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消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆

2022-11-23 12:25:37 | 古代史
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一般に余り知られていない古代豪族和邇氏について、すばらしい動画を見つけましたので以下のようなコメントしました。まず動画をご覧になることをお勧めします。日本建国でとても重要な役割を果たした和邇氏の祖先が日本書紀で隠されてしまいましたが、微かな痕跡をつなぎ合わせてその正体を発見できました。これによって邪馬台国問題もヤマト建国の問題もほとんど解決できたと思います。かなり込み入ったディープな話ですので、眉に唾つけながらで結構ですので、納得されるまでお付き合いください。疑問点をぜひお教えください。よろしくお願いいたします(^_-)-☆



【氏族深掘】「 和邇氏」黎明編

【歴史解説】 2022/11/19 結城屋@YouTube


有難うございます。とてもいい解説です。和邇氏はヤマト王権成立の過程を調べていてその正体が分かりました。ヒントは東大寺山古墳群付近にある和邇坐赤坂比古神社の御祭神二柱が宗像氏が祀る神々だったことで確信できました。つまり主祭神がアタカタスノミコトとイチキシマヒメだったのです。前者が宋史王年代紀第17代王伊弉諾尊の妃となったイザナミの父だと推理しました。つまり和邇氏はムナカタの一族で玄界灘を主な活動域とした縄文系の海人族だったのです。

この後にイチキシマヒメが卑弥呼だったという話まで行こうと思ったのですが、そこに至るまでにちょっと説明が長くなり過ぎたので、拙ブログにて記事にしました。よろしければ、お越しいただき、疑問点などをコメントしてくださるとありがたいです。


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イザナギは初代天御中主の子孫の奴国王であり、江南出身の倭人アズミ族らの王だったのです。天は海、中は奴(nag)と同じナーガ=龍蛇神を表しますから、ナーガを信奉する倭人の王という意味です。地名で那珂、那賀、長柄などもナーガを信奉する倭人アズミ族が開発した土地だと分かります。天御中主は記紀神話でも最初に高天原に現れた神とされていますが、実は紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族だったのです。倭人の手助けで半島南部に逃亡し、暮らしていましたが、恐らく寒冷化の影響で福岡市早良平野の吉武・高木遺跡に移り住みました。

日本最初の王墓がここで見つかっています。第二代王天村雲尊、第三代王天八重雲尊までの王妃や王族の墓が見つかっています。天村雲尊の墓には三種の神器(剣・鏡・玉)が副葬されています。スサノヲがオロチ退治で手に入れたとされる天叢雲剣は二代王に因むもので、後に神話で女神アマテラスから孫のニニギノミコトに渡され、さらに日本武尊の草薙剣と名前が変わったあります(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

しかし、高天原は福岡平野から筑紫平野にかけて奴国王が支配した倭国のことだったのです。それは日本書紀の仲哀天皇紀に博多を儺県(なのあがた)としたことから判明しました。

wiki「追儺」によれば「大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や疫神を払う儀式」とありますが、「儺(な)」は、「鬼やらひ」「神やらひ」という意味なのです。高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの事件を示唆しています(注1)。

そうすると57年に後漢光武帝より金印を賜った奴国王が倭国を支配する王だったのですが、107年には倭国王帥升(范曄後漢書の原本では倭の回土=ウィト国王師升とあったとされています)が朝貢していますので、倭国に何らかの政変があったことを示唆しています(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。師姓は古代中国の宮廷楽師の官位だということも知られていますので、奴国の聖職者らが反乱を起こしたと推理できます。つまり、倭国王に認められるために160人もの生口(戦争奴隷)を献上したのです。志賀島で発見された国宝金印は奴国王の配下のアズミ族のひとりがそのクーデターから逃げる途中で隠したもので、師升らが王を拷問しても金印が手に入らなかったので師升らが朝貢したと推理できます。殺されたのは第18代奴国王素戔嗚尊(スサノヲノミコト)です。

ですから最も重要なことはこの史実を日本書紀の編纂者は知っていながら、高天原神話を作ったという証拠なのです。何のために?

