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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本は古の倭の奴国だ(^^♪

2021-11-26 10:50:35 | 古代史
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随分前の2016-11-28 14:47:49に記事にしましたが、あまり読まれていないようなので、最新の知見を入れて大幅に改訂しました。お付き合いください。


新たな学説に揺れる邪馬台国
2016年11月20日14:57【iRONNA】邪馬台国は「99・9%」九州にあった


タイトル通り専門家や歴史ファンらに衝撃を与えた。同書では邪馬台国の根拠となる資料「魏志倭人伝」を重視しつつ、「後世に改竄された」と新説をとなえた。記述のあった朝鮮半島から邪馬台国までの距離を再検討した結果、邪馬台国は熊本平野にあったと結論づけたのだ。
 一方、ささやかなニュースでしかなかったが、今年3月、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で弥生時代後期のものとみられる硯(すずり)の破片が出土した。この遺跡は魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の中枢をなし、朝鮮半島北西部で見つかった硯と似ているという。伊都国は中国の外交使節の滞在場所とされるだけに、やはりこの近隣に当時の日本を統治する拠点があったことを推論する根拠になり得るのではないか。
 邪馬台国論争において「畿内説」が有力であることは間違いないが、中国や朝鮮半島との外交に欠かせない海洋ルートに加え、出土品の数などを考慮すれば、「畿内説」に遜色ない根拠は十分にある。もちろん、邪馬台国論争は「九州」や「畿内」だけではない。少々、突拍子もない印象もあるが、沖縄や滋賀の琵琶湖畔といった学説があることも事実だ。
 iRONNA編集部は今回、こうした現状を踏まえたうえで、地理的な要因や出土品の数といった根拠から導き出された「九州説」の視点を柱に据え、「邪馬台国はどこにあったのか」という長年決着のつかないまま現在にいたるこのテーマについて議論したい。


邪馬台国は福岡県にあった!ビッグデータが解いた「卑弥呼の墓」の謎 『安本美典』 2016/11/20 05:11 

やはり安本氏が主張されるように発掘された鉄の鏃(やじり)や勾玉、青銅鏡(三角縁神獣鏡は魏から貰ったものではない(注1))の数は圧倒的に北部九州が多い!また、当時の墓の形式が魏志倭人伝に「棺あって槨なし」とあるように北部九州には石棺のみで槨はなく該当するが、大和では木槨が有るので該当しない!さらに、大和説の有力候補地纏向遺跡の外来土器の中に当時の先進地域の北部九州のものが見られないのは、大和に邪馬台国が無かった大きな証拠でしょう!

それでは北部九州に在ったかというとそれは違います。 伊都国の平原遺跡に天照大神である卑弥呼の墓があると考えられてますが、もしもそうであれば何らかの伝承が無ければな りません!ところが、そういう伝承はいっさいないことがその説を否定していると言えます!また、高天原を邪馬台国と考えられていますが、下に述べますが、高天原は奴国ですよ。(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」)。

邪馬台国「九州説」に徹底反論! 卑弥呼は100%ヤマト女王だった『桑原久男』 2016/11/20 05:10

安本氏が何度も反論していますが、考古学の証拠から大和説は破たんしてます。しかし、安本氏が主張する、九州にあった邪馬台国が大和を滅ぼしたという邪馬台国東遷説も成り立ちません。三世紀にヤマト王権が始まった纏向遺跡に九州の土器がほとんど出土していないことから分かります(「邪馬台国大和説は過去の学説だよ!」)。

唯一の文献「魏志倭人伝」に根拠なし! だから邪馬台国論争は迷走する『里中満智子』 2016/11/20 05:09

元々、倭国は楽浪郡の南海上に有ると言うのが古来からの中国の常識でした(「漢書」地理誌)。邪馬台国の場所は帯方郡から東南に一万二千里の位置で、会稽郡東冶県の東方海上にあるというウソを拡めることにより、利益を得たい人たちは誰なのか?実際は違うということは魏の使者には分かっていましたが、上司帯方郡太守の命令でそういう報告書にしました。その報告書に基づき魏志倭人伝を書いた西晋の史官の陳寿の目的は西晋の宣帝と諡された魏の実力者司馬懿の功績を称揚することでした(注2)。




