最近、聖徳太子が生きていた時代とほぼ重なると思われる春日古墳の記事を書きましたが、今日は、その少し後の時代のものではないかと思われる建物群の跡が、飛鳥浄御原宮のあった跡から発見されたという話題です。

大規模な建物群の跡が、飛鳥浄御原宮の後から発見されました。

天武天皇や持統天皇の時代のものではないかとみられています。

建物は、建物内に柱があるのではなく、地面まで通っている総柱の構造で、重さのある建物でも耐えうるように造られたものです。

東西34.5メートル、南北12メートルぐらいの建物群があったようです。

3棟の建物があったのではないかとみられています。

宮の外郭にあたり、これまで中心部である内郭の他に、エビノコ郭といわれる建物が、離れのように存在していたことが分かっていましたが、今回、外郭に複数の建物が存在していたのではないかと思われる柱の跡が見つかったのです。

内郭からは40メートルほど離れた場所です。

考古学の専門家は、持統天皇が日常生活を送った内裏があったのではないかとみているようです。

律令国家が形成されつつあった時代ですので、建築物も唐の技術に学んだのではないかと思います。

そのため、柱の跡も、方角などがそろっています。

柱は、ほぼ等間隔に並んでいるのですが、東西に間隔が少し広い部分があるという特徴的なもので、これまで平城宮内裏でしか確認されていないものです。

残念なのは、すでに埋め戻されてしまっているようです。

ただ、これだけ広いスペースがむき出しのままだと、風化してしまいますので、やむを得ないかなと思います。

これだけの建築技術があれば、情報のやり取りもある程度あったのではないかと思いますが、その辺の歴史資料が極端に少ない時代ではあります。

スルー出来ない特別な場所の、特別な人々の生活がどのようなものであったのか、解明されるよう研究に期待したいと思います。

「絶えず行く、明日香の川の、淀めらば、故しもあるごと、人の見まくに」(詠み人知らず)