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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

沼津市高尾山古墳の被葬者はヤマトタケルのモデル!

2024-04-25 19:31:10 | 古代史

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#8年も前の動画に今頃気付いてコメントしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

日本書紀で景行天皇とされた実在人物の墓です。ヤマトタケルのモデルでもあり熱田神宮に祀られています。この地で戦死して高尾山古墳に祀られたと推理しています。尾張氏が武力で日本を統一した建国の父なのですが、日本書紀を完成させた藤原不比等が建国の史実が都合が悪いので、国譲り神話などを創作して隠されてしまいました。でも、藤原氏の春日大社で神話のタケミカズチとして祀っています。
詳しい話は【検証26】建稲種命の終焉の地は? をご参照ください(;^ω^) 
 
 
【関連記事】
抹殺された尾張氏の謎(その3)尾張と言えばカニだ~わ!

 

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^) 応援をしていただき、感謝します。 初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください! よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ ) 古代史ランキング


【邪馬台国問題】徹底考察!ここにあった?

2024-04-24 21:06:47 | 古代史

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#半年以上前のとてもいい動画を見つけて早速コメントしました。ちょっとギャグを入れたので消されたようですが、改めて別の方にまじめなコメントを入れても削除されました(;´Д`)そうか、自分のブログへのリンクが問題だったのかな?。他の方のコメントもとても参考になります。顔見知り?ハンドル名ですが、のコメントもあり興味深い議論をしています。よろしければおつきあいください(;^ω^)

 

【古代】徹底考察!!邪馬台国はここにあった!!【歴史】 古代ミステリーチャンネル@YouTube

@katumoku10
卑弥呼の墓は径百余歩の冢とありますが、直径約150mの円墳「三柱山古墳」が発見されています。よろしければ

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください(;^ω^)

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@gaku_k
壱与は卑弥呼の娘ではありませんよ。

@kotetu358
貴方は当時を生きて見て来たんですか?

@mahitokiyohara6993
  @kotetu358 
何でもありですね。

@user-qg7oc5bt5f
良いですネ。居たんですネ、知っている人が。昔は壱与と書いて「とよ」と訓じたタワケもいました。「臺」「壹」「壺」の篆文を比較すると解ると思うのですが・・・。

@user-ub4pg2wm9g
年齢が合わないんですよね。卑弥呼未亡人かもしれないのに結婚してないと断定するのは変でしょう。因みに壱与と尉仇台の妻となった公孫度の娘の外この辺りの時代・地域で宗女とされる女性はいるんでしょうか⋯。

@katumoku10
 @user-qg7oc5bt5f   イヨはひろみの嫁さんと愛媛県くらいですが、日本の古代史にはトヨに因む重要な神様、地名などが数多く登場しますよ。ヤマイチコクなど存在しません。邪馬台国には意味があります。なぜ臺を壱と書いたのか理由があります。詳しくは「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」を参照してください(;^ω^)

@katumoku10
 @user-ub4pg2wm9g  さん 卑弥呼も台与もムナカタ海人族の姫巫女ですので、台与は卑弥呼の宗女で間違いないのですよ。縄文系の人々が営んだ唐古・鍵遺跡の絵画土器に描かれていますが、姫巫女と巫(かんなぎ)のペアで部族をまとめていました。魏志倭人伝にも登場します。卑弥呼の父は正始四年に魏に朝貢した伊殸耆だったのです。官位を貰う前に現地で死亡したようです。伊は聖職者を意味し、巫女が憑依して口寄せした太陽神の言葉の意味を理解し、人々に声で伝えるシャーマン王がイセと呼ばれていたと推理しました。耆は老人を意味します。これが卑弥呼の鬼道の正体です。台与も姫巫女です。縄文系の琉球古神道にも残っていましたよ。詳細は「卑弥呼の鬼道とは?」を参照してください(;^ω^)

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富雄丸山古墳に何故葬られたのか?(@_@)?

2024-04-21 09:37:02 | 古代史

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#2024-04-18 12:24:16に記事にしましたが、その後に直ぐに次の記事をアップしたので、あまり見られていないようなので、再度アップしました。よろしければご覧ください(;^ω^)。

#興味ある富雄丸山古墳の被葬者について記紀の神武東征神話から推理している動画を見つけましたが、神武天皇は本当の初代天皇の虚像ですので、私見をコメントしました。さらに日本書紀に隠された二人の天皇について推論しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)


【富雄丸山古墳】古墳の主は誰?空白の4世紀解明へ!【1600年前の真実】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】@YouTube 2024.4.16

00:00 オープニング
00:55 富雄丸山古墳で相次ぐ国宝級の大発見!
04:28 未盗掘の木棺から青銅鏡り堅櫛を発見!
09:36 富雄川流域は長髄彦の支配地だった!?
13:55  古代ヤマト王権「水銀朱」をめぐる錬金術


多くの皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っていますが、日本書紀が成立したのは天武天皇崩御の34年後です。時の権力者は藤原不比等でした。妃の鵜野讃良(持統天皇とされたが実は即位していないと推理)と組んで天武天皇の優秀な皇子たちを排除して、皇位を簒奪して権力を握ったのです。その悪事を隠し、3世紀の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の勢力を抑え、自らの祖神を活躍させる神話まで創作し、天皇家すら貶めて藤原氏の権力の正統性を主張するために創った勝者藤原氏の歴史書だったのですよ。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、実は9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出してきたものです。正史にも古事記の記録がないし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。人長の創作なのですが、天皇の歴史書だと思い込んでいるので気づけないのです。

