カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ヨーロッパ中世とは千年王国期だった ー 正義の時代か暗黒時代か

2024-04-23 12:14:20 | 教会


 わたしの所属教会の信徒の集まりである「アカシアの会」でM氏の報告があった。復活節第4主日の翌日ということで、テーマは「ヨーロッパキリスト教千年王国期の始めと、終わり、今」というものであった。テーマに惹かれて、また教会の長老格であるM氏の発表ということで、11名もの方が雨にもめげずに集まった。

 お話は1時間という短いものであったが、自説を交えた個性的なヨーロッパ論で、論争的な内容を含む興味深いものであった。基本的に神学論ではなく、歴史的観点からの議論だった。

 無理に要約すれば、「ヨーロッパ」を「空間軸」(地理的に)と「時間軸」(歴史的に)に整理して定義し直すというものであった。

 現在の混迷するヨーロッパ世界を理解する視点を提示したいという意欲が伝わるご発表だった。ヨーロッパを「西欧」と「東欧」の二つに分けて説明しがちな現状に対して、ヨーロッパを「一つ」のものとして理解したいというのが趣旨だと理解した。特にヨーロッパ中世はキリスト教世界という一つのものとして理解すべきで、よく言われる暗黒の時代ではなく、正義と平和が支配する千年王国期と考えたいというお話であった。

Ⅰ まず、ヨーロッパという概念は空間的には次のように変化してきたという。

1 ローマ帝国の時代
 地中海周辺全域(イタリア・イスパニア・北アフリカ・エジプト・中東)+ガリア+黒海・ドナウ川ライン川以南・ブリテン島
2 中世
 イタリア・ガリア・バルカン・地中海北岸・黒海・小アジア
3 現在
 西端:イベリア半島・グレートブリテン島・アイルランド島
 南端:ジブラルタ・シチリア・クレタ島
 東端:黒海・ドン川・ヴォルガ川・ウラル山脈
 北端:スカンジナビア半島・バレンツ海

 中世ヨーロッパの地図のコピーを全員に配られ、特にローマ共和国時代のガリアはまだ蛮地だったこと、共和国直轄地はルビコン川以南だったことを詳しく説明された。

Ⅱ 次にヨーロッパ中世という概念の時間的な変化を説明された(1)

1 5世紀から15世紀にいたるヨーロッパの1000年を「キリスト教千年王国期」と呼びたい
2 中世の始まりを476年の西ローマ帝国の滅亡にみたい(2)
3 中世の終わりは1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見にみたい

 特に、西ローマ帝国滅亡により帝国の唯一の正統な後継者の立場に残ったビザンツも、フランク王国を初めとする西のゲルマン諸王権もキリスト教国であった点を強調された。

Ⅲ 質疑

 講義のあと質疑応答があった。論争的な観点が多数提示されたので、皆さん熱心に質問された。また、M氏の応答も熱のこもったものであった。主な質問を無理に要約すれば次のようになるだろうか。

1 ヨーロッパを東ローマ帝国、ビザンツ帝国、東方教会を含むものとして説明する意図はわかるが、イスラム世界との関わりなしにヨーロッパの定義ができるのか
2 ヨーロッパ中世の形成に十字軍の果たした役割の評価が低いのではないか
3 男性の視点からみた歴史観すぎるのではないか ヨーロッパ中世の形成に女性が果たした役割を知りたい
3 ヨーロッパ中世を千年王国と呼ぶのなら、テーマの「千年王国期の終わり、今」とはなにか。現代は神学でいう終末期なのか(3)

 M氏がすべての質問に答えられる時間は残っていなかった。というよりすぐに答えられるような質問ではなかったと言うべきだろう。M氏の続きの講義を期待したい。



1 この説の下敷きは大月康弘『ヨーロッパ史』(2024)だと強調されていた
2 教会史でいえば、313年のミラノ勅令から800年のカール大帝即位までの期間を、地図と年表を使いながら詳しく説明された
3 千年王国というのだから歴史学だけではなく神学からの議論も必要なのではないかという趣旨の質問のようだった。千年王国論や千年紀論(Millenarism)はヨハネ黙示録the Revelation to John, 19:11~21)をベースに語られることが多いが、黙示録は終末論でもある(the Apocalypse)。M氏のヨーロッパ論の射程距離は長く、また幅広いようだ。