実は現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたものですが、完成は崩御から34年後なのです。完成させたのは時の権力者藤原不比等です。不比等は二世紀末から三世紀の日本建国時代に活躍した豪族たちの史実が不都合だったので、神話を創作して史実を隠し、建国後の歴史も不比等や父鎌足らの悪行を隠ぺいするために創作したので、日本書紀は藤原氏のための偽の歴史書だったのです。後で述べますが、不比等は各地で豪族が祀っている氏神の神社などに行って、祭神名や神社名を強権で変更させたと分かります。後に不比等の子孫たちは徹底的にやっていますので、現在の神社伝承の多くは創作された日本書紀神話に合うようなものに変えられているのです。

しかし、その中には神話と矛盾する伝承が密かに残されていたものもありました。歴史を抹殺された氏族が真相を残すためである可能性がありますが、政権に遠慮して、すぐわからないようにするために、かなり婉曲なものにしています。たとえば、住吉大社には「仲哀天皇のモガリで神功皇后と住吉大神に夫婦の密事があった」とか、宗像大社には「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」というものが残されています。住吉大神は父伊弉諾尊から海を支配するように命じられたスサノヲですからその母伊奘冉尊がムナカタ海人族であり、その子孫が宇佐八幡大神応神天皇だということです。応神天皇は仲哀天皇の子供ではなく、本当の父は神功皇后の傍らにいて常に助けた三百歳の白髪・白髭の老人武内宿禰で、スサノヲの子孫の大国主(久々遅彦)だよと暴露する内容なのです。仲哀天皇は、日本書紀の記事から、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますから、この人物が創作だと直ぐに分かりますので、記紀に矛盾する伝承の方が正しいと分かるのです。

そして、その証拠は考古学などの成果から得られました。三世紀後半(弥生終末期から古墳時代初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、日本書紀の崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の事績が日本建国の戦いの史実を基にして、時代を引き延ばして創作されたことを見つけました(詳細は拙ブログ「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

話を戻してイチキシマヒメですが、厳島神社の主祭神です。神話では宗像三女神の一柱とされていますが、三女神の主祭神ですから宇佐神宮の比売大神のことなのです。葦原中つ国の宇佐嶋に三女神として降臨されて、水沼氏が奉斎していると日本書紀の一書に書かれていますが、宇佐市安心院町三柱山の三女神社が降臨地ということなのです。

ここには不思議な伝承が沢山ありますが、三女神社の二の鳥居の神額に「二女神社」とあり、神話の秘密を暴露しているのです(拙ブログのPC版のバーナー参照)。地元では三女神社を「さんみょうじんじゃ」と読んでいます。「三は妙だ。女は少ない!」という謎かけだったのです。つまり三女神は比売大神であるイチキシマヒメのことを隠すためのフェイクなのです。なぜ隠す必要があったのかが謎です。

四世紀から七世紀くらいまで沖ノ島祭祀が行われ、六世紀ころまではヤマト王権が直接祀っていたようで、王権の中枢部にいた和邇氏が中心だったと分かります。

沖ノ島で女神を祀っていた謎ときのヒントは二世紀後半の倭国大乱です。これも、鉄鏃・銅鏃の出土状況から倭国大乱の実態が分かりました。つまり、クーデターを逃れた奴国王族が沖ノ島経由で半島南部の鉄を入手して、大分県大野川流域から阿蘇山麓まで武器製造の鍛冶集落をつくり、熊本県菊池川上流域に前線基地(方保田東原遺跡・うてな遺跡)を作り、倭国の領域である佐賀平野から筑紫平野などを襲った模様が見て取れます。また、倭国側が前線基地を襲った痕跡も見つかりました。これによって、卑弥呼が登場することも推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

倭国は、半島が混乱していた二世紀後半は楽浪郡と交易できずに衰退していたので、その間も半島南部の鉄をムナカタ海人族(和邇氏の祖)を使って仕入れて隆盛になっていた旧奴国(狗奴国)の官狗古智卑狗に一方的に攻撃されていたのです。ところが、公孫氏が半島の混乱を収めて204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、上の前線基地を急襲して狗古智卑狗を殺したと推理しました。大活躍していた王を失った和邇氏の祖赤坂比古が難升米に懐柔され、その娘イチキシマヒメを姫巫女(卑弥呼)として太陽神のお告げにより政治を行うことで、狗奴国を裏切って倭国側についたと推理しました。狗古智卑狗の墓は山鹿市茶臼塚古墳であることも分かりました(詳細は拙ブログ「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)・(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。

そして三百年かけても分からなかった邪馬台国問題も分かりました。上で述べたとおり、魏に朝貢するために景初三年六月帯方郡に出かけた大夫難升米こそ、本当の倭国王だったのです。魏志倭人伝でも倭国が乱れる前の7・80年は男王が支配していたとありますが、難升米という名前から師升の子孫だと判明しました。当時はニンベンを省略するのが流行だったようで、国宝金印の印面からだけでなく、師升王が作ったと考えられる日本最初の金石文「室見川銘板」にも二か所も例が見られたことからも分かります(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。

