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空白の世紀と倭の五王の謎?(その2)

2022-12-02 18:18:35 | 古代史
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前回は、日本書紀が隠した空白の4世紀の宇治天皇について考えましたが、今回はそのつづきです。仁徳天皇の三人の皇子(履中・反正・允恭)の兄弟が倭の五王の讃・珍・済と考えていいように思われるので、細かく検討しました。でも、またビックリ仰天の大発見をしました。今回の関係系図を先に示します。前回見たような煩雑な西暦年の算出をしますので、計算ミスがあるかもしれません。それでは、最後までお付き合いください(#^.^#)


(2022.12.6 仁徳天皇の崩御年の計算をミスしましたので、本文と図を修正しました)


日本書紀では仁徳天皇崩御後に去来穂別尊(いざほわけのみこと)が即位しました。履中天皇です。仁徳天皇の最初の皇后葛城磐之媛(かつらぎいわのひめ)の生んだ最年長の皇子、つまり嫡男であることを示す大兄をわざわざ付けて強調しています。なにか怪しく感じます。もう一度、末尾に前回示した倭の五王系譜・天皇系譜と崩御年一覧を示しますが、履中天皇は日本書紀では乙巳年405年享年70歳で崩御したとあります。ところが、古事記は壬申年432年64歳で崩御とし、全く食い違っていますから、前回見たように古事記が真相を伝えたと考えています。

履中天皇(去来穂別尊)の生まれ年は、432年に64歳で崩御ですから369年となります。母磐之媛が皇后になるのは仁徳二年373年ですから、その4年前に生まれています。これは一見矛盾するようですが、仁徳が即位するのは宇治天皇崩御の年、これも壬申年ですが一運前の372年ですから、大鷦鷯(おおさざき、仁徳天皇)が即位する前ですので、すでに磐之媛を妃としていて、即位の翌年に皇后にしたということで問題ないと思います。

ところが、日本書紀によると皇太子だった去来穂別が即位する時に、黒媛(羽田矢代宿禰の娘)を妃にしようと思ったのですが、仁徳天皇の後(のちの)皇后で宇治天皇の妹八田皇女の子の住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が去来穂別の名を騙って黒媛を犯して、さらにその発覚を恐れて、去来穂別の宮を包囲して焼いた事件があったとされています。去来穂別は逃れて、弟の瑞歯別(みつはわけのみこ、反正天皇)と相談し、仲皇子の部下を味方に引き入れ、厠で刺殺させたという結末です。実はとても天皇の正史とは思えないような、普通あり得ない週刊誌のネタになる話が日本書紀ではよくあるのです(注1)。また、何かを隠すためだと勘ぐれますから、とても面白いですよ。

しかし、仁徳天皇が崩御した377年に履中天皇(去来穂別)が即位したと推理したので、生まれ年が上で述べた369年ですので、履中天皇は9歳の子供ということになります。ですから、このような事件が起こるはずはありません。上の事件があったならば、もっと後の話だと考えられます。(2022.12.6 赤字訂正)

そうすると、住吉仲皇子は生年不詳とされていますが、母の八田皇女を宇治天皇より勧められて大鷦鷯(仁徳天皇)が妃にした年が仁徳30年と日本書紀にあるのでそれを信じれば、仁徳元年は313年なので342年となり宇治天皇の治世となります。宇治天皇が死に際に妃に勧めたという話も不自然ですから、342年に妃となったという、こちらの方が正しいように思われます(注2)。

住吉仲皇子は八田皇女の最初の子なので、その翌年343年に生まれたのではないかと考えられます。そうであれば父の仁徳天皇崩御377年に仲皇子は35歳ですので、9歳だった去来穂別よりも26歳も年上です。住吉仲皇子が仁徳天皇崩御後に先に即位している可能性が高いのです。先に述べたように日本書紀が去来穂別(履中天皇)を大兄とわざわざ呼んだのは、わざとらしいので、きっとこのことを隠すためだったのではないでしょうか(^_-)-☆。(2022.12.6 赤字訂正)

それでは去来穂別(履中天皇)は、いったいいつ天皇になったのかが分かりません。ここで履中天皇が宋書に登場する倭王讃と考えていますので、履中天皇が朝貢した最初の年が421年ですから、この前年420年に即位しているとすれば、年齢は52歳ですので妥当な年齢です。上の仲皇子の話は日本書紀の創り話なので、史実に基づく話なのかよくわかりませんが、住吉仲皇子は去来穂別らに暗殺されたのかもしれません。住吉仲皇子天皇が崩御した年齢は79歳となります。

ということで、仁徳天皇と履中天皇の間に、宇治天皇の妹八田皇女と仁徳天皇の間に生まれた住吉仲皇子が天皇に即位していた可能性があります。

日本書紀では履中天皇「五年春三月に筑紫三神(宗像三女神)が宮中に現れて『なぜ我が民を奪うのか。お前に今に恥を与えるから』と言われた。
しかし、祈禱だけを行って、祀ることをしなかった。