【ヨハネの黙示録】

 

 

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見て、信じた ー 「見る」とはなにか(2024年復活祭)

2024-03-31 22:18:00 | 教会

 ご復活祭おめでとうございます。
今年のイースターは3月31日と早く、しかも晴天に恵まれ(1)、当教会では多くの方がミサに与った。昨年はまだ分散ミサが続いており全員がそろうことはできなかったが、今年は皆でお祝いすることができた。高齢の男性にはネクタイ姿が多く、女性も正装に近い人が多かった。

 今日の福音朗読はヨハネ20・1-9で、「空のお墓」の話、または、「復活」のシーンの話だ。M神父様は当教会で初めての復活祭のミサを挙げるということで力が入っておられたように見受けられた。受洗者も3名おられ喜びもひとしおだったようだ。

 お説教は本日の福音朗読の箇所に何回か出てくる「見る」という言葉についてであった。聖書に出てくる「見る」という言葉には様々な意味が込められているというお話であった。「体の目心の目信仰の目」という区別は神学ではいつも出てくる話だが、M神父様はこの言葉にはもっと多様な意味が含まれていると例を挙げながら説明された。

 「見て、信じた」(20-8)とは「復活を信じた」という意味なのだろうが、何を見てそう信じたのだろうか。フランシスコ会訳の聖書の注では、「もう一人の弟子」(伝統的に「使徒ヨハネ」と言われてきた)は、埋葬用の亜麻布の「状態」と「位置」からそう判断したのだろうと解説している。つまり、その布は、イエスの頭を縛った輪の形のまま元の所に平らに置かれていたから、イエスはそのまま抜け出るようにすっと自由な復活体になったのだろうと理解した、という説明だ。この先は聖書学の世界の話のようだ。

 ごミサ後のお祝いの会は賑やかだった。子供たちがイースターエッグを配っていたが、とても数は足らなかったようだ。コロナ禍をなんとか乗り越えて迎えた、素晴らしい復活祭だった。

【復活の主日】

 


1 当教会では復活祭で雨に降られたことが一度もないという。イースターは移動祝日なのに(つまり毎年日にちが変わるのに)、不思議といえば不思議ですねという話で盛り上がる。

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信徒大会か信者総会か ー 四旬節のなかで

2024-03-03 14:39:14 | 教会


 四旬節第3主日のごミサに出たら先週の教会「信徒大会資料」が配布されていた。2021年度、2022年度の信徒大会はコロナ禍の中で開催されず、「年次報告」が配布されていただけなので、信徒大会は3年ぶりの開催ということのようだった。

 資料によると、教会活動は平常に戻りつつあるようで、サマーパーティやバザーも開催された。2023年度は信徒総数は昨年より11名減の1443名(女性信徒62%)、受洗者数は6名だったという。
 主日ミサの人数制限(地区別)がなくなり、新しい神父様をお迎えしたこともあり、ごミサに与る人数も増えつつあるようで、ミサ献金も増えているという。大きな修繕もなく、予算の執行状況はほぼ予算案通りだったようだ。

 収支決算の確認がなされ、教会の行事予定が発表され、教会各部の活動報告もなされたようだ。いつ頃からかは忘れたが、数年前からこの大会は「信徒大会」と呼ばれるようになった。それ以前は「信者総会」と呼んでいたが、大会は決議機関ではないとの理由で「信徒大会」と名称が変わった。名称はどちらでもよいが、現在でも教会によって使われる名称が異なるようだ。「信徒総会」という名称を使う教会もあるようだ。

