楽山の侮辱の筆致 | ウソの国ー詩と宗教(戸田聡 st5402jp)

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キリスト教、ポエム、理念、批判、など。古い記事が多いです。

 
  楽山の侮辱の筆致
 
 『旧約聖書入門』三浦綾子著
 2021年11月27日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31274903.html
 
 
楽山は、羞恥心がないので、何を言われても、平気で記事を書いてきます。そのことが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という体質的な病気を明らかにしてゆくのです。今回、また、キリスト教文学の小説家を侮辱しています。
 

*まえおき
先日は『新約聖書入門』を読んだので、今回は『旧約聖書入門』を読んでみた。心に残った箇所を以下に書きとめておきたい。

 
門だけ眺めて、中に入ったことは一度もない楽山です。ゆえに、聖書の「せ」の字も、信仰の「し」の字も、分かっていません。厚かましさだけで高慢に書いてくる文章は、とても醜いです。
 

*人生を一行で表現すると…
著者は、聖書においてエノクの一生が一行で表現されていることから、次のような問いを発している。

わたしたちが死んだ時、一行でわたしたちの生涯を誰かが記すとしたら、果たして何と記してくれるだろう。
(『旧約聖書入門』三浦綾子著、光文社、1994年、p.66)
 」
これは前に本書を読んで以来、ずっと心に残り、考え続けている問いだけども、それは今後も変わらなそうである。

 
楽山が考え続けているなら反省しないではおれないはずです。ゆえに、また、口から出まかせを言っているという判断になります。楽山は、楽山の生涯を、誰かが記すなら、もはや、病質的障害の嘘吐きペテン師ということだけが変わらないのです。
 

*自然観
著者は「地を従わせよ、すべての生き物を治めよ」という聖書の言葉を根拠にして、人は自然の管理者であるとしている。

すなわち神の意思に従って自然管理をなすことが、本来の人間の使命であったはずなのである。
(同上、p.19)
 」
自分には自然の中に人がいるという感覚は理解できるが、自然の上に人がいるというのはどうも理解し難い。それは自然に対して傲慢すぎるのではないかと怖気づいてしまう。

 
「地を従わせよ、すべての生き物を治めよ」「神の意思に従って自然管理をなす」・・どこに、自然の上に人がいると書いてあるのでしょう。神の下に人がいるということです。とても低劣な詭弁です。自然を、人が管理するのは、本質的に、人が生きるためです。
 
「自然の上に人がいる」・・この例は、ここでは、他でもない楽山であります。それは、人の上に入る妄想気分の病者であり、不治になる可能性が濃厚な、楽山その人であります。だから、成り立たないことを、考えもせずに、平気で言ってくるのです。
 

やはり自分は一神教よりは、汎神論、アニミズム的な考え方に親和性があるようだ。こんなことは普段はまったく気にすることはないけれども、キリスト教を調べるたびに自分の宗教的文化的背景に自覚的になって行くのは面白い。自己を知るには、自己とは異質なものに接触すればいいというけれども、これは本当だ。

 
楽山に宗教的文化的背景などありません。反宗教的妄想的な固陋があるだけです。さらに、ベースの無い楽山だから、平気で、無反省、無責任でいられるのです。ふつうなら、生きているのが嫌になりそうなほど、幼稚な妄想的な間違いを、性懲りもなく繰り返しているのです。
 
(ネットより)
固陋(ころう):見識が狭くて頑固なこと。古い習慣に固執して、新しいことをきらうさま。
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BA%E9%99%8B-505516
 

*額面通り
著者は神の言葉はそのまま受け取るべきであって、自分勝手に割り引いたり、水増ししたりしてはいけないとしているためか、聖書解釈もそのようになっている。

 
シンプルな信仰は、このように、楽山のような偽善者で詭弁屋の楽山などに、容易く利用~悪用されるという例です。そのように、楽山は、シンプルな人を餌食としてきたのだろうと思います。「そのまま」を文字通りとすり替える詭弁です。
 

たとえば、バベルの塔の話を紹介した後では次のように書いている。

こうして世界の言葉は、たくさんの言葉に分かれたのである。もし、このような事件がなければ、世界は今も、全部同じ言葉を使っていたであろう。
(同上、p.83)
 」

 
聖書の出来事を、そのまま、史実だと受け取る解釈は、既に、多くの人によって、正しくないことが言われているのですが、楽山は、聖書と史実の関係に、悪意で、こだわって、いちゃもんを並べるのです。何も変わらない楽山の無理解というより謀(はかりごと)であります。
 
サイコパスからのクリスマスプレゼントです。恥知らずな楽山は、小説家だろうと何だろうと、その一つの言葉そのもので、それだけで、全て分かったという気になり、何も考えずに、他者を侮辱したい、という、この上ない趣味を満足させています。楽山は、人間と良心の敵です。
 

創造論について疑問を持つ人から、それは本当かと質されたとき、こう答えたともいう。

「そうよ。男と女を、神が創ったと、ちゃんと聖書には書いてあるのよ」
(同上、p.22)
 」
自分は聖書を古典、宗教書として読んではいても、神話的な部分をもそのまま事実として受け取ることはしていない。

 
ここにも、聖書の文字通りに信じるという信仰について、楽山が、悪用の限りを尽くしています。どう信じようとも、そこに神を恐れる敬虔があるかどうかなのです。楽山が、いかに、専門用語などを尽くして、おとしめても、表れるのは、神を恐れぬ反キリストの醜態と悪臭に過ぎません。
 
「神話的な部分をもそのまま事実として受け取ることはしていない」と、インテリを気取っても、楽山には、反キリストとしか言えません。神を恐れず、キリストとキリスト者を侮辱し、優れた作品には見られる敬虔の深みが、楽山においては獣性に過ぎないからです。
 