古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露するための暗号書だったのです。

建国の史実から古事記の暗号を解くと空白の4世紀から倭の五王の時代が解明できました。初代天皇は大国主(龍神トビヒコ、武内宿禰、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦)と女王台与(記紀の神功皇后のモデル、近江・北陸を拠点とするムナカタ族の姫巫女)の子の応神天皇です。狗奴国ヤマト勢に殺された両親の鎮魂のために纏向に呼ばれたヤマトの初代祭祀王(崇神天皇紀の大田田根子)です。神武天皇は史実を誤魔化すために創作された初代応神天皇の虚像です。

富雄丸山古墳の被葬者は、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇として即位していた)と推理しました。母が卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)の弟赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)の娘宮主宅媛なのです。



オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され皇位を奪われたので、和邇氏の支配地でひっそりと葬られたのです。富雄の地名はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山の丸は和邇ですので和邇氏の墓を意味します。卑弥呼も弟赤坂比古も父先代赤坂比古もすべて巨大円墳に葬られています。

仁徳天皇の母仲姫命は記紀では景行天皇皇曾孫ですが、景行天皇のモデルの尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、ヤマトタケルのモデル)の子孫です。卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)と同じニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者)の子孫です。大和盆地は大国主傘下の敵対勢力ばかりなので、ニギハヤヒ大王に所縁の氏族の拠点の河内・和泉で即位した模様です。詳しくは「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。和爾氏を隠さねばならない理由も分かりました。これが日本書紀のメインテーマだったのです。長々とお邪魔しました(#^.^#) 


日本建国の史実は247年の卑弥呼の死後に倭国追討軍の主将尾張王乎止与命(ニギハヤヒ大王の子孫)が狗奴国を裏切って倭国王に立ったので、それに不満のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(豊岡市久久比神社祭神久々遅彦、最後の奴国王スサノヲの子孫、先代は戦死と推理)と内戦になりました。久々遅彦は卑弥呼の弟赤坂比古が助太刀して尾張王を討ち、内戦に勝利し、狗奴国を裏切って日本列島の大半を支配したので記紀神話で大国主命と呼ばれました。父を殺された尾張王建稲種命(記紀神話のタケミカズチ)が父の敵討ちで大国主・台与そして赤坂比古を討ち、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)が日本を統一しました。



しかし、狗奴国の後ろ盾だったと推理した孫呉が280年に西晋に滅ぼされたので、女王台与の倭国を滅ぼしたために西晋に追討されることを怖れました。大国主と台与の祟りと考えた卑弥弓呼大王は二人の子を鎮魂のために纏向に呼んで祭祀王とし、国名もヤマト(邪馬台国)としたのです。これが初代応神天皇即位の史実だと推理しました。

応神天皇は265年に生まれたと古事記の崩年干支から推理したました。父の大国主は247年頃に13歳の台与を外交上卑弥呼の後継の女王とし、その後妃としましたので、応神天皇は末子ではないかと考えられます。兄が戦死していなければいたはずですが記録は残っていないようです。

卑弥弓呼大王は大国主系氏族との融和を図るために、応神天皇の妃として尾張王建稲種命の子尾綱根命の三人姉妹を嫁がせたと考えています。次女の仲姫命が295年に長男オオサザキ(仁徳天皇)を産みましたので、皇后とされ、オオサザキを世継ぎと決めたのだと推理しました。長女高城入姫命も同時に輿入れしたと思いますが、日本書紀は仲姫命が長女よりもひと月後に妃になったとしています。応神天皇崩御後に反乱を起こす大山守命を産んでいます。三女弟姫命は4人の皇女を産んでいますが、皇子はいませんでした。

弥生時代の大和盆地の拠点集落の唐古・鍵遺跡の出土品から見て、大国主の配下の縄文系ムナカタ族が開発したと推理できますので、ヤマトの大王となった応神天皇の父の大国主の一族に大和盆地を支配させたと推理しました。大和盆地北部を支配地とする和邇氏は卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)の娘宮主宅媛を入内させて299年に菟道稚郎子が生まれたと考えました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」参照)。



崇神天皇は日本書紀では辛卯年崩御とありますので紀元前30年という計算になりますが、崇神天皇のモデル卑弥弓呼大王の崩御は、3世紀末か4世紀初頭と考えられますので、古事記の戌寅年とすると318年が正しいと考えられます。天理市柳本町の全長250mの前方後円墳「行燈山古墳」に葬られたと考えています。



応神天皇は334年に崩御したと推理していますが、「真の応神天皇陵を推理する!」で述べたとおり、日本書紀で景行天皇陵とされた全長300mの巨大前方後円墳「渋谷向山古墳」だと推理しています。景行天皇とされた建稲種命の墓は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」で推理しましたが、大和盆地では天理市の全長183mの前方後方墳「西山古墳」と推理しています。後方部の中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をしていますので分かります。

宇治天皇が即位すると、母方の和邇氏が隆盛になり、卑弥呼に所縁の豊前地方や倭国大乱期に一族が住んだ肥後などを支配し、さらに卑弥呼の弟赤坂比古が殺された恨みから尾張王の領土まで侵入した模様なので(注)、尾張王の一族がオオサザキ(仁徳天皇)を立て和邇氏と対立し、宇治天皇を暗殺したと推理しました。仁徳天皇は敵対勢力の多い大和盆地を出て、元々ニギハヤヒ大王の一族が移り住んだ河内・和泉を拠点としました。仁徳天皇が崩御すると対立する両勢力の和解のために宇治天皇の妹八田皇女の子住吉仲津比古が住吉(すみのえ)天皇として即位しました。ところが、高句麗が半島南部の百済・任那・新羅を圧迫するようになり、倭国が鉄資源を確保するために半島南部で高句麗と対立するようになります。新羅に縁のある和邇氏が主導権を取り戻し、半島を支援するために王権強化のために、物部・尾張のニギハヤヒ大王系の氏族を締め付けた模様です。『晋書』安帝紀・『太平御覧』に413年に東晋の安帝に貢献した記録がありますが住吉天皇の事績と考えられます。好太王碑に半島での高句麗と倭国の抗争の模様が以下のとおり記されています。

