刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本の歴史の始まりはこうだ(その7)

2021-10-10 00:22:28 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

さて、吉備を平定して旧奴国(狗奴国)を再興したニギハヤヒ大王(天照大神尊)はすでに一族(古代豪族物部氏・尾張氏の祖)を畿内や伊勢・東海方面に入植させていました。そこに、大活躍していたスサノヲ大王直系の王狗古智卑狗(久々遅彦)が戦死し、玄界灘を活動域とするムナカタ族の族長赤坂比古(古代豪族和邇氏の祖)の裏切りによって九州全体、中国西部、四国(伊予・土佐)が倭国側に着いてしまいました。後には四国全域と紀州までが倭国に加わったようです。

そのために狗奴国卑弥弓呼大王は、恨みのある師升の一族の倭国を滅ぼすことが簡単には出来なくなった上に、王都が吉備では危険となってしまったので、東に遷さざる得ない状況となりました。そこで東海や山陰・北陸などの旧奴国王族の力を結集して倭国を滅ぼそうと考え、王都を大和盆地に遷す計画をしました。

大和盆地は生駒山系によって西側からの攻撃を防ぐことが出来ます。また、強大な勢力が押し寄せても東側の山地から東海地方に逃げることも可能ですので、王都を作るには地政学的に絶好な場所です。また、すでに久々遅彦の部下のムナカタ族と同じ縄文系の人々が弥生中期から唐古・鍵遺跡などの集落を作っていたので、この労働力を使って当時の列島最大規模の王都を三輪山西麓に建設しました。都市計画されたと考えられ、周囲には水田がなく、大形の掘立柱建物を中心に王宮や各地の王族や首長クラスの人々の居館となる掘立柱建物などが多数作られています。

大王や王クラスの初期の前方後円墳が王都の中に造られていきますので、祭祀を目的とする政治都市です。また、幅5m、深さ1.2mの大溝が南北に二本作られており、大和川に通じて外洋とも接続されているので、外部からの物資運搬のための水路として利用されてたようです。出土した外来系の土器は全体の三割に及び、中でも伊勢・東海のものが半数近くあり、次いで山陰・北陸、河内などの土器が多数見られます。


(『歴史REAL 邪馬台国』洋泉社MOOK、2017.11.19 p.4より)

また出土した遺物には、木製人面、鳥形木製品、石見型盾形の木製埴輪などが見られますが、ここで最も注目するのは「弧文円板」と呼ばれる直線と曲線を組み合わせて文様を施した木製品と粘板岩製の「弧文岩」です。これらはニギハヤヒ大王の楯築王墓の上に作られた楯築神社の御神体弧帯石(亀石)に彫られた弧帯紋に似ていますので、纏向遺跡の祭祀儀礼は吉備地方にルーツを持つと考えられています。




亀石には人面が彫られており、蛇の目を配した弧帯紋です。中国神話の人類の始祖神である天皇伏羲(ふっき)と同じ人面蛇体の神を象っていますので、楯築王墓が奴(ナーガ=龍蛇神)国大王の天照大神尊ニギハヤヒのものなのです。そしてその子孫が纏向遺跡を造ったヤマトの大王だと考えられます。つまり、「日本は古の倭の奴国」である証拠のひとつです。



また、纏向遺跡に最初に現れた前方後円墳は、210年頃に築造された纏向石塚古墳と考えられます。全長96メートル、後円部径64メートルですから、大和盆地に旧奴国王族を集めた最初の卑弥弓呼大王の墓でしょう。この卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)という名前もニギハヤヒ直系の子孫の大王の襲名だと考えられます。

そして上述の外来系土器が弥生終末期から古墳時代初頭にあたる約200年から280年までを纏向1式から3式まで分類されています。纏向1式(200年から220年くらいまで)の外来系土器をみるとおよそ、東海50%、吉備20%、山陰・北陸14%、阿波・讃岐8%、近江7%です。また、器種を見ると祭祀に使う鉢・高坏・器台が全体の約36%で、つぎの纏向2式(およそ220~240年)が約14%ですから、纏向1式は大王の葬儀に集まった外来者のもので間違いないでしょう(注1)(2021.10.10 赤字追加)



そして最も重要なことは、ここに倭国の玄関である北部九州の人々が来た痕跡がないことです。これは纏向3式(240~280年)まで言えます。「魏志倭人伝」では、伊都国に置かれた一大率が女王への貢物を間違いなく届ける役割がありますから、その痕跡のない纏向は女王の都とする邪馬台国ではありえないということを意味します。九州の人々が大王の葬儀にも参列していないし、やって来た痕跡がないということは、纏向遺跡が倭国(邪馬台国)と敵対関係にあった狗奴国である明確な証拠と言えます。ですから、狗奴国はヤマト王権の発祥地の旧奴国なのです。熊本や東国などを狗奴国と考えると、ヤマト王権の発祥地纏向遺跡はいったい何者なのか全く説明できませんね。

なお、纏向石塚古墳の「溝内から出土した土器は布留0式期頃(3世紀後半)と思われます。出土土器により、纏向石塚古墳より後に築かれている可能性が高く、石塚築造後、周辺は墓域として利用されていたことがうかがえます。」と調査報告概要にありますので(纏向石塚古墳第9次調査一纒向遺跡第144次発掘調査の概要一 2006年3月25日(土)桜井市教育委員会)、纏向遺跡の最初の王墓が前方後円墳の形を持ち、吉備の祭祀儀礼が行われたと考えていいと思います。これらのことから、吉備を平定したニギハヤヒ大王直系の子孫の狗奴国大王の墓だと言えます。

【関連記事】
【検証2】前方後円墳のルーツ?
【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)

(注1)纏向石塚古墳の後円部に埋葬施設が見つかっていないので、以下のように石塚古墳は大王の葬儀のために造営されたものではないとの意見があります。確かに、勝山古墳にも見つかっていません。関裕二氏は「石塚古墳の中軸線は三輪山山頂に向かっていたが、勝山古墳の中軸線は、竜王山山頂の夏至の日の日の出の方位に当たっている。石塚古墳も勝山古墳も、前方部側に聖山と朝日を拝むが、巨大古墳の場合はまったく逆の方向、すなわち、後円部を通して拝む。」として、石塚古墳や勝山古墳と前方後円墳には大きな違いがあるという大和岩雄氏を紹介しています。つまり、石塚・勝山古墳の後円部が天文観測と祭天儀礼の場であって、墳丘ではないという説です(「前方後円墳の暗号」(講談社α文庫2017,pp.254-256)。

しかし、wiki「纏向石塚古墳」「墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部の埋葬ではないか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられる。」とあり、wiki「纏向勝山古墳」にも「埋葬施設:未調査のため詳細不明。」とありますので、今のところ後円部が墳丘である説を支持します。

勝山古墳の今後の調査で、墳丘部に埋葬施設が存在しないということであれば、他の前方後円墳には埋葬施設が存在する事実から、石塚古墳が卑弥弓呼大王の墓ではないとしても、両古墳は遺体や遺骨を埋葬できない、三輪山や竜王山に関わる別の人物の墓である可能性があります。いずれにしても今後の調査が待たれます。


今回はここまでです。最後までお付き合い、ありがとうございます。まだまだつづきます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。