2021年2月23日火曜日

渋沢栄一の剣は柳剛流?―邪剣という偏見を覆すことができるだろうか

  大河ドラマ『麒麟がくる』が終わり、十兵衛ロスになるかと思ったが、ロスに陥る間もなく『青天を衝け』が始まった。2回が終わったばかりだが、江戸末期の武州の雰囲気がとてもわかりやすく伝わってくる。渋沢栄一の生家が豪農だからというだけではなく、藍や絹などの商品経済が浸透しているのか、農民は比較的豊かそうで、手習いをしたり、剣術を習ったりする余裕があるようだ。とくに、農民や商人、あるいは博徒のような無頼が剣術を習うのは、幕府直轄地たる武州の風土であるらしい。

 そこで気になったのが、栄一の剣術の稽古のシーンである。剣道にしては珍しく、薙刀のように脛当をしている。また、脛を狙った打ちもあり、ドラマでは特に解説もないが、これは柳剛流ではないかと確信している。

 柳剛流は、私が知る限り司馬遼太郎の二つの小説において、邪剣として登場する。一つは、短編である『人斬り以蔵』の中で、武市半平太が、岡田以蔵の立ち合いを初めて見たときに、軽い嫌悪感とともに柳剛流のことを思い出すというエピソードである。半平太は、柳剛流を邪剣とし、「正法者は邪法使いを相手にせぬがよいといわれているが、立ち会ったものかどうか」と以蔵との立ち合いを思案している。もう一つは、『燃えよ剣』の中で、土方歳三がまだ武州で薬売りをしていたころに倒したある兵法家についてのものである。その兵法家は脛を切られているということで、下手人は柳剛流の使い手ではないかと兵法家の弟子たちが推測していた。しかし倒したのは歳三であり、小説では、歳三が武州の雑多な流派を取り入れていて修行していたからと理由が述べられている。

 柳剛流が邪剣とされていたのかどうかは史実としてはわからないが、剣術の中で、唯一脛を狙うということで、江戸で一流とされていた北辰一刀流の千葉道場や鏡新明智流の桃井道場では、相手にしないということがあったようだ。剣術には脛の防御法はなく、無理にそれをしようとすると、姿勢が崩れてしまう。また、18世紀半ばに武州蕨で生まれた流祖の岡田惣右衛門奇良が武士ではなかったということも邪剣説が生まれたことの理由であろう。武士以外の人間が、手段を選ばずにルールを無視して打つ剣法として見られていたのかもしれない。

 ところが、ちょっと調べてみるとわかるが、惣右衛門は、新陰流の流れをくむ心形刀流を学んで柳剛流を創始したようで、その後柳剛流からは、幕府講武所師範役となった松平忠敏など、多くの剣士を輩出しているようである。在野の剣でも、ましていわんやただの邪剣というわけでは決してないはずだ。また、同じように柳剛流で修業した渋沢喜作や尾高新五郎、柳剛流の幹部であった伴門五郎が上野の彰義隊に参加している。維新の政府軍相手に見事な剣技を見せた柳剛流の隊士もいたようだ。彰義隊の上野戦争では、薩摩を中心とした政府軍と彰義隊士が激突するが、薩摩示現流と柳剛流の剣戟をドラマで少しは描いてくれないかなと期待している。

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