百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済や新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した[9]。
— 好太王碑
[9]野呂肖生・笠原一男『史料による日本史』山川出版社、2007年1月1日、4-5頁。ISBN 978-4-634-02023-8。


新羅の源流の辰韓時代には奴国大王スサノヲをモデルとする脱解王の一族が支配していましたが、新羅も百済ももとは高句麗と同じ扶余族です。「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で述べたように、元々は楚人(シナ人系O2)や倭人(O-47z)の集団の濊(かい)人が出自と考えています。恐らく高句麗は楚人が扶余から分裂し、北東アジアでツングース系の人々と共に活動した騎馬民族の集団ではないかと考えています。

(注)名古屋市南区鳥栖は卑弥呼の父赤坂比古の支配した佐賀県鳥栖市と同じ地名で、神明社(鳥栖)の多数の祭神の中に五男三女神(ごなんさんじょしん)がありますので、和邇氏の祖神である宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼を祀っていると考えられます。地元ではこれを誤魔化すために「とりす」と呼んでいます。

また、『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社のひとつ名古屋市名東区和爾良神社(わにらじんじゃ)で応神天皇時代に百済から渡来し、千字文を伝え、菟道稚郎子の家庭教師となったとされる王仁吉師(わにきし)を祀っています(王仁吉師は架空の人物という説が有力です)。尾張王を殺した和邇氏が良いという名前の神社ですが、地元では尾張王が仇討ちしたのだから、当時の尾張のトレードマークの「かに」の尾張王が良いという意味で「かにらじんや」と呼んでいると推理しました。正解は論社の一つ長久手市「景行天皇社」だと推理しています。(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

和爾氏は藤原氏によって没落させられて、大和盆地の領地を奪われ、春日大社に尾張王建稲種命である国譲り神話の英雄タケミカズチとともに比売神を祀っています。天児屋根命の妻で天照大御神という説まであるようですが、卑弥呼のことでしょう!藤原氏は徹底的に隠した尾張王や卑弥呼の祟りを怖れ、ゴメンナサイという気持ちで祀っていたのでしょうね(;´Д`)

【関連記事】

空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その3)


【刮目天の古代史】目からウロコの大発見?
6.日本建国の謎
②景行天皇の九州遠征の史実は、尾張王建稲種命の父の仇討だった
④狗奴国がヤマトになったのは大国主の祟りだった

【発見!】卑弥呼の墓(^_-)-☆


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【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎

2024-04-19 20:33:55 | 古代史
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#2020-05-16 16:39:32に改訂しましたが、図のリンクが切れているなど、若干見直しました。よろしければまたお付き合いください(;^ω^)

#2017-07-12 09:40:16 に掲載した記事に図と本文を修正して改訂しました。


<世界遺産>福岡「沖ノ島」登録決定 構成資産8件一括で
2017年07月09日 18:11 毎日新聞

 ◇ユネスコの世界遺産委 国内で文化遺産17件の計21件に

 ポーランドのクラクフで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は9日、福岡県の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」を世界文化遺産に登録することを決めた。ユネスコの諮問機関は、日本政府が推薦した構成資産8件のうち4件を除外するよう勧告したが、逆転で一括登録が認められた。これで国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。

 宗像市の沖約60キロに浮かぶ沖ノ島は、4〜9世紀に航海の安全と大陸との交流の成功を祈願する祭祀(さいし)が営まれ、その跡がほぼ手つかずで残る。戦後の学術調査で大陸からもたらされた銅鏡や武器、装身具などの奉献品約8万点が出土し、全て国宝に指定された。宝物の多彩さから「海の正倉院」と呼ばれる。島そのものが神体とされ、立ち入りは原則禁止されている。

 ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)は今年5月、沖ノ島を「古代祭祀の記録を保存する類いまれな収蔵庫」と評価し、周辺の3岩礁「小屋島」「御門(みかど)柱」「天狗(てんぐ)岩」と合わせた「宗像大社沖津宮(おきつみや)」を世界文化遺産に登録するよう勧告した。

 しかし、沖ノ島を望む大島にある宗像大社の「中津宮」や九州本土にある「辺津(へつ)宮」、祭祀を担った豪族の墓とされる「新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群」など、古代から現代まで続く沖ノ島の信仰を裏付ける4件は「世界的な価値は認められない」として除外を求めた。

 勧告を受け、文化庁や福岡県などの地元自治体は「宗像大社は3宮で一つで、考古学的な価値と信仰の価値は不可分」と訴え、世界遺産委の21の委員国に8件での登録を粘り強く要望した。その結果、委員国から信仰の価値を評価する意見が相次ぎ、一括登録となった。

 世界遺産を巡っては、富士山が2013年に世界文化遺産に登録された際にも、イコモスが構成資産の三保松原の除外を勧告し、日本政府が再度説明して三保松原も含めて登録された。【伊澤拓也


日本関係者「うれしさで泣きそう」=逆転登録に満面の笑み―世界遺産
(時事通信) 07月09日 20:05

兎に角、全部認められて本当によかった(●^o^●)