もし宗教とは、聖典の記述をそのまま信じるものだとすれば、自分には宗教は無理かもしれぬ。

 
聖典は解釈を通しているので、文字通り信じても、信じるだけの超常の能力など持っていない人間には無理だということです。これに類することを何度言っても楽山は、妄想に囚われて、信仰を否定するネタにしてくるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)9:20-21
するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。
 (マタイ9:20-21、新約聖書)
 
一見、愚かに見える行為に隠れた信仰の敬虔を、キリストは見逃しません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:7
ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 
26:8
すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 
26:9
それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。 
26:10
イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
 (マタイ26:7-10、新約聖書)
 
この2つの聖句に共通するのは、二人の女性が、他に救いがないという生き方をしてきた人だったということです。だから、シンプルな信仰だけで行動し、キリストは、それを受け入れて、是としているのです。温もりも潤いもない楽山などが、とやかく言う余地などないのです。
 
神への恐れと正直が、誤りがあっても、つまるところ、信仰なのです。楽山は、信仰を何も理解できないで、史実じゃないのに・・と、著者を、全ての敬虔なシンプルな信仰しか持たないキリスト者を、あざ笑い侮辱しています。楽山は、世界中から憎まれても、おかしくないサイコパスです。
 

倫理的道徳的な戒めについては、できるだけ割り引かず、そのまま受け取るようにすべき場合もあるのは理解できるが、自然、歴史などの事実関係については科学、学問の発達を考慮してその限りでないとするなら理解できるが、それすらも聖典の記述のすべてをそのまま受け取らなければならぬというなら、それは理解できない。

 
さも、分かったふうなことを、言って、いつも、本質から外れている楽山です。「理解できる」・・楽山は、何も理解していません。聖書に書いていることを、幼稚な先入観だけで曲解して、自らは、"霊が分かるっぽい"自覚で慢心している楽山は、結局、関わる誰からも憎まれてゆくでしょう。
 
こんなに外れてしまう人というのは、珍しいと思います。キリスト信仰に対して、恐ろしい怨念しか持っていません。それをごまかすために、臭い丁寧語の、曖昧ボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で書いてきます。人間の幸運とは、楽山のようなものに出会わないことだと思えてきます。
 

*まとめ
三浦綾子の本は、以前は好んで読んでいたのだが、近頃は信仰心が眩しすぎて読み難いと感じるようになってきている。今回、本書を読んで、その感じはさらに強まった。

 
「信仰心が眩しすぎて」・・真っ赤な嘘です。今まで、好きなようにキリスト信仰を侮辱しながら、平気で、こういうことを書いてくるから、楽山は、サイコパスと判断するしかないのです。それにしても、次から次に、批判される根拠を補足して増してくるとは、無自覚の怖さです。
 

ただそれでも著者の真摯さには感動するし、自分もできるだけ見習いたいと思う。著者のものの見方、考え方にも学ぶことは多い。信仰、それから日本観や歴史認識などについては必ずしも賛成できることばかりではないものの、それでもその人格は尊敬したい方である。

 
「学ぶことは多い」と言いながら、信仰を侮辱するネタに使っている楽山です。楽山の丁寧語は、全くのペテンの手段に過ぎません。これほど底意地の悪い悪質な人間は珍しいです。「それでも」「尊敬」を表す根拠を、楽山は、全く書いていません。楽山の、やんわりは、大方、侮辱です。
 
 
楽山は、次のようなことを言われるべきであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 (マタイ7:23、新約聖書)
 
人類の敵は、悪ではありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
 
          
                            婉曲の悪魔性
 
 
(2021年11月28日)
 
 
 
  己
 
あるとき悪魔であり鬼であり
しばしば疫病神(やくびょうがみ)であり
畜生類であり冷血動物であり
虫でありバグであり
生まれない方がよかったものであり
 
近寄ろうとすればするほど
長くなる距離があり
触れようとすればするほど
高く厚くなる壁があり
逆に近寄るものは次々に裏切られ
加わる集(つど)いは中止され
いつの間にか約束事は破棄され
 
いつからか
交(まじ)わるのに向いていない
生きるためのセンスがない
と呟(つぶや)くようになり
さらに卑小になって
呟くのも一人だけ
この世でただ一人だけ

と壁を作り堀(ほり)を作り
測れぬ距離を隔てて
これでよいか
これでよいか
と気づけば崩れる壁の外にいて
水を入れ忘れた堀の中に
落ちて雨を待っている
水を流してくれ
水に流してくれ
 
 
  ある一日の告白
 
神様が一日無事に生かしてくれた
手を組み跪(ひざまず)いて
感謝すればよいのか
悪魔が一日無駄に殺してくれた
拳を握り胸を打ち
悔(くや)しがればいいのか
 
お前ではないか
一日を生きたのも
一日を殺したのも
充分に生きれなかったのも
充分に死ねなかったのも
お前自身ではないか
 
脅(おび)えさせるものが来る
底なしの闇から現れて
すぐそこまでやって来ている
根こそぎ掴(つか)み取ろうとする
底なしの臓腑へ落とそうとする
 
首の骨を潰す
脆(もろ)くなった首を吸い込む
首が伸びてゆく気が遠くなる
ぎしぎしと何処かで音がする
遠ざかる
灯がちらつく
最期に呟く
夢のようでした
 
声にならない
フッと蝋燭(ろうそく)が消える
消すのは作ったものだ
脅えるお前を追いかけて止まない
お前自身が生み出したものだ
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。自分を見ないで人のばかり言ってきた楽山の、人間離れの悪と罪と偽善です。だんだん、露骨な筆致と、ごまかしの筆致が錯綜するような楽山です。
 
 
 
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