2024年4月27日土曜日

25. 評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。ジョナサン・H・ターナー(1942-)

 「要するに、評価過程において、恥を経験する誰もが「悪いことをしたのは《わたし》だ」という。

これに対して、罪を経験している誰もが「わたしがしたのは悪い《ことだ》」という。

ルイス(2000)は、こうした帰属を包括的、もしくは特定的な帰属として識別する。包括的な自己帰属は「自己全体」におよぶ。自己の総体がその評価に含まれる。恥の場合、個人は自己を「悪い人」であると識別する。

これに対して、特定的な自己帰属は自己が関与している特定の行為を指示する。「悪い人」であるよりも、むしろ人が「悪いこと」をしたと認知する。タンネイによれば、こうした強調点の相違が異なる感情と異なる行動反応をもたらす。

 恥は主として矮小感と関係する激しい否定的な感情である。個人は矮小であり、取るに足らず、無力であると感じる(Tangney,1995b)。

恥じている人は人目にさらされていると感じる。なぜなら「不完全な自己」が他人からどのように見られているかを考えるからだ。こうした他者はその状況に実際に存在し、もしくは自分の想像のなかに存在しているのかもしれない。恥を感じる人は、人目を避けたい、消えてしまいたい、あるいはその状況から逃れたいのだ。

 罪は、恥と比べると、それほど激しい否定的な感情ではない。なぜならその焦点は、自己全体でなく、むしろ自分がしでかした特定の違反とその結果につながれているからだ。罪は悪いことをしたことへの緊張感、後悔と自責の念と関係する(Tangney,1995b)。

人はその状況から逃れるよりも、むしろ自分がやってしまった過失を打ち明け、その損傷について謝罪し、また(あるいは)現状を回復することを求める。

全人格が詮索されているのではないので、賠償的な行為を行うことがある状況においてたやすく自己の指針を見つける。違反は許されるので、人は出会いを継続することが可能であり、何らかの方法で対処することができる。

 タンネイ(2002)は、罪(恥ではなく)が「道徳的感情」である一つの理由は、罪は他者ともう一度結合しようとする試みによって人を能動的に動機づける。

これに対して、恥は他者との分離と距離を広げたままである。それゆえ罪(恥ではなく)を道徳的感情として扱うための別の理由をも識別している。

 罪は他者との同情の気持ちを促進するように思われるのに対して、恥はこれらの気持ちを萎えさせる。

同情は他者の苦悩を認知し感じることをともなう。それは育成するに値する有用な感情であると考えられる。なぜなら罪は支援行動を促進し、そして攻撃的な行動を抑制しがちであるからだ。

罪は自己全体よりも、むしろ個人の行動に焦点を定めるので、個人は恥の場合のように、内面を直視することも、また自己を巻き込むことも少ない。 

外部に目を向け、他者の苦痛に注目することが同情の必要条件である。恥を感じることは同情過程への侵害である。なぜなら傷ついた他者よりも自己にいっそう焦点を定めるからだ。」

(ジョナサン・H・ターナー(1942-)『感情の社会学理論』第5章 精神分析的要素を用いた感情の象徴的相互作用論の理論化、pp.317-318、明石書店 (2013)、正岡寛司(訳))

感情の社会学理論 (ジョナサン・ターナー 感情の社会学5) [ ジョナサン・H・ターナー ]



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