沖ノ島は下の図にある周囲4kmほどの孤島で、「縄文前期以降、ほぼどの時代の遺物も少量ながら発見されてはいるが、それらは漁労活動や航海の途中にたちよった程度のもので、とりたてて祭祀遺跡はのこしていない。これにたいして、目を見張るような祭祀遺跡物は四世紀ごろから急に目立ちだし、五~六世紀の奉献品が豪華で、遣唐使派遣の中止される九世紀末までつづく。」(「列島の地域文化」日本の古代2、森浩一編、中央公論社、1989、p.41 )


「魏志倭人伝」で記述された図中の島伝いの「倭人伝ルート」が厳しい玄界灘を渡る半島へのメイン・ルートだ。当時の手漕ぎの刳り舟の時代に、何故、より厳しい神湊から沖ノ島経由で半島に行く「海北道中」ルートが使用されたのか。何故、4世紀から大和朝廷が海人集団の長である宗像君に沖ノ島祭祀をさせたのかよく分かっていない。4世紀後半以降の解明は、「風土記」や「日本書紀」などによってある程度進んでいるが、それらの文献や伝承の内容が編纂当時の政治権力などによりかなり歪曲・ねつ造されているという認識の下で導いた、通説と異なる刮目天の仮説を検証しながら謎を解明しよう。

縄文時代には、玄界灘が穏やかな6月から7月に産卵や子育てで沖ノ島に上陸した二ホンアシカを捕まえるために、主に北九州沿岸部の人々が来ていたことが知られている(「宗像大社・古代祭祀の原風景」正木晃、NHK Books1119, pp.23-31)。

弥生時代には中期に製作された瀬戸内海系土器片がわずかに発見されるが、西暦50年頃から出土量が増え、遠賀川流域から周防灘の地域の特徴を持つ土器片、対馬・壱岐で多く見られる土器片や朝鮮半島で発見される無文土器片も出土している。しかし、渡航目的はよく分かっておらず、縄文時代からの推測でアシカ猟と考えるのが自然であるが、それを裏付ける骨や貝殻の綿密な調査は行われていなかったようだ。(前掲書, pp.31-32)。

沖ノ島の祭祀は上記のとおり4世紀後半から5世紀までは巨岩の上で行われ、6,7世紀は岩陰で、7世紀後半は半岩陰・半露天、祭祀が終了する9世紀末か10世紀初頭までは露天祭祀だった。(前掲書, pp.35-39)。

しかし、世界遺産に登録されて沖ノ島や本土側ムナカタ地区の遺跡調査が進み、弥生時代の様子がかなり見えてきた。その内容については別の機会に詳しく検証したい。

さて、宗像君が奉斎する宗像三女神(タゴリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ)はアマテラスとスサノヲの誓約(ウケイ)で生まれたとして「古事記」も「日本書紀」も共通しているが、下の表のとおり、その伝承はバラバラで、何が本当なのかを分からなくしているのが面白い。特に、「日本書紀」は何かを必死に隠そうとしているとみて取れる。



宗像三女神は、元々はムナカタ海人族が航海の安全と豊漁を祈願するために祀った女神であり、半島南部の東側では海娘神などと呼ばれ、特に若い未婚の女性神が祀られていることが多いようだ(「玄界灘の島々」任藤権、海と列島文化第3巻、小学館、1990,pp.124-125)。同書によれば半島南部の西側では男神が祀られることが多いとある。那の津(博多)で住吉三神を祀る奴国王族(注1)や志賀島でワタツミ三神を祀る安曇族と(注2)、三女神を祀るムナカタ海人族(鐘崎海人)とは同じ海人族でも系統が少し違うようだ。



鐘崎海人は「和名抄(倭名類聚抄)」にある筑前宗像郡海部(あま)郷に比定される鐘崎や中津宮のある大島に住む海女たちで、アワビなどを獲り、時には壱岐・対馬や響灘から山陰の海岸や北陸の輪島などに移動して漁労採集を行っていた模様だ(同書、伊藤彰,pp.393-395)。大島の海女は鳥取市青谷町の夏泊を枝村にしていたが、記録は近世初頭からとなっている。弥生時代後期の大量殺人事件があった青谷上寺地遺跡の当時の北側の潟湖を挟んで北東の日本海側の漁村だ。多分、大島海人は弥生時代以前から青谷上寺地遺跡の集落に出入りし、交易していたと思われる。なお、通説では二世紀の倭国大乱の時代に無差別大量殺戮事件があったとしているが間違いなのだ。3世紀後半の日本建国時代の裏切りの報復というのが真相だ(詳細は「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)」を参照)。

男性の海士(あま)・白水郎と呼ばれる海人族は、「魏志倭人伝」にも「倭の水人好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕え、文身(イレズミ)するも亦た以って大魚水禽を厭(おさ)えんとしてなり」とあるとおりだ(「倭国伝」藤堂明保ら、講談社学術文庫2010、p.96)。上で述べた奴国王配下の安曇族は江南出身の呉人がルーツだと考えているが、ムナカタ海人族は縄文時代から日本海沿岸部だけでなく、半島東部や、列島の太平洋側や沖縄まで活動範囲としていた縄文系海人族だと考えている。

ここで関裕二さんが指摘する「ムナカタ(宗像)の子はスミヨシ(住吉)でその子がウサ(宇佐)」という宗像大社の不思議な伝承がアタマをよぎる(「海峡を往還する神々」PHP文庫、p.188)。関さんは、住吉大神はスサノヲだと推理している。だとすればスサノヲはイザナギが父で、母はイザナミだからスサノヲの母伊弉冉尊(イザナミ)がムナカタの一族ということだ。