 つまり、信者と信徒大会と総会、の区別がはっきりしない点が気になる。
考えてみると、普通の使い方では、「信徒」には司祭などの聖職者は含まれない。信徒も聖職者も含むときは「信者」と呼ぶようだ(1)。だから理屈でいえば、信者総会には主任司祭も同席するが、信徒大会なら同席しない、ということになるのだろうが、実際には神父様がいない大会や総会はないのではないか(2)。わたしは信者総会という言葉に慣れ親しんできたので信徒大会という名称にまだなじめないでいる(3)。

【信徒大会】

 



1 信者をこういう意味で使うのならあえて訳せばCatholics とかChristiansになるのだろう。その伝でいえば、信徒はChurch membersか。平信徒ともいうのでLaityか。ただし、中央協議会が発表する日本のカトリック信者数の信者には聖職者や神学生は含まれないこともあるようだ(「カトリック教会情報ハンドブック2024」によると、信者総数は422,450,司教・司祭・助祭・修道女・神学生が5993で、両方併せて「信者」と表記している)。「信者」とはふつうは洗礼を受けて各教会の「信徒台帳」に記載されている人、という意味なので、信徒と同じ意味で使う人も多いようだ。
2 総会と大会の違いはなかなか難しいようだ。全員参加か否か、決定権があるのかないのか、などどこで識別するかは議論があるらしい。
3 司教の選抜や教区司祭の選別に信徒の意見を反映させろ等の意見がシノドス(世界代表司教会議)で出ている国もあると聞く。教会の位階制の根幹に関わる問題なので、女性司祭の問題よりも意見がまとまらないのではないか。

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人生はV字型ですよ ー 2024年四旬節黙想会

2024-02-18 15:56:25 | 教会


 四旬節に入ったので教会で黙想会がもたれた。土曜日と日曜日の二日にわたる。初日は講話と告解とミサ、二日目は講話の続き。指導司祭は阿部仲麻呂神父様。阿部師の黙想指導は昨年の待降節中にももたれたので当教会としては二度目となる。

 第一日目の今日土曜日は30人ほど参加されたように見えた。M主任司祭の紹介の後1時間弱の講話があった。短い休憩の後お二人の神父様による告解があった。ほとんどの方が残って告解されたようだ。

 今日の講話のテーマはフィリピの信徒への手紙の第2章6~11節。古代教会で実際にうたわれていた賛歌だという。この手紙はパウロが54年ごろフィリピという名前の町(1)の信徒に送った複数の書簡を一つにまとめたものだという。パウロが偶然にも手紙の中に、当時実際にうたわれていた賛歌を書き記していてくれたので、現在まで残っている貴重な賛歌だという。

 この賛歌は、6~8節の部分と、9~11節の部分の二つに分けられるという。前半部分はキリストをへりくだる者、謙遜な者として称え、後半部分はキリストを昇る者、挙げられる者として称えるているのだという。前回の待降節の黙想会では前者のへりくだる者、謙遜な者としてのキリストが講話の主題であったが、今回は後半部分の昇る者、挙げられる者としてキリストが講話の主題であった。

 講話は多岐にわたったが、次の2点が印象に残った。一つは師の自分論だ。世間を震撼させている児童虐待のニュースに言及しながら、自分とは、努力する者・頑張る者であるよりは、他人の心遣いに気づく者、自分の十字架を背負う者として考えよ、と言われた。努力より気づきを、気遣いを、と言われた。イエスがすべてを背負ってくれていることに気づきなさい、ということのようだった。師はどうも独特なセルフ論をお持ちのようだ。


 二点めは黙想とは何かについての師の説明だ。師は、黙想には3段階があって、①聖書を読む、②心に留める、③実行する、の3段階があるという(2)。

①聖書を読むのはよいが、たんなる読書になってしまっていないか。小説を読むのと聖書を読むのは同じではない(3)。
②聖書のことばは、心にふかく留めなければならない。心によく浸みこませねばならない。
③実際に身体で、動作で、行動で示さなければならない。言葉にとどまってはならない。
 この説明はとても興味深かった。通常の黙想会では祈りが強調されるのだが、師はそれだけでは足らないと言っておられたようだ。皆さん熱心にうなずいておられた。

