Black Lives Matter 2020年版のムーブメントから2年目にデモという文化について考える。

週末なにしてる?デモ行かない?

 

ウィーンで暮らしてから、週末の予定にデモを提案されることがある。

日本でも代々木公園の近くに住んでいた時期があったので、週末にデモを見かけることがあったけれど、ウィーンでのデモの頻繁さは比にならないと思う。夏の週末にデモがよく開催される経路とバッティングする路線電車の最寄に住んでいた時なんかは、日曜日の昼間は遅延が当たり前だった。

 

参加者は特に、若い人が多い。

というかコロナ関係以外の、こういうカテゴリーと環境問題のデモはほぼ若い人で埋め尽くされている。

 

私はデモをすることには大いに賛成だし、そもそも賛成も何も権利なので思う存分行使するべきだと思っている。

 

けれど、私自身はデモにはあまり向いていない。

大きな声を出すのに抵抗があるし、そもそも大きな声を出している人が苦手なので、デモという場はなかなかに恐怖感がある。さらにこれはウィーンだけかもしれないが、デモに参加する人のマナーがあまり好きではない。大抵デモの後にはゴミ箱が溢れかえっている。それがたとえ環境問題を訴えるものだとしても。環境問題を訴えながら、ペットボトルを消費する神経がわたしにはよくわからない。おっと辛口に…

 

ただ、ウィーンに暮らしていて、いよいよコロナも収まった感が満載になると、またこの「週末、デモ行かない?」という誘いが復活するのだ。

 

私のルームメイトの一人は人種差別の被害にあった人々を助ける機関で働いている法律家なのだけれど、今回はいよいよ彼女に誘われたのだ。いやぁ…参加したことのないデモだしな…ノリで一回だけ行くのも…と気が引けたものの、人が集まらないことを心配していて、なんだか断る理由がなく、参加してみた。

 

結論から言うと、やっぱり大声を上げるのに抵抗があって、途中で緩やかに離脱してしまった。こればっかりはトラウマみたいなものなので、もう仕方ない気がする。余談だが、声が大きいというだけで、私は中々その人と仲良くなれない、仲良くなれたとしても絶対に一緒には暮らせない。大声で喧嘩する両親を見てきたのが結構トラウマで、とりあえず怖い…が最初にきてしまう。まぁ両親は若かったので、それはしかたないのだ。

 

話を戻して…

ただ、ちょっと驚いた。というのも2020年のアメリカで起きた事件から再ムーブメントになったBlack Lives Matterのデモ(このムーブメントの最初は2013年の別の事件)に参加したのだけれど、人がとても少なかった。

 

欧米圏のニュースで日本では考えられないくらいの人数が集まるデモを目にすることがあると思う。最近だとウクライナの戦争に関して大規模なデモがあった。

 

でも継続しているものは少ない、というのが実際に長く暮らしている私の印象だ。

もちろん継続して問題と向き合っている人々がデモを続けているので、デモをするという機会自体は継続している。今日も開始前の1時間、心に迫るような演説を聞いた。

 

ただ、2年前に、これは黙ってられない!と息巻いて参加していた友人は一人も来ていなかったし、規模で言えば10分の1くらいだった。デモも消費されるのだという現実を目の当たりにした。これは人種差別を取り扱うアカデミアでも言えることだ。大学で話をしたその専門家たる先生方の大半は、だがしかし、それをテーマとして扱っているが感情が結びついているわけではない感じの人が多かった。そしてわたしにも感情を捨てるように言ってくる人もいた。

 

私はひねくれているので、ものごとの、こういうことについて、つい考えてしまう。

 

今回のわたしもフラッとデモに参加したので当事者だけれど、こういうデモの文化は難しいなと思う。特に若い人が中心のムーブメントはSNSなどで上手に宣伝していて、消費文化の一端となり得るので、難しい。

 

少なくとも、私は博士論文を書くのであれば血の通った文を書く人にお世話になりたいし、自分がなんかそれを利用する人になってしまわないよう祈るばかりである。

 

ともかく、大きな声を出せる人は大きな声をだして、わたしのように違う方法が合う人はそれをもって何か行動するしかない。

 

そんなことを考えた炎天下の帰り道。私はとりあえず、募金をすることで今日参加できなかったことをうやむやにした。大声上げないデモなら参加できるんだけどな…って効果ないんだろうか…