そしてウサは宇佐神宮の祭神応神天皇(ホンダワケ)だから、応神がスサノヲの子ではないので訳が分からなくなる。しかし、『宋史』「日本国」に記載された「王年代紀」からスサノヲは第17代奴国王伊弉諾尊(イザナギノミコト)の子で、107年に後漢に倭国王として朝貢した帥升(正しくは師升「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)」)らのクーデターによって殺された素戔嗚尊(第18代奴国王)だとつきとめているので、応神天皇は奴国王の直系の子孫ということなのだ。

【検証18】倭国大乱の痕跡だ!で述べたが、卑弥呼の死後にヤマト勢が倭国を討伐した第二次倭国大乱を「日本書紀」では仲哀天皇の熊襲征伐の話にしたと関祐二さんは見抜いた。



「日本書紀」では応神天皇は仲哀天皇(注3)と神功皇后の子ということになっているが、これも関裕二さんが指摘するとおり、住吉大神の神託を信じないために突然崩御した仲哀天皇のもがりで、神功皇后と住吉大神に夫婦の密事があったという伝承が住吉大社にあり、その席に皇后と一緒に居たのは武内宿禰であるから、武内宿禰が住吉大神=スサノヲの血を引く王で、その子が応神天皇なのだ。実際にあったということではなく、仲哀天皇が応神天皇の本当の父でないことを暴露する伝承なのだ。



刮目天はさらに、スサノヲ大王の跡を継いで吉備を平定した天照大神尊ニギハヤヒの直系の狗(旧)奴国王卑弥弓呼が倭国討伐のために纏向に旧奴国王族を集めたと考えた。集まった王族の中の最大勢力は纏向の外来系土器の半分を占める東海(尾張)の王だと分かる。「先代旧事本紀」によれば尾張氏はニギハヤを祖とする物部氏と同族なのだ。狗奴国王は物部氏の祖で「日本書紀」の崇神天皇のモデルだ。「日本書紀」では同時代の人物を異なる時代に登場させたり、一人の人物を時代の異なる似たような人物に事績を分けたりして歴史を改ざんしているのも関祐二さんが指摘している。

神功皇后は近江・越を支配する女王であり、邪馬台国の卑弥呼の跡を継いだ宗女台与(トヨ)のことだというのが関裕二さんの女王台与=神功皇后説だ。だが、台与は13歳で女王に立てられているので、女王というよりも卑弥呼と同じ近江・北陸を根拠地とするムナカタ海人族の姫巫女と考えている。武内宿禰は「魏志倭人伝」では狗奴国の官として王よりも先に紹介された最有力者の狗古智卑狗だと考えた。台与と行動を共にした出雲・丹波王だろう。東海の土器に次いで多いのが山陰・北陸・近江なのだ。倭国征討軍の首将尾張王(仲哀天皇)が卑弥呼の後に倭王として立ったので、それに服さず内戦の結果、尾張王(仲哀天皇)を殺害して、台与を女王として立て、倭国を支配した人物だ。卑弥呼の支配した九州・四国・中国地方西部に加えて日本海沿岸部など列島の大半を版図にしたので、後世に大国主命(大己貴命オオナムチノミコト)呼ばれた人物なのだ。後にヤマトに滅ぼされる史実が大国主の国譲り神話なのだ。

ということで卑弥呼は女王台与と同じムナカタ海人族の姫巫女であり、宗像を根拠地とする縄文系海人族が祀った海娘神が宗像祭祀の原形だろう。

以前に述べたように「日本書紀」編纂当時の権力者である藤原不比等と持統天皇はヤマト王権成立の真相を隠すために、神武天皇の話を創作した。神武は鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)と玉依姫の子であり、ウガヤフキアエズは彦火火出見尊(山幸彦)と海神の娘である豊玉姫の子で、玉依姫は豊玉姫の妹、彦火火出見尊は天照大神(アマテラス)の孫の瓊々杵尊(ニニギ)と大山祇神の娘である木之花開耶(コノハナサクヤ)姫の子であるとしている。瓊々杵尊・彦火火出見尊・鸕鶿草葺不合尊を日向三代の神話としている。

しかし、本当の天照大御神は上で述べたように、神武天皇の前に天孫降臨していた饒速日尊だと考えている。物部氏族伝承の「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)籠神社(このじんじゃ)宮司家の海部氏系図などから天照大御神が本当は男性神であり、第18代奴国王素戔嗚尊の跡を継いだ天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(ニギハヤヒ)だと考えている。前述のとおりスサノヲが追放された後、吉備を平定して力を蓄えた第19代奴国王天照大神尊が実在人物で天皇家の皇祖神なのだ。

海北道中(沖ノ島ルート)で半島南部の鉄素材を宗像を根拠地とするムナカタ系海人族が出雲・吉備などの旧奴国王族に供給していたので、貴重な鉄製工具を用いて日本海沿岸部やヤマトや東国などが開発された。首長間の繋がりに依ったので首長の権力は増大するようになった。それがこの時期に主として山陰から越の日本海沿岸部にかけて最初に盛行した四隅突出型墳丘墳(注5)だ。近江から東海、東国にかけて前方後方墳も作られるようになった。さらに吉備から纏向に移った天照大神尊ニギハヤヒを皇祖神とするヤマト王権は各地の首長に前方後円墳を作らせた。祭祀の形式を同じくすることで連合体としてヤマト政権を作っていったのだ。古墳時代のはじまりだ。

したがって、ヤマト王権が成立した三世紀末以降に行われた沖ノ島祭祀は、海北道中ルートで鉄素材を供給したムナカタ海人族の当時の功績を称えるとともに、その後に裏切り者としてヤマト王権が追討した宗像の姫巫女卑弥呼のヤマト王権への祟りを抑えるために始められたと推理できる。

