まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

日本語教師を目指すまで

2021-11-12 22:37:33 | 行動計画 & 積極的思考

1週間前の記事

冬の夜のAMラジオと中国語 - まさか日本でカルチャーショックを!

ここで、

<何度も記していることであるが、来週は日本語教師になった経緯について書いてみたいと思っている。>

と結んでおいた。

 

20代の頃、とあることを成し遂げるために、会社もできる限りのことをしてくださった。

もちろん私も朝早くから出社したり、休みの日も早朝に会社に行き(タイムカードを押さずに)数時間仕事をし、9時前には帰宅していた。

 

その究極の寝不足の時代に得たことはとても大きかった。

当然仕事においても。

 

無事にそれが終わった後、1年間お世話になった会社のために懸命に働き、恩返しをして辞めるつもりであった。

1997年香港返還の年に。

 

しかし、仕事も忙しいだけでなく、会社のことを考えればこそ辞めるわけにはいかなかった。

 

そんな97年頃から、よく買っていたのが海外就職関連の本であった。

もちろん既にインターネットも使っていたので、それで調べてもいた。

返還日前後の香港が私を強く動かしたのであった。

だが、当時の職種で中国語圏での仕事は多くはなかった。

 

それが原因というわけでもないのだが、違う世界も見て見たくなり、その年の後半ごろから1年半ぐらいはけっこう真剣にヨーロッパの言語に取り組んだ。

特に98年はNHKのテレビやラジオの中国語や冬の夜の車の中で聴く中国のラジオ放送以外では中国語に触れていなかった。

 

1999年の3月。

とても大変であった仕事の打ち上げのBBQの後、ずっと止めていたタバコを1本もらって、ひとり夕陽を眺めた。

「やはり俺は中国が好き。今が駄目でも、絶対に中国語圏で仕事をする!」と固く心に誓った。

 

2000年の秋。

20代の頃によく担当していた仕事で様々な悪条件が重なり、赤字を出した。

その職業の悪いところばかりが見え始めたのもこの頃であった。

 

実は98年ごろから海外就職の雑誌で日本語教師の方の記事についても興味を持つようになっていた。

 

ちょうど私が社会に出た1986年頃から日系南米人の方々が今まで以上に増えだした。

そんな80年代後半の夏に読んだ新聞記事。

それは日系南米人子弟の母語と日本語の問題について書かれていた。

他人事には思えなかった。

とても憂い多きことであった。

 

そして90年の入管法改正(定住者等の滞在許可の新設)により、急激に増加することとなったブラジルやペルーからの日系人とその家族。

彼らの母語と日本語について考えることが増えていった。

今でもスーパーなどで外国人買い物客を観察することがあるのだが、当時からの隠れた趣味である。

 

また、実は94年に出会った尊敬する語学教師が昔日本語教師をしていらっしゃった。

彼の授業スタイルは後の私に大きな影響を与えることとなった。

もちろんまったく同じことをしていたわけではないけれど。

 

忘れてはいけないのが、1996年のテレビドラマ『ドク』。

安田成美さん演じる雪が目指す日本語教師に憧れを抱いた。

それ以外にも、このドラマで様々なことを考えさせられた。

 

そんなこんなの(力技一本!の)お導きにより、興味をもった日本語教師。

当時の職業で中国語圏に出られなくても、これならば需要は高かった。

 

だが、仕事も会社も捨てられなかった。

さらには安定した収入をして、家族を置いて自分一人海外に行くことについての葛藤もあった

 

そして2001年。

かなり大きな仕事。

それは前年までとは違う風が吹いていた。

超級の逆風と言える。

自分の就いている職業が大きな転換期を迎えていることに気がついた。

元々1999年頃から会社が私に対してかなりキツイことを言い始めていた。

それこそ先を見越した行動であったに違いない。

だが、私ひとりだけにあれこれ無理なことを押し付けてくることに嫌気もさしていた。

 

とにかく2001年は忙しく、あまり世間のことを良く覚えていない。

9月11日のアメリカ同時多発テロ事件でさえも、しっかりとニュースを見ている余裕がなかった。

その月の下旬になって、やっと3日間だけ夏期休暇を取得したのだが、それまでは夏場に3か月間休みなく働いていた。

その夏に甥が生まれているのだが、私は実の妹の大きなお腹を一度も見てはいない。

それぐらい余裕がなかった。

ただ、私はどんな仕事をしても、週に最低半日は休むようにしている。

(それは日本語教師時代に初めて上級を担当したときも同じであった。

当時、準備がとても忙しく、週末も学校の事務所(職員室)で編集などをしていたのだが、日曜日の12時にはスパッと切り上げて帰宅し、日系などの外資系スーパーへ買い物に出かけていた。)