難升米が魏の有力者司馬懿の部下の帯方郡太守と談合して、ライバルの孫呉をその東方海上から挟み撃ちにして圧迫する位置に倭国王の王宮があるとするために、姫巫女卑弥呼を女王とし、帯方郡より万二千余里という過大な里数を政治的な意図で書いたのです。魏志倭人伝の邪馬台国への行程の記事も、西晋の基礎を作った宣帝司馬懿の功績を実際以上に大きく見せるためのトリックだったのです(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。

卑弥呼は倭国大乱期に海に面して物騒な不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡が中心集落と推定)から野麻国(やまこく、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に要害堅固な城を構えて、そこに疎開していたのです。三女神降臨地の葦原中つ国は葦が群生するナーガの国という意味ですから、この場所を意味していました。安心院という地名の意味は卑弥呼(院)が安全な国に疎開して安心できたという史実を表すもので、「アジム」という読みは、葦生(あじぶ)からという説もありますが、元々アズミ族が拓いたことから付けられたものでしょう(詳細は拙ブログ「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」などを参照)。


(「投馬国へ水行してみませんか?」参照)

日本書紀応神天皇紀に百済の王仁(わに)が漢字を日本に伝えたというフェイク記事があるので、多くの日本人は弥生時代には倭人は漢字を読み書きできないと誤魔化されていました(注2)。しかし弥生時代後期にはすでに文字が使われていた証拠である木製組机が福岡市雀居遺跡で丸ごと出土していましたし、最近では硯の欠片も北部九州などで多数出土していたと分かりました。弥生後期にはすでに漢字が一部使われており、師升が延光四年(125年)に王宮を造って祭祀を整えたことを記念して室見川銘板を作っていたことも分かりました。室見川銘板は奴国滅亡を裏付ける重大な証拠だったのです。

ですから倭国王難升米は漢字を読み書きし、直接シナ人と交渉できる教養人で帯方郡太守と直接談合したということが、回土(ウィト)国を伊都国と書き改めて魏に教えたことから分かります。これは儒教の古典「孟子」に記された殷(商)王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)に因む、好い国名ですが、伊尹は放蕩者の主君を追放したことで評価が議論される人物なのです。難升米の祖先師升=儺升王の事績と重なるものです。倭国の秘密であるべき乗っ取りの史実を知っていて伊都国と書ける魏の役人はいないはずです。難升米が書いて教えたものなのです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

下図に日本建国に関わる実在人物の系譜を示していますが、卑弥呼が宇佐神宮八幡比売神として朝廷より皇族に与えられる品位(ほんい)という高い神階が贈られています。これは卑弥呼の父先代赤坂比古に嫁いだ卑弥呼の母の父が大国主の祖父で、国引き神話の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)だったからと推理しました。なので卑弥呼は大国主とは従妹になります。このことが卑弥呼の墓の遥拝所の摂社に八束神社があったことから分かりました(詳細は「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

また、卑弥呼の弟で和邇氏の祖とされる赤坂比古が、卑弥呼が247年3月24日の日没前の日食のために難升米によって殺害されたことを示唆する日触使主とされた人物であることも分かりました。持統天皇5年(691年)、藤原不比等が直接近江八幡市の現日牟礼八幡神社に行って日群社(ひむれのもり)と社名を変更させ、祭神名も変更したと推理しています。元々の社名も祭神名もおそらく日蝕を示唆する名前だったと分かります。(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)。





(注1)貞観五年(863年)に疫病の流行が起こったので、疫神や怨霊の祟りということで、京都市中京区東寺神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)が行われました。その翌年には富士山大噴火が起こり、スサノヲの本地仏として牛頭天王を祀る祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が祇園社(現在の八坂神社)で行われ、現在まで祇園祭の山鉾巡業として残っています。その後も地震や津波などが多発し多くの犠牲者が出ました。スサノヲは蘇民将来(そみんしょうらい)の説話で疫鬼の総元締めとして祀られています。神話に登場するスサノヲは高天原を追放されたとはいえ、その後出雲に降り立ち、ヤマタノオロチを退治してクシナダヒメを娶っているので疫病神ではなくなって人格がガラッと変わっていますので祟るはずありません。実はすでにスサノヲ大王は殺されているので、オロチ退治は史実ではないので、当時の人々の観念上の話です。ですから、スサノヲは非業の死を遂げた最後の奴国王と分かっていたというのが先に述べた王年代紀の存在で分かるのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。つまり最後の奴国王スサノヲの子孫大国主久々遅彦がヤマト王権によって殺されたという史実も伝承として持っていた秦氏や弘法大師空海の弟子などが、日本に祟りをなす怨霊神の元締めとしてスサノヲを祀ったのだと推理しています。


