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箸墓の被葬者は大国主の妃台与だよ!(#^.^#)

2024-05-05 08:06:00 | 古代史
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いい動画をありがとうございます。箸墓の被葬者は、御存じのとおり、『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記された大物主(大国主)の妻とされた人物ですので、卑弥呼の墓ではないと記紀が明言していますね。

この姫の名前の意味はヤマトとトビ(トビヒコとも呼ばれた大国主命)を恨んで何度も何度も唱える気の毒なお姫様ということで、史実をもとに作られた名前ですよ(^_-)-☆。

ちょっと長くなって恐縮ですが、以下の話です(;^ω^)

247年の卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ、和邇氏の祖神)の死後の内戦を勝利した大国主久々遅彦(豊岡市久久比神社祭神、奴国最後の王スサノヲの子孫、狗奴国の官狗古智卑狗)が外交上卑弥呼の宗女として同じムナカタ海人族の姫巫女台与を女王に立て、纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ、記紀の崇神天皇)を裏切って対立しました。日本列島の大半を支配した山陰・丹波を根拠地とするムナカタ族を束ねる王なので、記紀では出雲の大国主命と呼んだのです。最終的に大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)と台与(記紀の神功皇后)が狗奴国(旧奴国)勢に討たれて日本が統一されました。





しかし、280年に西晋に呉が滅ぼされると、台与を討った仕返しで狗奴国は追討されると恐れました。久々遅彦と台与の間の王子ホムダワケを祭祀王として呼び寄せて両親の鎮魂をさせました。記紀では崇神天皇紀の大田田根子の話です。そして狗奴国を卑弥呼・台与の後継国ということにして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼ぶことにし、父を桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で、母を箸墓で改葬しました。

応神天皇の父とされた仲哀天皇は、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、杜撰な作り話です。記紀で熊襲征伐のために九州遠征し、神託を疑ったために崩御したとされた仲哀天皇は倭国追討軍の大将の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、ニギハヤヒ大王の子孫)で、大国主勢に殺された人物です(九州最古級の前方後方墳の鳥栖市赤坂古墳で葬られたと推理しました)。

跡を継いだ尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が大国主・台与らを討って日本を統一した人物です(遠征の途中で戦死し沼津市高尾山古墳で葬られたと推理しています)。記紀で景行天皇の九州遠征の話になっています。崇神天皇四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話が3世紀後半の史実だったのです(倭国大乱から統一戦争までの詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。


(左クリックで拡大)


と言う訳で、たった13歳で大国主の妃にされ、最後はヤマトに殺された可哀そうなお姫様ですので、ヤマトとトビを恨んで、その名を何度も何度も唱えるお姫様という名前にされています。詳しくは「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」もご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

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