とはいえ、冬場に休みなく働くのと体力の消耗度は全然違うわけであり、その無理は秋から徐々に現れ始め、翌年顕著となった。

 

2002年3月で辞める決意をし、退職願を準備しつつ、冬場の仕事をこなした。

だが、4月からある仕事が回ってくることを知った。

文字通り私でなければできない仕事であり、自身もとても勉強になると感じ、退職を1年遅らせることにした。

 

その夏に入院した。

前年の無理だけでなく、その年は特命で私に回ってきた屋内での仕事だけでなく、様々なことをこなしていた。

 

入院の前の週末。

必要な物を買い求めながら考えた。

「中国でなく、韓国ならば(金はかかるが中国よりは)頻繁に帰国できる」と弱気なことも考えるようになった。

 

翌年NHKBSで放映された『冬のソナタ』(2002年 KBS)がブームになる前であったが、当時も相当な人気があった韓国。

草なぎ剛さんたちの活躍も大きかった。

 

その入院明けそうそう、出勤した職場で追いつめられた。

同僚曰く、私の顔は真っ青であったらしい。

その内容は理不尽過ぎるので記さないほうが良いかと思う。

もちろんそれも私への期待であったことは間違いないであろう。

だが、入院の前夜遅く(当日未明)まで会社でパソコンに向かい、自分の仕事だけでなく、手伝っていた他部署の仕事も進めておいたわけであり、我慢の限界であった。

すぐに怒ってタイムカードを押して病院に向かった。

 

翌年こそ辞める決意を固めた。

 

翌年。

本来の技術者としての最後の仕事を終わらせた3月のある金曜日の晩、社長を応接室に呼び、辞意を伝えて退職願を渡した。

主に日本語教師を目指すことを伝えた。

ただ、最終判断は社長に任せるという意味で退職日は空白にしておいた。

辞める気満々ではあった。

ただ、無理な扱いも多かったが、同じぐらい目はかけていただいていたので。

 

4月下旬のゴールデンウィークの休み前、遅くまで仕事をしていた私に社長が話しかけてきた。

忙しい社長であったが、我々が遅くまで残るときはできる限り遅くまで残っていてくださるような方であった。

 

正式に私の退職を認めてくださった。

1か月間かなり悩んだらしい。

社長としても、私にかなり期待してくださっていたことはわかっていた。

それを裏付ける話もその晩幾つか聴いた。

 

その翌日から2泊3日の一人旅。

愛知県よりは遅くに満開を迎える桜を見に行く列車の中で心は弾んでいた。

だが、同時に社長の心の中も考えた。

 

2003年5月下旬、1年2か月にわたる大仕事を終わらし、5月末日で私は退職した。

 

会社を辞めてからも2回、その会社でアルバイトをしたぐらいの信頼関係はあった。

 

 

2005年11月第一木曜日の午後、私は大荷物を持って自宅を出た。

駅まで妹の車で送ってもらった。

その晩は中部国際空港前のホテルに泊まった。

空港で様々な日本食を堪能した。

翌日金曜日、広州白雲空港行きのJALが離陸したとき、涙が出た。

まるで、雨宮塔子氏の『金曜日のパリ』のように。

様々な方々が私の背中を押してくださったことに改めて気がついた。

 

2014年夏の本格帰国も金曜日であった。

広州から上海経由の中部国際空港行きの中国南方航空。

広州を離陸したときは軽くであったが、上海を離陸したときは涙があふれた。

中国で出会った様々な方々を思い出した。

 

これがざっとしたストーリーである。

補足が幾つかあるのだが、それはまた記したいと思っている。

 

余談:

今でも時々考える。

あのまま会社に残っていたら・・・と。

もしかしたら、それなりの地位になっていたかもしれない。

それ以前にそれほどお金に困ることもなかったであろう。

だが、私は今もお金では買えない貴重な経験をし続けている。

 

帰国後何度か戻ろうかとも考えた。

だが、戻らなかった。

お互いが成長していくために。

 

帰国後の数年、日本の超一流企業の仕事に携わる経験をした。

以前の苦労などたいしたことがなかったのだと感じた。

だが、辞めたからこそもっと高い世界の仕事が経験できたのである。

今も当時よりは数段上の仕事をしている。

 

ただ、小さな世界で積んだ経験があるからこそやっていられるような気がしてならない。

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