熊本城の現在③ | おおとり駆の城日記

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平成28年(2016年)の熊本地震から6年、震災の被害から立ち直りつつある熊本城の

今をご紹介する訪問レポートその3です。


大銀杏

天守前広場には、熊本城の別名「銀杏城」の由来となった大きなイチョウの木があります。

籠城戦になった時の食料確保のため、築城時に加藤清正がこの銀杏を植えたといわれています。清正は豊臣秀吉の朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かしていると言われていますが、実は当初植えられていた銀杏の木は雄木なので実はならず、後世の創作といわれています。

ただ、前回書いたように清正は籠城に備えて、城内120か所以上も井戸を掘り、食料の確保のため、建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗り込めたり、畳には食用になる里芋の茎を用いたという話は史実のようです。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」と予言したという言い伝えもあり、西南戦争が起こったときはまさに清正が植えた銀杏の木と天守はほぼ同じ高さでした。この西南戦争の際に、この大銀杏も焼けてしまい、現在の大銀杏は、燃えたあとに植えられた二代目ということです。


本丸御殿

本丸御殿は大天守と同時期の慶長15年(1610年)ごろに加藤清正により建造が開始され、後に藩主となる細川忠利が増築と改修を行って一応の完成をみたとされています。公の場である「対面所」の他に藩主の生活空間である書院や台所などが組み込まれており、熊本藩の政庁にふさわしい格式の高い建物です。御殿の最奥には中国の故事に登場する王昭君の襖絵が狩野派絵師によって描かれた「昭君之間(しょうくんのま)」と呼ばれる部屋がありました。この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、一説によると、清正が豊臣秀吉の子秀頼を密かに匿うために造った部屋であるとの伝承があります。

熊本城築城400年を記念して平成20年(2008年)に当時の絵図などを参考に木造復元されましたが、熊本地震で床が沈下したり、壁が剥がれ落ちたりして現在は内部に立ち入ることができません。



闇り通路(くらがりつうろ)

本丸御殿の床下には闇り通路(くらがりつうろ)と呼ばれる石垣で囲まれた地下通路があります。御殿全体が石垣の上に乗った構造になっているのも他に例を見ない特徴で御殿への正式な入口も地下にあります。

当時はこのように明るいLED照明もなかったので文字通りの暗闇だったのでしょう。



特別見学通路

地震後には城内を安全に見学できるように「特別見学通路」が新たに設置されました。地上約6mの高さにあるため、今だからこそ見ることができる熊本城の姿を楽しむことができます。


二様の石垣

特別通路からは異なった反りの石垣を眺めることができます。右側の緩やかな反りの石垣は加藤清正が築城した当時のもの。左側は細川時代の増築時のものと云われています。


連続枡形

ここも熊本城に来たら是非見学したかった場所です。

竹の丸から飯田丸に向かって6か所の枡形が連続し、鉄壁の守りを誇っています。

残念ながら地震によって石垣が崩落し、通路がふさがれてしまいました。地震が起こったのが日中ではなかったため、人的被害がなかったのがせめてもの救いです。


飯田丸

通路の反対側には、熊本地震後に「奇跡の一本石垣」として有名になった、飯田丸五階櫓のある飯田丸が望めます。

現在、五階櫓は解体されて、その姿を望むことはできません。


数寄屋丸二階御広間(すきやまるにかいおんひろま)

長櫓の下部の石垣が崩れ、建物にも歪みが出ています。この櫓の修理もまだ手つかずのようです。


未申櫓(ひつじさるやぐら)

南口から城外に出て、ふたたび二の丸方面へ向かいます。

未申櫓は西出丸南西隅にあった櫓で、最初に見た戌亥櫓と同時期に建設されたものです。

西南戦争の際に失われましたが、平成15年(2003年)に戌亥櫓とともに木造で復元されました。今回見た櫓の中では一番被害が少ないように見えます。


神風連の乱の碑

西南戦争の1年前、1876年(明治9年)には明治新政府に不満を抱いた不平士族が蜂起し、城内の熊本鎮台を襲い、砲兵営などを占拠しましたが、わずか1日で鎮圧されています。


再び二の丸駐車場付近まで戻り、宇土櫓を外周から眺めます。


このアングルが熊本城で一番有名ではないでしょうか。宇土櫓と大小天守がワンショットで写ります。


宇土櫓下の石垣は21mもありますが、地震後に行われた調査ではさらに石垣が空堀の地下に伸びていることが確認され、築城当初の高さは現状より4m高い約25mだったことが確認されました。


さらに加藤神社まで足を延ばします。


加藤神社

加藤清正を祀る神社で、明治4年(1871年)錦山神社として建立され、その後、城下に移転したのち、昭和37年(1962年)に現在の場所に移りました。


境内から見上げる大小天守

まさに”空にそびえる鉄の城♪”

要塞という表現がぴったりです。


長塀

城の南を流れる坪井川に面した石垣上には直線で242mの長さをもつ長塀(国指定重要文化財)があります。

熊本地震により、東側80mが倒壊する被害がありましたが、令和3(2021)に復旧が完了しました。


加藤清正像

同じく坪井川にかかる御幸橋のたもとには陣中で甲冑と長烏帽子を身に着け、床几に腰を下ろした加藤清正像が建っています。

この銅像は名古屋城能楽堂前に建つ清正像とまったく同じデザイン。きっと製作者が同じ人だと思われます。


以上3回にわたって、震災の被害から立ち直りつつある熊本城の今をご紹介しましたが、今回訪問して、予想以上に地震の被害が甚大だったことを改めて実感しました。

まだまだ完全復旧への道のりは長いです。

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