(茅の輪くぐり神事 三つの輪 – 宮地嶽神社 より)

(注2)王仁の名前も名古屋市名東区猪高町和爾良神社の伝承の和邇氏から取った名前だと分かります。詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)」を参照してください。四世紀以降に尾張を和邇氏が支配した模様です。正式の読みは「ワニラ」神社ですが、地元では尾張王は父の仇討ちで和邇氏の祖赤坂比古を殺したので、尾張は悪くないという意味で「カニラ」神社と読んでいるのだとと分かります。ちなみにカニは尾張の代名詞ですよ(「抹殺された尾張氏の謎(その3)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照 )


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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4 コメント

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こんばんは (morkohsonimap)
2022-11-23 17:35:31
イチキシマヒメの名前が出たとこからこちらも読んでいて色めきたちました
個人的な感覚だけで学術的な検証の裏付けもなく
ただ感覚で宇佐八幡自体墳墓(誰のものかはわからないまま、ただ墳墓だって勝手に思ってるだけですが)の上に建立されてる神社だって思っての宇佐イコール邪馬台国って思い込んでる人間には実に楽しい考察でした
ありがとうございました。
Re:こんばんは (刮目天 一(はじめ))
2022-11-23 18:18:19
こんばんは!
とてもいいコメントを頂きうれしいです。
実は定年退職前に、井沢元彦「逆説の日本史」から古代史好きになったのだと思います。その後、魏志倭人伝のトリックは東洋史家の岡田英弘「日本史の誕生」でだいたい分かりました。学会ではエレガントではないという理由で却下されていたようですが、そこに真相があったのです。
また現存する最古の正史日本書紀の欺瞞も人気古代史作家関裕二さんで分かりました。これらがヒントになって、考古学や民俗学の成果から何が言えるか?おっしゃる通り、井沢さんも宇佐神宮に卑弥呼が居たと考えておられたようなのでヒントでした。
定年後に安宇佐市心院町の三女神社に行ったときには鳥肌が立ちました。ここに卑弥呼が居たとすぐに確信したことを思い出しました。本当に謎が多い、日本の古代史をここまでつかめるとは思いもよりませんでしたが、年金生活ですから時間はたっぷりありますから地元の図書館に入り浸って、調べまくった時期が今思うと懐かしいです。やっぱり、人が考えない発想をするのが一番大事ですね(^_-)-☆
若い人も、この後の古代史を同じ手法で解明していただきたいと思っています。
ちょっとだけ言うと、飛鳥時代というのも疑惑のデパートですし、その前の和邇氏と同様に、蘇我氏や飛鳥という名称も不比等が創作した可能性が高いです。万葉集は歴史改ざんを暴露するためのものなのですから。雄略天皇から始まっているのもヒントですね。だから平安時代の桓武天皇あたりから大体真実に近いのかなと思っています。何かご不審なことが見つかったら遠慮なく教えてください。日本の古代史はまだまだ謎だらけですから。あ、日本の近現代史もそうですね。権力者の都合の悪いことは国民に教えられていませんから、林千勝さんの著書はいいですよ(^_-)-☆
どうもありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
Unknown (kourei-flow)
2022-12-04 00:30:59
こんばんは
櫟本には母方の親戚がおり、奈良山辺は頻繁に訪れました。私は子どもの頃、考古学から歴史好きになったので、和邇氏など古代のことは大好きです。また勉強のために貴ブログにお邪魔します。
Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2022-12-04 09:41:53
おはようございます。
そうですか!いいですね。卑弥呼とつながりがあるのは!和邇氏は4世紀から6世紀ごろの有力な豪族ですから、列島各地にいろいろとつながりがあると思います。近江にも尾張にもありましたよ。名古屋の南区の鳥栖(とりす)は佐賀県の鳥栖市と関係あるはずです。卑弥呼の弟赤坂比古の根拠地にしていましたから。日本全国に愛宕信仰がありますが、この人物を子孫が祀ったのだと突き止めました(^_-)-☆
宗像の沖ノ島祭祀も宇治天皇が始めたと考えています。旅行好きのようですから沖ノ島まで行くのも面白いですね!また、何か分かったら教えてください。いいコメントをありがとうございました。( ^)o(^ )

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