●最近自分が何をやっているかよくわからないので、順番に書き出してみる。

●寺をやっていると、たとえば高齢の方などから、そちらへお参りすることはできないが親族の年回忌としてお経を上げてほしいと、お布施だけ渡されることがある(二、三年に一回ぐらい)。そういうときは無人または寺族の参列のもと、通常通りの法事としてお勤めするのだが、最近はそれが終わったあと、手紙に法事でするはずだった法話をしたためて、写真も同封して、施主さんへ郵送することにしている。先日そういうことがあり、その際の手紙法話はまあまあ上手く行ったような気がして達成感もあったのだが(私は人前で心に響く話をするのと、人の心に響く文章を書くのと、どちらが得意かと訊かれれば、遺憾ながら後者だと答えねばならない。いや自分でそう思っているだけかもしれないが、それでも生活のすべてを犠牲にしてどなたかのための文章を草することに躊躇がないのは事実だ)、あとが続かない。拙寺には一時預かりの無料納骨壇があるのだが、これを一時と言わず、寺が続く限りお骨を安置する場所にする必要性が生じてきた。それで規約を作らなければならない。この規約作成が遅々として進まず、しばらく唸っていた。

●しかしそれもなんとかまとまり、役員会を招集して無事承認を得た。納骨堂の規約なんか検索すればよその寺のものがいくらでも出てくるのだが、何の参考にもならない。一体いつから寺は遺骨預かり専門業者になったのだ、と憤慨させられるものばかりだ。敬いの心と信頼関係の尊重を全面に出した独自の規約にした。そのうちWebで公開する。

●父の七回忌が近づいてきた。今回はコロナで延期していた祖父の十七回忌と祖母の十三回忌も併修するので多くの親戚に声をかけ、十家ほどからお参りいただくことになった。粗供養の準備、お膳の予約、車椅子の親戚のための段差解消等、することがたくさんある。これらの準備と同時に豊岡仏教会の副会長兼庶務担当者として歳末助け合い托鉢の仕出し弁当の予約と新年懇親会の店の選定・予約をしたのでどれがどれだか混乱してしまった。店の選定は難しい。豊岡にはいい店がたくさんあるが、変動は激しい。驕れる平家久しからずだ。全部を食べ比べるわけにはいかないので、ある程度は口コミを信じるしかない。しかしそれも辛口の人もいればそうでもない人もいる。

WeeklyOchiaiの先崎彰容氏の出演した回を見た。明治時代だったら維新の元勲がやっていたような国家百年の大計を今は若い世代がやらなければならなくなっているという指摘が面白かった。ようは国の価値観やグランドデザインの問題だが、これについては私の答えは出ている。かつての日本が西洋の近代科学を取り入れて富国強兵をスローガンに工業化に邁進したという、その近代科学や工業化の位置に、現在では日本の伝統文化が入る。だからこそ田舎の寺の住職などをやっている。しかしこのことはそれほど自明でもないし広く共有されてもいない。真逆の価値観を持っている人もいるだろう。地球環境のために無際限な経済成長をやめようという常識的で穏当な主張にすら、真っ向から反対する人が絶えない世の中だ。

●現在、宗教の旗色は悪い。死が眼中になければ宗教を手放しても問題はない。しかし日々の生活の意識の中に死を含むならそれはどうか。宗教は個人主義に対立するところにあるが、それはひとり宗教のみではない。おそらく呪術・科学・宗教がグラデーションを成して、個人主義に対する営みとしてある。高級腕時計を身につけていい気持ちになることは呪術寄りの宗教で、読書に没頭することは科学寄りの宗教で、論文を専門誌に投稿することは宗教寄りの科学で、拝金主義は呪術と宗教のハイブリッドだ。