏れ日の様子がとてもよかった。
掃除をしている人と少し話をさせてもらった。
自分が写真を撮っているのを見て、「いい写真は撮れないでしょう」と言われた。
「いいえこのような雰囲気が大好きです」と返した。

スギ苔



こんな看板もあった。

京都もか!と思われる看板

YAMAPというサイトで、京都一周トレイルのルートの比叡山あたりで、クマが出たという記事を読んだことがある。

この天満宮社の近くで見かけられたのだろう。
話を聞くと小熊が見かけられたとのこと。
小熊がいること言うことは親熊も当然いるだろう。

 

地図アクセス

京都バス新八瀬橋バス停が近くにある。
バスは京都駅から17系統系統か国際会館駅の19系統 大原方面のバス。

京都バスで京都バスではない。


叡電「八瀬比叡山口」駅からバスかもし徒歩でも行ける。
徒歩の場合は40分程度。
徒歩の場合は、車通りの多い若桜街道を通ると途中で大きな坂がありそうだ。
「駒飛橋」の手前から集落への道を進めばそれほど坂はない。
この道を行くと、途中に九頭竜大社猫猫寺がある。