マタイによる福音書
5:33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。
それは『大王の都』であるから。
5:36 また、自分の頭をさして誓うな。
あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。
それ以上に出ることは、悪から来るのである。
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
イエスはイスラエルの人が教えられてきた律法を取り上げ、
本来の律法が目指している目的を明らかにされていきます。
33節にあるように「偽りの誓いを立てるな。
主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということです。
「偽りの誓いを立てる」ということは、これは、つまり実は嘘であるのに、
「これは本当です、本当ですから主に誓います」と、
嘘を真にするために誓うということを意味しています。
そのような、「嘘のために、誓いを立てるな」ということをここで戒めています。
「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは、神に誓ったのならば、
その誓ったことは必ず真実となるように実行せよということです。
この律法の大事な所は、「主に誓う」つまり「神に誓う」ということが、
いかに重大なことかを教えていることです。
「神に誓う」ということ、それは神に自分の発言を、保証してもらうということです。
神が保証人であって、もし自分が約束したことを守れないのであれば、自分だけでなく、
神様の信用を無くすことになります。
そうであれば、「神に誓う」時、わたしたちの結ぶ約束や、口にする発言が、
本当に真実な事でなければならないのです。
さらには、神の民であるものたちは誓う時だけでなく、彼らは「神の民」という、
神の名の元にある民ですから、彼らはいかなる時でも、
その言葉が真実で誠実なものでなければならないのです。
そのことをこの律法は、わたしたちに教えようとしていたのです。
しかし、いつの間にか、この律法は、わたしたちがいかなる時でも、
真実で誠実な言葉を発する事が大事であるということよりも、
「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということが曲解されていき、
嘘の事柄でも、誓ったことを自らの力で、
真になるように実行することが大事であるということになり下がっていました。
「偽りの誓いを立てても、自分の力で、それを真にすれば、神の信用を下げることにならない、
神のみ名を汚すことにはならない」と考えるようになっていたのです。
それが、当時の律法学者やファリサイ派の考えであり、またわたしたちも陥りそうな考えなのです。
5:33 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。
それは『大王の都』であるから。
5:36 また、自分の頭をさして誓うな。
あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
5:37 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。
それ以上に出ることは、悪から来るのである。
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
イエスはイスラエルの人が教えられてきた律法を取り上げ、
本来の律法が目指している目的を明らかにされていきます。
33節にあるように「偽りの誓いを立てるな。
主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということです。
「偽りの誓いを立てる」ということは、これは、つまり実は嘘であるのに、
「これは本当です、本当ですから主に誓います」と、
嘘を真にするために誓うということを意味しています。
そのような、「嘘のために、誓いを立てるな」ということをここで戒めています。
「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」というのは、神に誓ったのならば、
その誓ったことは必ず真実となるように実行せよということです。
この律法の大事な所は、「主に誓う」つまり「神に誓う」ということが、
いかに重大なことかを教えていることです。
「神に誓う」ということ、それは神に自分の発言を、保証してもらうということです。
神が保証人であって、もし自分が約束したことを守れないのであれば、自分だけでなく、
神様の信用を無くすことになります。
そうであれば、「神に誓う」時、わたしたちの結ぶ約束や、口にする発言が、
本当に真実な事でなければならないのです。
さらには、神の民であるものたちは誓う時だけでなく、彼らは「神の民」という、
神の名の元にある民ですから、彼らはいかなる時でも、
その言葉が真実で誠実なものでなければならないのです。
そのことをこの律法は、わたしたちに教えようとしていたのです。
しかし、いつの間にか、この律法は、わたしたちがいかなる時でも、
真実で誠実な言葉を発する事が大事であるということよりも、
「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」ということが曲解されていき、
嘘の事柄でも、誓ったことを自らの力で、
真になるように実行することが大事であるということになり下がっていました。
「偽りの誓いを立てても、自分の力で、それを真にすれば、神の信用を下げることにならない、
神のみ名を汚すことにはならない」と考えるようになっていたのです。
それが、当時の律法学者やファリサイ派の考えであり、またわたしたちも陥りそうな考えなのです。