圧倒的な存在感ですが、熊本城の大天守の高さは29.5メートル(石垣より上)、小倉城や大垣城の天守とほぼ同じ高さということですが、なんのなんの、もっとずっと大きく見えます。
大天守は3重6階地下1階、小天守は2重4階地下1階です。大天守は私も先入観で5重と思い込んでいましたが、2重目にあたる部分と4重にあたる部分には屋根ではなく庇があるため、正しくは外観3重の天守です。
明治10年(1877年)に西南戦争開戦直前の火災により大小天守ともに焼失しましたが、昭和35年(196年)には市民からの寄附金などにより、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されました。
平成28年(2016年)の地震では、最上階の瓦が落下、天守台石垣の崩落などの大きな被害を受けましたが、熊本市民のシンボルとして最優先で復旧作業が進められ、令和3年(2021年)3月に完全復旧しました。
熊本城の特徴とも言える石垣は、下部はゆるやかな傾斜で一見簡単に登れるように見えますが、上部に向かうほど急な角度になるいわゆる武者返しになっていて、到底登ることができません。「扇の勾配」「清正流(せいしょうりゅう)石垣」と呼ばれます。
最下部が天守台から張り出す「張出造」になっており、張り出し部分には石落しが設けられていました。これは今は失われてしまいましたがかつての萩城天守と同様の構造です。
小天守
大天守は清正により築かれましたが、小天守は清正の息子、忠広の代に建造されたといわれています。
天守への入口は写真向かって右側、小天守の地下1階にあたる石垣の部分で、出口は左側大天守の地下1階にあたる石垣の部分です。天守入口までスロープが伸びてバリアフリーになっています。
忍び返し
大天守と小天守の間には60cm程の「忍び返し」という鉄串が刺してあるのがわかります。これも侵入者を寄せ付けないための仕掛けです。同様の忍び返しは名古屋城天守にも見られます。
小天守石垣の内部は穴蔵と呼ばれる地下層になっており、もともと台所がありました。そのため、現在も井戸が残っています。
熊本城は城内に120か所も井戸が設けられていました。これは加藤清正が秀吉による朝鮮出兵の際、蔚山城籠城戦で、特に水で苦労したことから、籠城に備えたため、といわれています。
地階には地震後に新たに免震用に設置された装置もあります。また、今回のリニューアルに合わせて、天守内にはエレベータが新たに設置されました。利用は主に障害のある方に限りますが、復旧前まではエレベーターがありませんでしたので見学したくても断念されていた方にとっては朗報でしょう。ただ、最上階までは1基のエレベータではなく、3回ほど乗り換える必要があります。
天守模型
こちらは昭和35年の天守再建にあたり制作された天守軸組模型(縮尺約1/10)です。
この模型は熊本地震後の復元工事においても貴重な資料となりました。
2階から4階は加藤清正の築城から始まり、細川氏が城主だった江戸時代、西南戦争を中心とした近代、昭和と平成時代の修理や復元、平成28年熊本地震による被害と復旧について展示してあります。
デジタルやCGを駆使した展示と従来型のパネル展示などによって、熊本城の過去と現在について詳しく解説がされています。
最上階展望フロア
熊本県産の檜でリニューアルしたフロア内は東西南北の四方から熊本市内を一望することができます。こちらは遠く阿蘇外輪山が見える東の方角です。
くまもんも復興が進む熊本城を見守っています。
滴水瓦(てきすいがわら)
姫路城の回でもご紹介しましたが、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、大陸の建築技術が清正らの武将により日本に導入されました。この滴水瓦もそのひとつで、樋のない建造物で雨が直接壁に当たらない工夫がされています。熊本城の最上階ではこの滴水瓦を間近に観察することができます。
さきほど眺めた宇土櫓
ここから眺めると大きな被害を被ったようには見えません。破風が曲線ではなく、直線的なのも宇土櫓の特徴です。
姫路城も改修工事を終えた直後に屋根が白く見えましたが、熊本城の屋根も同じですね。これは瓦と瓦の間を漆喰で固めているためです。時間が経つと汚れやカビにより落ち着いた色になってきます。
熊本出身の有名人も「おかえりなさい」と5年ぶりに復旧された天守にメッセージを寄せていました。