また、秋九月に天皇が淡路島に狩りをされたときに、伊弉諾尊が祝部(はふりべ)に神憑りして、お供の目の入れ墨の「血の匂いに堪えられない」と言われたので、入れ墨を止めた記事があります。そして、三柱の神の祟りで皇后が崩御してしまいます。その原因は車持君が筑紫に行き、勝手に神民(かんべのたみ)を奪ったためだと分かりましたので、三柱の神にすべて返したとあります(注3)。
六年三月十五日、天皇は病気になられて、身体の不調から臭みが増して、崩御された。年七十。」とありますから、伊弉諾尊にも祟られたということだと思います。(『日本書紀・日本語訳「第十二巻:履中天皇 反正天皇」』より)

やっぱりそうだったか!(^_-)-☆

日本書紀は宗像三女神、実はイチキシマヒメ卑弥呼の一族の和邇氏の血を引く住吉仲皇子天皇を履中天皇らが暗殺したために三女神だけでなく皇祖神伊弉諾尊の祟りもあって履中天皇は酷い目にあったと示唆しているのですよ(^_-)-☆。

今回はここまでにしましょう。最初の系図をご確認ください。もしも思い違いやミスがありましたらお教えください。よろしくお願いいたします。次回もお楽しみに!( ^)o(^ )

(注1) よく似た話で、仁徳天皇が宇治天皇の同母妹で、異母妹であるはずの雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を妃に望んだので、応神天皇の隼別皇子(はやぶさわけ)が奪い、仁徳天皇は一度は許すも、二人が増長して反逆を企てたということで誅殺する事件がありました。

また、日本書紀では、景行天皇も噂の美人姉妹を妃にしようと大碓皇子(おおうすのみこと)を派遣しましたが、大碓皇子はその美しさのあまり使命を忘れて密通し役目を果たさなかったとあります。その後、天皇は朝夕の食膳に参上しないので弟の小碓皇子(おうすのみこと、日本武尊)によく教え諭すよう命じましたが、兄を厠で待ち伏せして惨殺した事件があったと記録されています。

しかし日本書紀は、これらはよくある事件だということにして住吉仲皇子が天皇に即位していた話を隠すために創った話だと推理できます。だいたい、天皇家の正式な歴史書でこのような週刊誌ネタがあることが不自然ですから、念入りに二つの話を前例として創ったのだと分かります。前例があれば信じてもらえると考えてのことのようです。だから、持統天皇の前の二人の女性天皇(推古、皇極・斉明)を前例として作るのは、持統天皇即位の嘘を隠すための日本書紀の手口だったということなのです。

(注2)住吉仲皇子の生年を割り出すための唯一と思われる手がかりが、八田皇女が日本書紀の仁徳30年に妃となったということです。つまり仁徳元年は313年であるので、342年と計算できるが、八田皇女は恐らく15歳から遅くても18歳で嫁いだと考えると生まれ年は328年から331年ということになり、父の応神天皇が334年に70歳で崩御しているので、64歳から67歳の時の子ということになります。母の宮主宅媛の年齢も分かりませんから、これ以上分かりませんが、一応妥当な範囲のギリギリに収まると考えられますね( ^)o(^ )

なお、住吉仲皇子は磐之媛の第2子とされていますが、磐之媛が嫁ぐ前に生まれていると推理しましたので、本当はその前に宇治天皇に勧められて嫁いだ八田皇女の子だと推理しました。磐之媛が嫉妬深いという話もフェイクでしょう!

(注3)この日本書紀の記事で車持君がなぜ登場したのか明確には分かりませんが、平安時代前期に成立した、現存する日本最古とされている物語「竹取物語」(作者不詳)で最後の5人目の車持皇子が悪党で、かぐや姫を騙そうとしたことがバレて、かぐや姫は穢い地上から月に帰っていきます。この車持皇子のモデルは、天智天皇の落胤との説があり母の姓が「庫持」である藤原不比等という説がありますので、その権謀術数で藤原の時代を作った不比等と藤原氏を風刺するのが竹取物語の主題のようです。

日本書紀の編纂者も馬鹿バカしい歴史改ざんを命じた不比等の悪行を意識して、不比等を密かに揶揄するために車持君をこの場面で登場させたのかも知れませんね。史実に基づいて歴史改ざんしているので、宇治天皇の壬申年でも推理したように、全くデタラメばかり書くのも疲れる話ですからね(*^。^*)

なお、不比等が天智天皇の子という説は、wiki「藤原不比等」によれば、「藤原鎌足の次男だが、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』では、天智天皇の落胤と記されている」とありますが、もしそれが真実ならば日本書紀は全く違った内容になっているはずですよ。なぜならば、日本書紀は藤原氏のための作り話なのですから、最初から、不比等の家系を皇族とすればいいだけの話です。でも、それをできないということは、さすがに編纂者も引いてしまう話だったからでしょう(^_-)-☆





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