またヤマト王権が次に追討した悲劇の女王台与(トヨ)の呪いを封じる目的で、ヤマト王権を発展させた神のような立派な功績を残した神功皇后という伝承を創作し、宇佐八幡神宮をはじめとしてゆかりの各地で祀った(注6)。

同様に、ヤマト王権は大国主の版図を奪ったので大国主命の祟りを封じる目的で「雲太・和二・京三」で知られるとおり、日本一豪壮な出雲大社を作った。国譲り神話では大国主命の息子タケミナカタが藤原氏の遠祖タケイカズチに力比べで負けて、諏訪に逼塞することで許された話も創作した。その名前からもタケミナカタの母親ヌナカワヒメ(「先代旧事本紀」の高志沼河姫)がムナカタ海人族の姫巫女台与のことだと分かるのだ。だがタケミナカタが実在人物かどうかは分からない。

その後の卑弥呼と宗女トヨの呪いを封じ込め、半島政策(注7)や遣唐使派遣の事業の成功を祈願して、道主貴(ミチヌシノムチ)とする宗像三女神として、奥津宮・中津宮・辺津宮において宗像氏に祀らせたというのが真相だろう。全国の宗像神社で祀られる宗像三女神のうち、タゴリ姫とタギツ姫が大国主命の妃という神婚伝承があるので二人の姫が女王台与と推理できる(注8)。そうすると三女神の卑弥呼は厳島神社の祭神イチキシマ姫に対応することになる。つまり卑弥呼は七福神のひとり弁財天だったのだ。

繰り返しになるが、奴国の司祭だった師升が奴国大王スサノヲを殺害したことから始まり、師升の子孫の伊都国男王が海北道中ルートを抑えるムナカタ海人族を懐柔して、倭女王卑弥呼が共立された。卑弥呼は親魏倭王としてヤマト王権狗奴国と対立し、狗奴国が派遣した討伐軍のスサノヲ(大国主命=武内宿彌)と台与(トヨ=神功皇后)がヤマトを裏切って北九州から日本海沿岸部を支配する倭国を作った。なので、再度ヤマト勢が倭国を滅ぼして大倭国(大和国)を作ったという厄介な事実を隠す目的で、様々な伝承を創作したのだと考えている。

何故、そんな史実と異なる伝承を残さなければならないのかという疑問が起きる!それはヤマト王権に怨みを抱いて亡くなった高貴な人々が鬼神となって国家に災いを起こすと信じられていたからだ。鬼神の呪いを封じるために神社で祭神として祀った!そして天変地異が発生する度に祟りを鎮める祈祷を行った。

それでも天変地異は発生するので、皇祖神スサノヲ・大国主に繋がる蘇我氏が最初に仏教を導入したようだ。その後、空海がシナから直接輸入した真言密教が霊験があると信じられた!つまり神道も仏教も全て怨霊の呪いを封じて国家を鎮護する目的で導入されたと言うのが真相だった!

科学技術が発展した現代日本では最早不要だと考える人がいるかもしれない!しかし、科学で解明できないものもある!火山列島の日本は自然災害が頻発する!自然災害などから復興するには国民が力をあわせ、助け合わないと生き残れない!

そのためには長い歴史とその中で培われた伝統・文化を大切にする日本民族でまとまることが重要だ!

文化の異なる外国人が修羅場でどういう振る舞いをするかよく知られていることだ。
だから日本では多文化共生は素晴らしいなどという、誤魔化しのきれい事は通用しない自然環境なのだ。

そういう日本国民の統合の象徴になれるのは国民を大御宝とする天皇陛下とご皇室以外にない!

日本人は古代からそのことをよく理解していたから、王朝交代や易姓革命などは決して起こらなかった!

皇祖神に最も近い血筋の男系男子の天皇陛下だけが国家国民のために天変地異を起こす怨霊を抑える霊力があると古来から信じられてきたのだ。ひたすら国家の安泰と国民の安寧をご祈祷して頂く天皇陛下のご存在こそ人類最高の叡智だと思う!

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(注1)住吉三神はスサノヲを指すので、旧奴国王族の末裔であるヤマト王権成立後に創祀されたものと考えている。また、『隋書』「倭国」に「倭王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩鶏弥(大王、おおきみ)というもの、使いを遣わして闕に詣(いた)らしむ。」とある。『宋史』「日本国」に日本の僧が献上した「王年代紀」が以下のとおり書かれている。「初めの主は天御中主(アメノミナカヌシ)と号す。次は天村雲尊(アメノムラクモノミコト)と日(い)う、其の後は皆「尊」を以って号と為す。次は天八重雲尊(アメノヤエクモノミコト)、次は天弥聞尊(アメノニニギノミコト)、・・・、次は彦瀲尊(ヒコナギサノミコト)、凡そ二十三世、並びに筑紫日向宮に都す。彦瀲尊の第4子は神武天皇と号し、筑紫の宮自り大和州樫原宮に入居す・・・」とあり、倭王が天氏(アメウジ)であると分かる。天は海を意味し、海神龍王(龍蛇神)を祀る海人族であると考えている。筑紫日向宮は、博多西部の早良平野と伊都国のあった糸島との間に高祖山日向峠があり、一時的にその付近を王宮としていたのかも知れない。ただし、王宮は固定ではなく、弥生時代中期初頭は吉武・高木遺跡、中期中頃に須玖岡本遺跡に置かれた模様。後期には那の津と須玖岡本遺跡の間に直線道路が建設されて、さらに運河も併設されている(那珂遺跡)。倭国と呼ばれた奴国の最大版図は福岡平野・糸島平野・筑紫平野までだろう。佐賀平野は徐福の一族が支配していたかも知れない。記紀では奴国が支配した倭国を高天原と呼び、故地を懐かしんで大和盆地にも同じ位置関係の同一地名を採用している。その旧奴国を徐福が連れて来た楽師の子孫の司祭帥升が乗っ取り、その子孫がムナカタ海人族を懐柔して邪馬台国連合倭国を作った。伊都国で内政・外交の実権を男王が握っていたと考えている。

