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上杉謙信にゆかりのある城

「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信は武田信玄の最大のライバルと言われた人物としても知られています。

春日山城(新潟県上越市)

春日山城は南北朝時代、上杉氏による築城です。

上杉謙信はこの城で1530年1月21日に生まれ、父が長尾為景、母を虎御前とし、庚虎年に生まれたため、幼名を「虎千代」。元服し「景虎」としました。

1570年、長尾為景が上杉房能を追放した後、晴景・景虎(上杉謙信)・景勝4代の居城として栄えますが、景勝が会津へ渡ると次に入った掘氏は直江津港近くに福島城を築き、廃城となりました。

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栃尾城(新潟県長岡市)

標高227mとまるで鶴が羽を広げたような形の山に栃尾城は建っていました。そのため、別名は「鶴翼城」。

元は本城氏の城でしたが、父・長尾為景の命で上杉謙信が中越の鎮めに幼年から青年期までを過ごします。

1554年の「栃尾城の戦い」で、初陣を飾る14歳の景虎(謙信)は見事な策で勝利を導いています。

謀反を起こし、栃尾城にまで攻めてきた越後の豪族を相手に栃尾城の兵を2手に分け、1隊は敵の背後から1隊は本隊となり、城を出て一気に攻めて勝利したと伝わるものです。

七尾城(石川県七尾市)

七尾城は能登畠山氏が戦国時代に築城しています。

「七尾城の戦い」では上杉謙信が1年かけて落としたとされる堅固な城です。

合戦のきっかけは天下を手中に治めた織田信長と石山本願寺の対立から始まります。

石山本願寺を救うため、上杉謙信は京都に向かいます。

その途中で1576年5月に謙信は越中を平定し、次いで能登へ向かいます。

七尾城の畠山氏は、上杉と織田の両側から味方につくよう言われますが、悩んだあげく織田信長につきました。

そのため七尾城は上杉方との戦を避けられなくなります。

1576年11月(第一次能登出兵)、加賀・越中から攻める謙信は、石動山(いするぎやま)に城を築きますが、留守中に関東が不安定な情勢に陥ったことから一度撤退し、向かう先を関東に変えて出兵します。

同じ年の7月に謙信は再び七尾城を攻めますが、なかなか落とすことが出来ません。

七尾城の城内は長い戦で疫病が流行し、食料も底をつきかけていましたが、何とか持ち堪えていたのです。

しかし、遊佐続光の寝返りにより、七尾城には上杉勢が雪崩れこみ、城は攻め落とされました。

厩橋城※前橋城(群馬県前橋市)

利根川氾濫後、1534年に既にあった三の丸を修復し、厩橋城(まやばしじょう)が築かれています。

世を治めるに重要な場所に建つことから、しばしば上杉謙信と小田原北条家の争奪戦に巻き込まれていました。

1560年に長尾景虎(謙信)が城を攻略しますが、3年後には小田原北条・武田連合軍に攻められ落城。

しかし、再び上杉氏が奪い返し、上杉家の重臣北条高広(きたじょうたかひろ・小田原北条氏とは無関係)を城主として置きます。

ですが、ここにきて北条高広が小田原の北条氏に寝返ったのです。

そこで上杉謙信は甲斐の武田に備えるため、北条氏と「越後相同盟」を結び、城は上杉家所有に。

こんな苦労がありながらも謙信が亡くなると1579年、武田勝頼率いる武田家に降伏することになります。

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沼田城(群馬県沼田市)

沼田家の拠点となる沼田城は、1532年に沼田顕泰が築城しました。

この地は越後から関東へ進むための三国峠越えのルートにあたり、戦国の世には要所となっていた場所です。

沼田顕泰は北条氏に従っていましたが、1560年に関東へ兵を進める長尾景虎(謙信)に降伏します。

後に沼田氏のお家騒動が起きると沼田顕泰は、会津へ逃亡して城は上杉氏のものになりました。

城主には重臣の本城秀綱を置きましたが、謙信が亡くなると上杉家の家督争い「御館の乱」が起こり、隙をついた北条氏政に三万の兵を持って攻められてしまいました。

小田原城(神奈川県小田原市)

小田原城は築城年代がはっきり分からず、15世紀末に駿河大森憲頼の城(現城ではなく花岳)を奪った伊勢宗端(北条早雲)が整備し、小田原進出に備えたとされています。

北条氏5代100年の居城です。「小田原城の戦い」では、上杉謙信と長尾連行軍が落とせなかった難攻不落の城として名を馳せました。

1546年に行われた「河越城の戦い」で敗れた上杉憲政が謙信を頼って越後にやってきました。

謙信は北条氏討伐のため、1560年8月に8千の兵を引き連れ越後を出陣。沼田城・岩下城・厩橋城らの支城を攻めながら小田原城へ向かいました。

対する北条氏康は籠っていた松山城から小田原城へと引き返し、籠城します。

1561年には小田原周囲にある城を破竹の勢いで落とした上杉軍の兵は10万にのぼりました。

しかし、長期に渡る戦では反旗を翻すものや食料難などが加わり、次第に士気も落ち始めていきます。

北条氏康が武田氏や今川氏に援軍要請を出したこともあり、結果的に上杉謙信は小田原城を攻め落とせずにこの地を去りました。

その後、謙信は甲斐の武田信玄を倒すべく「川中島の合戦」に赴き、小田原城を攻めることはなかったと伝わります。

滝山城(東京都八王子市)

滝山城を築いた大石定重は、木曽義仲を祖とする山内上杉家の重臣にあたります。

定重の息子・定久は北条氏康の子・氏照を娘婿に迎え、滝山城は実質北条家の城となりました。

そんな折、関東では北条氏康と足利・上杉連行軍の戦いが繰り広げられますが、1546年の北条氏康による「河越夜戦」で足利・上杉連行軍は大敗してしまいます。

後に追いやられていた上杉憲政が越後の上杉謙信を頼り、謙信は小田原城の北条攻めに立ち上がります。

そして1552年に謙信は小田原城へ向かい出陣。7月7日に滝山城を攻め落としました。

滝山城は広大な山を利用した城のため、逆に守りきることが出来ないとして八王子城へと移されています。

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