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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )

2021-11-27 19:23:30 | 古代史
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2018-06-17 00:54:34の記事ですが、この話も重要なのですがあまり読まれていないので、注記を追加して再度アップします。実は、(注2)と(注3)に書きましたが、古代史を塗り替えるようなとんでもないことがわかりました。とりあえず、最後までどうぞ!

藤原鎌足は百済王子の豊璋? 関裕二説

藤原鎌足が百済王子余豊璋だという説は当時の状況を考えると、謎が説明できていいかなと考えてます( ^)o(^ )

でも、もしも百済王の出自が自称、高句麗と同じ北方アジア系とするならば、現代日本人男性のY染色体を調べると、C2はわずか3%です。

*東アジアの民族の父系のルーツを整理して図にしましたのでご覧ください。

クリックで精細な図になります( ^)o(^ )

 (詳しい解説は、日本民族とその周辺民族の父系のルーツ! を参照してください)

この3%は平安時代に貴族としてかなりの荘園を所有し、あれ程勢力を張った藤原氏にしては少なすぎると思いますね(^_-)-☆

そうすると百済は馬韓の伯済国から出たとする説もあり、馬韓人ならば現代コリアン男性の1/3の殷(商)人系の可能性があります(実は、倭人と近い。でも現代コリアン男性の4割はシナ人系O2です)。しかし、これも現代日本人の中に8.4%ですから、やはりこれもちょっと少なすぎるような気も少しします(注1)。

そうすると現代日本人に1/4も居る倭人系であると考えるといいかも知れません。つまり藤原氏は倭人系の渡来人か?( ^)o(^ )

前から考えてますが、半島からの渡来人と言っても、663年に白村江で敗れて完全撤退するまで半島南部は倭人の勢力が結構強かったので、渡来人=倭人の可能性があります。(注2)。

つまり、百済人とか新羅人などは、必ずしも異民族とは限らずそこに住んでいた倭人を指すかも知れません。加羅の人々も(ほとんど倭人か)、562年に大加羅が新羅に滅ぼされ新羅人と呼ばれた可能性があります(注3)。

また日本の越(コシ)も、紀元前4世紀に越(エツ)が楚に滅ぼされて越人が日本に着たのであれば0.8%しか現代日本人男性に居ないのも少なすぎかも知れません(多分越の王族かも( ^)o(^ )と書きましたが、言い伝えでは越の王族は呉と同じ夏人でしたので間違い)。

日本に来た越人の大半は、越に居た江南の呉人(=倭人)という中田力説が良いようです(「日本古代史を科学する」PHP新書、pp.129-138)。彼らは紀元前463年に越に滅ぼされた呉の人ですが、同じ水田稲作・漁労民族ですから江南に残留した呉の人たちです。ちなみに越を滅ぼした楚の人は文化の異なる異民族です(注4)。

渡来人に対する見方を考えていただく話でした(^_-)-☆

(注1)その程度なのかもしれません。
でも、ルーツが倭人系でないとしても、千年以上日本の風土の中で日本人として暮らせば、日本人であることは変わりないと思います。たとえ、特別な文化をずっと継承していたとしても日本国民として長い間暮らせば日本人の考え方になっていますから、今更異民族として扱う理由もないでしょう。そんなこと言ったら倭人だって縄文人とは違う異民族ってことになってしまいますから。

弥生人が渡来人だというのは間違いですよ(;一_一)

主に、水田稲作文化や金属文化などを日本列島に持ってきた倭人(江南の呉の人々)と、もとから居た縄文人、そしてこれらの人々の混血が、弥生時代に居た日本人であって、それが弥生人ですよ(^_-)-☆

日本の中にアイヌ民族とか琉球民族が存在するなどありえません。関西人や関東人や九州人などと同じように、アイヌ人も沖縄人も同じ縄文系をベースとする日本民族で日本国民ですよ。反日国家の謀略に引っかかると、悲劇しかないでしょう。

一方で、現代の日本に文化の違う異民族を移民として入れると、そこにコロニーが出来上がって、日本の中に別の社会ができ、最後は独立を主張することも考えられますので、これも悲劇を生む可能性が出てきます。やはり、民族はそれぞれ独自の文化を持っているわけですから、生まれ育った場所で国家を作り、一緒に暮らすのが安心できると思いますね。(^_-)-☆

(注2)新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(龍王、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族卑弥呼と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏が祀っていた原八幡神は宗像女神卑弥呼です。

(注3)これも驚きの事実ですが、百済には二つあり、最初の百済は遼西(現在の河北省の一部と遼寧省の一部)に居り、伝説どおり、高句麗と同じツングース系扶余族でかなり強国で楽浪郡まで支配しました。しかし、六世紀初頭に滅び、馬韓の伯済国が百済を名乗ります。「日本書紀」で百済としたようですよ(坂田隆「古代の韓と日本」新泉社1996)。好太王碑(こうたいおうひ)では四世紀末ですから高句麗が討った楽浪郡の百済の残党という意味で百残と書かれています。その後の百済からの渡来人は倭人です。また後で詳しく説明したいと思っていますが、やっぱり、不比等は藤原氏の出自(伯済国の王族)を隠すのも大きな目的のひとつでした(^_-)-☆

(注4)楚の成立(Wiki「楚(春秋)」より)
楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説がある。楚の成立に関してはさまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。
北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。



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