備中高松城(岡山県) | おおとり駆の城日記

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岡山県の備中高松城です。


備中高松城といえば、天正10年(1582年)羽柴秀吉が水攻めを行った城としてあまりにも有名です。
香川県(讃岐)の高松城と区別するために備中高松城と呼ばれるのが一般的です。

備中高松城の築城時期ははっきりとしていません。もともと戦国大名としてこの地を治めていた三村氏、またはその家臣石川氏によって築かれたとみられていますが、天正3年(1575年)以降は毛利方の清水宗治が城主となりました。

天正10年(1582年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、4月高松城攻めにかかります。攻める羽柴軍は3万、一方防戦する城兵はわずか3千人だったといわれていますが、高松城の周囲は沼地に囲まれ、さすがの羽柴軍も攻めあぐね、戦いは膠着状態となります。
5月に入り軍師・黒田官兵衛が「水攻め」という奇策を秀吉に進言し、城を堰堤で囲む工事が開始されます。
人夫には法外な金子を与えることで周辺の農民も動員し、突貫工事で全長4km、高さ約7m、幅約10mもの堤防を、わずか12日で完成したといわれます。折しも梅雨時でもあり、近くを流れる足守川の堤を切ったことで、増水した川の水が一気に低湿地であった城に流れ込み、高松城は本丸を残し水没したといわれます。 

この連絡を受けた毛利輝元は、すぐに援軍を送りますが、時すでに遅し。毛利軍が駆け付けたときには城に近づくことができず、救援できる状況ではありませんでした。水没した高松城を挟んで羽柴軍と毛利軍のにらみ合いが続く中、城内では次第に兵糧も尽きて城兵達の疲労も極限状態に達し、もはや降伏を待つばかりの状況となりました。

ところが、6月2日京都で本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に討たれます。
その報をいちはやく知った秀吉は毛利方に知られぬよう安国寺恵瓊を仲介役に「領土の割譲も最低限、城兵も助ける、ただし、城主清水宗治の自刃は譲れない」という条件で和議を成立させます。城主清水宗治は、毛利家の安泰と、城兵の命と引き換えに切腹を決意。
6月4日水没した城から羽柴軍の本陣の前まで小舟で漕ぎ出し、秀吉の目の前で舞を踊り、辞世の句を詠んだあとに切腹します。
秀吉は宗治の武士の鑑であると宗治を称賛して最期を見届けると、主君の仇・明智光秀を討つため、京都へと全軍を率いて進軍を開始したのです。これが本能寺の変のわずか2日後の出来事です。
秀吉は中国地方から京都までおよそ230kmの距離を10日で走破し、6月13日山崎の戦いで明智光秀を破り、信長に代わり、天下獲りの最有力候補にに躍り出ることになるのです。
中世から近世へと時代が転換する歴史上のクライマックスシーンといってもいいでしょう。有名な「中国大返し」です。 

秀吉の天下統一後は、備中は宇喜多領となり、高松城には城代が置かれましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、花房職秀が城主となったあとは一国一城令によって廃城となったといわれています。 

高松城は梯郭式平城で、石垣を用いず、土塁によって曲輪を形成していました。
城の周囲は低湿地帯でこれらが天然の堀の役割を果たしていました。 
現在、城の痕跡はほとんど残っていませんが、城跡は公園として整備されています。
2017年(平成29年)、続日本100名城に選定されました。

備中高松城の水攻めは数多くの小説やドラマ、映画になっています。
現在NHKBSで再放送中の大河ドラマ「黄金の日日」でも先日高松城の水攻めが描かれました。
また、数年前話題になった「のぼうの城」は忍城の水攻めが描かれた作品ですが、映画の冒頭では高松城の水攻めのシーンも登場しました。

築堤の高さと本丸の高さの表示板
本丸の高さが7.0m 秀吉の築いた築堤の高さが8.4m
このラインまで水が押し寄せたということでしょう。


各武将の陣の配置をしめす方位盤
向こう(東)に見える山に羽柴秀吉の本陣
その右手、南東方向に毛利方の小早川隆景、吉川元春、楢崎十兵衛らが布陣します。

高松城址公園資料館
二の丸に建つ外観が土蔵のような渋い資料館。入館無料、土足厳禁です。
内部には高松城の古図や水攻めに関するエピソードを紹介するコーナーなどがあります。

水攻音頭
メロディーはわかりませんが、攻め手の秀吉ではなく、城を守る清水宗治を賛美する歌詞です。

本丸跡
わずかに微高地になっています。備中高松城は石垣を使わない土造りの城だったため、当時のものと思われる遺構はほとんど残されていません。

宗治公首塚
銅塚というのも周辺の住宅地の中に残されています。

宗治公辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」

宗治蓮
1982年(昭和57年)に周辺の沼が復元され、約400年間地下で眠っていた蓮がよみがえり自然繁殖しました。現在では「宗治蓮」と名付けられ、毎年7月中旬には多くの蓮の花が咲き誇ります。宗治も同じ蓮を見ていたのでしょう。


蛙ヶ鼻築提跡(かわずがはなちくていあと)
高松城の南東約1キロの地点に築堤の一部が残されています。
秀吉はこの背後の山「石井山」に陣を置いたといわれています。
1929年(昭和4年)に国指定史跡に指定され、「高松城水攻め史跡公園」として整備されました。
公園内には発掘された杭や土嚢の痕跡等が展示されています。


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