(注2)安曇族は海人族の中で最も広く日本列島を動き回り、水田稲作の適地や鉱物を探索したと考えている。日本各地にゆかりの地名を残している(例えば安曇野、渥美半島や滋賀など多数)。邪馬台国の安心院町も元は安曇族の拓いた土地だ。ワタツミ三神は海神「豊玉彦」・「竜王」と呼ばれているので、歴代奴国王のことだと思われるから、安曇族は元々奴国王族の配下の海人族で江南をルーツとする呉の漁労稲作の人々と考えている。

(注3)仲哀天皇は『日本書紀』では父の日本武尊(ヤマトタケル)の死後38年も経ってから生まれたことになる不自然さもあって、実在には疑いが持たれている(Wiki「仲哀天皇」より)。しかし、神武天皇に逆らってニギハヤヒに殺されたナガスネヒコがトヨ(神功皇后)とスサノヲ(武内宿禰)に殺された足仲彦(たらしなかつひこ=仲哀天皇)の跡を継いだ尾張王であると考えるので、ヤマトタケルの子のヤマトの大王ではないが実在の尾張王だと考えている。

(注4)「魏志倭人伝」では「狗奴国」と蔑称され、卑弥呼に敵対する男王が「卑弥弓呼(ヒミヒコ)」で官は「狗古智卑狗(クコチヒコ)とされる。その男王が「先代旧事本紀」にあるニギハヤヒの子ウマシマジで「日本書紀」の第10代崇神天皇だ。「狗古智卑狗」は熊本の菊池彦ではなく冨来隆氏が宇佐神宮の摂社の伝承から指摘した「々遅命(ククチノミコト=武内宿禰)」と考えている。武内宿禰が大国主命ということになる。

(注5)これが四隅突出型墳丘墓だ!館内に展示された四隅突出型墳丘墓の巨大ジオラマ。出雲国風土記の国引き神話の神がスサノヲの孫と推理した八束水臣津野神で大国主命の祖父だと推理した。詳しくは「銅鐸祭祀は何故、消えた?」参照。

(注6)6世紀から7世紀にかけて活躍した蘇我氏の一族の推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊、王都は神功皇后と仲哀天皇が倭国追討で落合った場所と同じ豊浦宮としている。日本各地に豊橋など豊のつく多く地名は倭の女王トヨにちなむものだ。貞観年間に大地震が発生すると大和朝廷は神功皇后の祟りと考え、各地のゆかりの神社で位階を追贈している。台与はムナカタ三女神の主神イチキシマヒメ以外の二女神としても祀られているようだ。

(注7)記紀では神功皇后の三韓征伐としているが、倭の五王の事跡を隠すために創られたと考えている。その時期は半島支配の正統性を主張するためにシナの官位を貰っていたので、冊封体制に組み込まれていた事実と帥升からトヨまでの倭国の歴史を消すために創作された。

(注8)宗像三女神についても、「古事記」には大国主命がタギリヒメを娶り、「播磨国風土記」ではオキツヒメは伊和大神(=大己貴=大国主命)が娶り、「先代旧事本紀」でもオオナムチが辺津宮の高津姫神を娶ったという神婚伝承が残されている。「出雲国風土記」でも宗像姫神と大国主命の子が賀茂大神(アジスキタカヒコネ)だとして、「新撰姓氏録」で宗像氏は出雲神大国主6世孫の吾田片隅命(アタカタスミノミコト)としている。


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古墳人って何なのさ?(;´Д`)

2024-04-17 00:00:02 | 古代史

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#2022-11-21 07:16:47に記事にしましたが、濊人(「わいじん」ではなく、本当は「かいじん」)が縄文人系(D-M55)と考えていましたが、塚田敬章「堂谿氏(秦氏の源流)」  2014.10.10 によれば戦国時代に秦に滅ぼされた韓や楚の人々(シナ人系O2)で、その中には江南系の倭人(O-47z)が居たと分かりましたので改訂しました。よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)

#興味ある話題がYouTubeに出ていたのでコメントしました。そしたらある方から反論がありましたので、お返事しました。お付き合いください(#^.^#)



刮目天
大変興味ある話題を上手に説明していただき、ありがとうございます。ここで出てくる縄文人・弥生人・古墳人という分類はあまりよくないと思います。例えば古墳人のルーツってすぐには分かりません。古墳時代の日本列島に住んだ人々という定義であれば、もっとルーツが分かる名称で議論すべきでしょう。弥生人も同様です。古墳人というのは、それまでに流入してきた人々などの混血ですから、ほとんど現代日本人のことですよ。

縄文時代に列島に住んだ縄文人もルーツの違う人々が入ってきています。①の縄文人と弥生時代までに②北東アジア人が入ってきて混血したと説明されていますが、①の縄文人の父系のルーツに列島固有のD-M55だけではなく、北方アジアから来たC2が3%、同様にCーM8は2%で、三内丸山遺跡を営んだと考えられる遼河人Nは1%以下というのがわかります。女性についてはmtDNA解析から各種渡来系が入って来たと分かります。(注1)