これだけは知りたい! 邪馬台国の基礎知識 『産経新聞』 2016/11/20 05:07

奴国から倭国に変わり伊都国に男王が居住し、更に邪馬台国の女王が倭国王となって大和王権に引き継がれたのは間違いないことです。皇位継承の印の三種の神器(剣・玉・鏡)は奴国王の墓の副葬品と合致します。さらに、中国の歴史書「新唐書」に「日本は、古の倭の奴なり」と最初に明記されており、さらに最初の初代王は天御中主、王の姓は「阿毎(アメ)氏」、以下「尊(みこと)」を号とし、筑紫城に居し、彦瀲(ひこなぎさ、日本書紀の鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさうがやふきあえずのみこと)の子、神武立ち、あらためて天皇を以って号となし、みやこを大和州に移すと書かれていることからも分かります(注3)。

邪馬台国がどこにあるかは魏志倭人伝の記述を好きなように解釈して改変し、どこへでも当てはめられるから本居宣長から三百年たっても解決できなかったわけです。NHKなどが取り上げるので、町おこし村おこしの格好の材料になっているのが現状です。(^_-)-☆

むしろ魏志倭人伝は、当時の伊都国に居た男王と帯方郡太守らにとって都合のよいウソから始まって、それを基にして書かれた歴史書というのが本当のようです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」)。

『【iRONNA】本日のテーマは「邪馬台国」』、その中で安本美典氏の記事の最後にある、邪馬台国であるための以下のような基準を書かれています。 邪馬台国問題の解決のためには、つぎの四つの問題について、 統一的総合的な見解が与えられる必要があると考えられる。
(1) 卑弥呼は、日本の古典に記されている誰にあたるのか。
(2) 邪馬台国はどこか(これは7万戸の人のすむ広い地域)
(3) 卑弥呼の宮殿はどこか(これは狭い地域)
(4) 卑弥呼の墓はどこか。


しかし「魏志倭人伝」に書かれていることがすべて事実だという前提です。残念ながらその前提が間違っているから邪馬台国問題が迷走しているのです。これは現存する日本最古の正史「日本書紀」も同じ状況です。だから、権力者が書いた正史のどこにウソがあるかは、権力者の気持ちになれば見えてきます。権力者にとって不都合な歴史の真相は、正史で隠蔽されるか、改ざんされるからです。つまり、書かれていることが考古学や民俗学などの成果と矛盾するところにウソがあるという分かりやすい話でした。だからそのウソが分かれば、歴史の真相だと思われる仮説を立ててそれを検証していけば正解が浮かび上がってくるという話でした(「勝者の歴史から不都合な真相が分かる?(@_@)」)。

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(注1)三角縁神獣鏡は箸墓古墳から出土し、魏の皇帝が卑弥呼に与えた魏鏡百枚の一部だとして、大和説の卑弥呼墓の有力候補地としている。しかしこの鏡は我が国から500枚以上出土しているにもかかわらず、魏の都「洛陽」は勿論、中国全土から一枚も出土していない。文様から考えても北方の魏系のものでなく、南方の呉系の鏡であると安本氏は指摘しています(大崩壊「邪馬台国畿内説」、勉誠出版、p.31)。4世紀から5世紀にかけて呉の職人に作らせた訳であるが、魏の景初年号を付けていることからも、魏の鏡と見せかけたい意図がみえる。280年に呉が滅んで後ろ盾を失い混乱した狗奴国=ヤマト王権が親魏倭王卑弥呼の王権を継承したものと主張したい目的で大量に作らせたと推理できる。

(注2)陳寿の後に三国志以前の歴史書「後漢書」を書いた范曄(398年ー445年)に対する多くの評価は不当ではないかと考えてます。従来の邪馬台国に関する諸学説にとって「後漢書」の倭に関する記述が都合が悪いので、現在伝わる12世紀に作られた魏志倭人伝の版本を正しいと見做して議論を進める間違いを犯しています。

范曄は魏志倭人伝やそれ以前の倭に関する資料や当時の好太王碑にあるような半島の状況も理解しており、邪馬台国や大和王権のことは分かっていたようです。57年の倭の奴国の朝貢から倭国大乱が桓帝・霊帝の期間と魏志倭人伝にない記述がありますし、邪馬台国の時代に近い時代に生きた范曄の記述を間違いとして捨てることは無理がありますから、版本の書き写しを疑うべきでしょう(九州で人気のある古田武彦氏の九州王朝説は邪馬台国を邪馬壹国としたり臺与(トヨ)を壱与とする魏志倭人伝の版本を正しいとしている。今回の熊本説も古田氏と同様に会稽東冶を会稽東治とするのは当代一流と評価の高かった范曄を見くびっているのではないだろうか)。

(注3)「宋史」日本国には、その記事のソースが書かれている。984年に宋に留学した東大寺の奝然(ちょうねん)が太宗に献上した「王年代紀」である。ここには初代王の天御中主から神武天皇の父彦瀲までの23代が記されており、新唐書の三十二世という記述が写し間違いであることが分かる。


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