 師は、最後にまとめとして、人生はV字型だ、と強調された。謙虚さは「下り」」であり、力強さは「昇り」だという。昇ることは、相手を高めることであり、栄光にたどり着く途だという。いくつのも例を挙げてV字型の人生を説明されていた。人前にさらされる、信仰を証しする、人生を完成させる、などはみな「上に上る」ことの例だという。フィリポ2章の9~11節はそこを歌っているのだという。イエスの生涯がそうであったというお話であった。こういうたとえ方、理解の仕方もあるのだと思った。
 短い時間の講話であったが、師のお考えがよく伝わった。黙想会の良き出だしであった。


【阿部仲麻呂師 四旬節黙想会】

 


1 フィリピとはギリシャ、北マケドニアにあるらしい。街の名前はフィリポす2世にちなんでつけられたという。フィリポ2世はアレキサンダー大王の父親という。
2 興味深い黙想の説明だった。師のお話を聞いていて今回も思ったのは、師がいう黙想は、なにか大きな、突然の変化が、心に起こることを想定しているようだ。回心が黙想の目標のようだ。他方、回心とは、もっとなだらかな、静かな、時間のかかるプロセスのようにも思える。禅が強調する「」とか、日本文化が持っている「修行」の観念が想定する心の変化とは異なる印象を受けた。回心とはそれほど突発的なものなのだろうか。「十字架の道行の祈り」や「巡礼」はもっとなだらかな変化を想定しているように思える。
3 教会では「読書」には特別な意味があって「祈り」のことなのだが、ここでは通常の本を読む、reading という意味で使われているようだ。

 

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大斎は守られているか ー 2024年の灰の水曜日

2024-02-14 17:19:50 | 教会


 今日2月14日は灰の水曜日なので、ごミサに出てきた。いつも通り多くの方が来ておられた。「灰の祝福」があるのでミサの流れは通常とは少し異なる。
 今年はB年だが灰の水曜日なので福音朗読はマタイ6:1~6,16~18が読まれた。「施し・祈り・断食」について教えるイエスの言葉だ。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」という話だ。「灰の祝福」では全員額に(1)を回心(2)のしるしとして受けた。四旬節の始まりだからだ。

 今日は大斎なので、断食を守らなければならない。大斎は灰の水曜日と聖金曜日の年に二回しか定められていないので、結構みなさん守っておられるようだ(3)。断食といってもまったく一日中食事をしてはならないというわけではなく、60歳以上の高齢者は免除されていると聞く。わたしの家では3食ちゅう1食抜いて、肉類を避ける、という程度のことしかしていない。

 四旬節は復活祭前の回心の40日間だ。回心のしるしとして「善行・祈り・節制」が求められる期間だ(4)。「枝の主日」まで長い期間を静かに過ごしたい。

 

【灰の水曜日 (聖書と典礼)】

 

 


1 灰は前年いただいた棕櫚の枝を先週教会に持ち寄って焼いて祝福を受けたもの。私どもも1年間飾っていた葉の枯れた枝を典礼委員にお渡ししてあった。
2 回心改心ではない。英語ではconversionというらしい。神に心を向け直す、という意味が込められているという。
3 四旬節中は告解(ゆるしの秘跡)も受けなければならないのだが、こちらはあまり守られていない印象がある。かわりに黙想会共同回心式に出て、神や信徒と和解する途を選ぶ信者が多いと聞く。告解をする人が減っている、告解の回数が減っているという問題については改めて考えてみたい。司祭の守秘義務、児童虐待、教会法と世俗法の関係など難しい問題が控えているようだ。
4 イスラム教のラマダンに似ている印象を持つが、中身は異なるようだ。期間も、期間中の過ごし方も含めて、中身は少し異なるようだが、「善行・祈り・節制」の期間である点は同じようだ。

 

 

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