③の東アジアから来た人々が倭人(O-47z)と呼ばれ、水田稲作を半島南部を経由して列島に持ち込んだことが分かっています。現在の韓国人の男性のルーツは紀元前3世紀の中国戦国時代の戦争難民のシナ人(O2)が約40%、紀元前11世紀に遼東半島から平壌辺りに展開した殷(商)人系(箕子朝鮮)も約33%ですので、半島の南部は紀元前11世紀ごろから倭人と縄文人が住んでおり、そこで混血もしていたはずです。

詳しくは拙ブログ「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」「日本列島に集まった人々とは?」に詳しく解説しましたので、是非ご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )



魔神NAO
それ、ハントー人の説では?
DNAで否定されてるはず。

いや混ざってるな。
ハントー人の説と日本人の説
混ぜこちゃになってます。

ハントー人はワイ族えべんきですよ。
確かに後から来た中国の人が混ざってますが。
紀元前の時のは違いますよ。

後ルートは
全く違いますよ。
DNAで否定されています。


刮目天
@魔神NAO さん 「ハントー人はワイ族えべんきですよ。」というのは間違ってますよ。上であげた拙ブログをご参照ください。濊(カイ)人は古くから半島北部や東部に来ていたようですが、文献に出てくるのは3世紀の三国志でしょう。彼らはシナ人や江南の倭人と同じ祖先をもつ人々で、半島北部で箕子朝鮮の人々(殷(商)人系O1b2からOー47zを除いた)と同様に陸稲を栽培していたようです(注2)(2024.4.16 赤字訂正)

半島の東海岸や南部の沿岸部には列島から縄文海人ムナカタ族が来てました。上で述べた江南の倭人と接触し、多分混血していたと思います。江南系・縄文系の倭人が列島に水田稲作を持ち込んだということです。ですから、列島と半島とどっちが先だということはあんまり問題にならないのです。どちらも倭人系ですからね。

確かに後から来た中国の人が混ざってますが。」はそのとおりですが、上の図から朝鮮民族の縄文人系D-M55と倭人O-47zは共に4%しかいませんから、男性は皆殺しにあったという説があります。しかし、4世紀ごろから半島西南部から南部に居た百済・加羅の倭人が半島東部の新羅(シナ人系や殷(商)人系)の人々と対立し、白村江の戦い(663年)で唐との連合軍に敗けて、半島に居たほとんどの倭人が日本列島に移住したということでしょう)。現代朝鮮民族の人々の顔形が現代日本人とよく似ていますが、それまでに半島内のシナ人や殷(商)人系の人々と倭人が混血していたからと考えられます。詳しくは拙ブログ「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」を参照してください(#^.^#)(2024.4.16 赤字改訂)

【関連記事】
古墳人が現代日本人に近いの?

(2021年9月21日 金沢大学 > 研究トピック > パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造 より)


(注1)上の図の縄文人・弥生人の構成もおかしいということが、父系のルーツが分かるYーDNAや母系のルーツが分かるmtDNA分析結果からも分かります。また古墳時代に突然、東アジア祖先の人々が急激に増えているという金沢大学の研究成果はサンプル数が十分ではないと思います(^_-)-☆(2024.4.16 赤字追加)


(注2)濊人(かいじん)はシナ人から酷い意味の漢字の名前にされましたが、
半島の古代史だ!(漢四郡まで)で以下のように説明したとおり、北東アジア人系(C2)の人々ではなく、シナ人系(O2)や倭人系の人々のようです。扶余族も濊人の一部が半島北東部で分かれた人々で、更に扶余から高句麗と百済が分かれていますので、どちらも北方アジア人系(C2)ではなくシナ人系O2と倭人系(O-47z)でした。特に、百済は倭人系ですので、4世紀から倭国(日本)が支援していたのです。ただ、半島内の新羅と百済の対立は、日本の中の新羅の源流の辰韓を支配したスサノヲ・大国主系勢力(和邇・息長)と百済と親密な関係のニギハヤヒ大王系勢力(物部・尾張)の権力闘争が大きく作用した結果だと考えています。両者の敵対関係の構造は3世紀後半の日本建国時代に生じた確執が原因だったようです。

②紀元前223年に楚が秦に滅ぼされ、紀元前221年に秦が統一を果たした。秦始皇帝は匈奴などの北方民族の侵入を防ぐために紀元前214年から万里の長城の建設を始めた。すでに銅・鉄の鉱山と優れた金属器の生産地とされていた堂谿(どうけい)の地を「」より得ていた呉の夫概呉王闔閭(こうりょ)の弟、初代呉王太伯の末裔、原始夏人系O1a)の一族は、紀元前四世紀には韓に属しても「楚」が滅ぶまで堂谿公となっていたが、その後長城建設に従事させられたようだ。紀元前210年に始皇帝が崩御すると、その後の混乱によって遼東に逃げて濊(かい)を建国した(楚人はシナ人系O2,熊をトーテムとする民族なので、檀君神話の人々)。後に前漢の武帝が東夷に進出すると、濊の主力(北扶余)は北に逃げ、解慕漱(かいぼそ)が先住民を吸収して扶余(北扶余)を建国したとの伝説がある。扶余の祖先は呉公子夫概という伝承がある(紀元前1世紀ころ高句麗が扶余から分かれた)。濊王之印を持つ。濊(東扶余)に属す堂谿出身の製鉄・冶金技術者はその場にとどまり鉄器の生産を行った。濊の一部(後の百済人)は馬韓に合流した。同様に倭人系(O-47z)の堂谿出身者は辰韓や弁辰の倭人と混ざって鉄器の生産に従事し、倭人を指導した。


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