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「日本カメラ」誌の休刊から思う... 写真を撮ることへの意識

2021年05月01日 | その他(鈴木彩子,アマビエ様風味?,雑記など)
昨今の カメラ雑誌の休刊が相次ぐ中、 「日本カメラ」も 5月号を最後に 休刊。

個人的には、 フォトコンテストで 賞金が貰える入賞が、 まだフィルムの時代の 日本カメラでの機会が最初だった、とかも ありますが...

以前は、 自由課題の月例コンテストとは別に、 年1回(当初は4回?) 「自然と風景」の テーマ限定のコンテストがあった。
当時は 1年の中で 重点的に意識するコンテストになっていたことや、 フィルムの時代も デジタルでも 入賞したりもあって、 なんとなく親近感があった雑誌が休刊になるのには、 ありきたりな言葉では 寂しさのような感覚がある。

でも、 コンテストに応募したり 入賞したことなら、 去年に休刊になったカメラ誌でも あったわけで・・・

そういう経緯での思い入れとは別で 印象に残っているのは、 「自然と風景」のコンテストでは、 入賞作品が展示される “コンテスト展”があった。
そこで、 誌面に掲載されている印刷では 「これ、 そんなに良い?」と感じていた 風景写真の作品が、 大きいサイズでの展示で見ると、 「そうだったのか」といった感じで 印象が違って、 評価が納得できる、ということがあった。

その後で 改めて 誌面を見ると、 良い評価がされる“その要素”は 確かに見える・・・ のだが・・・
一般向けのプリンターでも 写真の出力には 大きいプリントが作れる機種が魅力的なニーズも多いように、 原板は同じでも、 プリントの大きさが違うと 印象が かなり違ってくることは多い。

風景写真でなら コンテストでの入選作品の撮影地に行って 模倣にもなっていない“似たような構図”で写しただけで、 あるいは、 鳥写真なら 極度にトリミングして やっと 大幅に縮小して掲載された作品と“似たような感じ”にできただけで、 「全国レベルで優れた評価をされる写真と同等の撮影に『成功』している」と称するご自慢が ありがちだろう。
それは、 リアル世界で優れた評価をされる写真の “本当の画”を知らないことでの幻想。
だから、 “コンテスト展”のような 大きいサイズで見れば、 気付けることがあるはず。

こういうところは、 写真にある表現性に対して、 掲載サイズも画質も制約がある誌面で伝わるものの限度、でもある。
これは、 モニターで見る ネット世界でも 同じこと。

かつては、 アマチュアにとっては、 作品を不特定の多くに見せられる「発表」の機会は 希少だった。
フォトコンテストを (名声欲でしか考えていない向きも 少なからずあるようだが...) 作品を発表できる場として見ると、 その機会は、 審査を経て 多数の中から選び出されるものでなければ 得られない。

近代では、 ネット世界が一般化して、 自分が載せたい画を 好きなように載せて 交流できるようになった。
これは、 写真を「発表」できる機会が、 他者の管理を受けることなく より“自由”に、 そして、 他者による評価の優劣で差がつくこともなく より“平等”に持てる時代、ともいえて、 文言としても 開放感があって、 いかにも麗しい・・・ のだが・・・
(鳥写真のような) 専門性がある知識やスキルの差が表れ易いテーマでは 特に、 全体の中での割合では多数を占める、 一生でも何度もはないだろう自慢の傑作でも 公募での場で選出される期待は望み難いような “裾野”のレベルでの、 その中でも 日常的に多々ある 並な内容が 無差別の無秩序に氾濫することにもなっている。
まぁ、 そこには このブログも含まれるが x x x

もちろん、 全体の中での相対的に見れば レベルが低くても (ありがちな勘違い行動で 迷惑をかけ続けたりしなければ) それが悪いことでもなければ、 高いレベルを目指さなければいけないものでもなく、 自分なりに楽しむのが それぞれの自由。
そして、 何でも真に受けられるものとは限らないのは、 見る側の 自己責任という自由。

そういうことでは、 コンテストなどの公募の場でも、 選考は 選者氏の判断によるもので、 思い違いのような、 知っている人が見れば 明らかに つじつまが合っていないこともあって、 その評価の全てが望ましいとは限らないが・・・
個人的には、 某誌で、 テーマが限定されたコンテストなのに、 (その世界を実際に知っている人には 滑稽すぎることが明らかでも、 世の中では大多数を占める門外漢には、 実際を正しく述べていれば頻出しない 好まれがちな“それっぽい単語”が並ぶのが喜ばれて、 むしろ 本物よりも本物らしく見えてしまうらしい、) 初歩的なことから門外漢なご解説を垂れられることが続いて、 それについて 何度も色々と書いたものを同封したものの、 更に悪化するだけだったので、 印刷メディアでの作品の発表機会は貴重でも、 それ以上に、 自分の写真が掲載されることが 妄想話を もっともらしく垂れ流されることに利用されて 世の中への害に加担した結果になるのは 適切ではないと判断して 応募を止めて、 以降も その選者氏が長らく続いていることで 今も そのままになっているものもあり x x x
そんな風に、 作品のジャンルと 選者氏の名目上の肩書きとの 関連性の遠近を問わず、 良い評価をされた根拠の 主観的な要素ではない客観的な事実関係が支離滅裂といった醜態もあるので、 何でも 鵜呑みのコピペで わかったつもりになってしまう 他者任せの思考停止では いけないもの。
それでも、 鳥写真でなら 「○○が写っている」だけを喜んでいる類のような 画的に稚拙なものばかりが並ぶことまでは 考え難い面はあるが。

近代での写真の環境は、 一段と気軽に 幅広く使えるようになって お手軽な楽しさが増えたのと引き換えに、 表現的な作品としての写真に接する機会、 特に、 優れた作品を 表現性として充分な品質で見られる機会が 少なくなってきたように感じる。
そういうところから、 作品としての 各自それぞれに 自分なりの表現的な意識があるべき写真の世界観もあることを知らずに、 何でも、 記念写真とか、 SNSやメールで 証拠や視覚的な説明として添えたり 楽しい話題を作るネタといった、 「○○が写っている」が判別できさえすれば満願のような 日常的で手軽な用途と同一視して、 写真を撮ろうとすることの意識が 根源的な部分から違うものが混同されている広がりが 一段と進行しているように思える。

時代的な変化で 写真というものの世界観の大勢も変わっていくのは、 良いとか悪いとかいうことではないが・・・
カメラ雑誌が少なくなっていくことも、 写真というものの世界観が 日常的な用途に 更に傾向して、 表現としての作品を撮ろうとすること自体が ますます解され難い時代になっていく方向に 影響するのだろう。


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