名前で呼んでほしいだけ。

もう今年もあと数日、でもこちらはクリスマスの数日が過ぎればお正月なるものはなく、お仕事をして、週末に大晦日があって、1月2日から通常営業です。

 

家族が集まるような祝日に一人、家でのんびりするのにも慣れました。
毎年クリスマスに「うちの実家にきなよ!」という優しいお誘いがどこかから届くのですが、どうも信仰していない祝祭に参加するのは気が引けて。クリスマスで人々が浮足立ってる感じは見ていて微笑ましいです。そっと見守りたい。

 

ドイツで仕事を始めて気が付いたら4か月が過ぎようとしていて、
新しい家もルームメイトとも心地よく生活しています。いまだに銀行の手続きが完了していなかったり(手紙待ち)、書類上のアイデンティティ構築にはまだ時間がかかりそうですが、外見的なことでいえば概ね順調です。

 

引っ越しをして、生活の質自体は大幅に改善されました。日当たりのよい、広い部屋です。気の合う同世代のルームメイトとも仲良くやっていて、知らない土地で一人という状況は改善されつつあります。仕事も慣れてきて、肩の力を抜いて向き合えているし、仕事としての割り切りもできているので、嫌なことがあっても家に帰る道すがらに「Ach! egal!」となります。笑。ただ唯一、どうでもいいわ!と流せないことがあります。

 

たとえば、一昨日もおぉ、ホワイトウォッシュ!という場面に居合わせてしまいました。

 

ドイツ語圏の芸術・演劇業界は、最近積極的に第三者委員会的なものを制作の過程に取り入れるのがトレンドです。差別問題のスペシャリストがワークショップをしたり、フィードバッグが権威的な構造に左右されないための方法を持ち込んだり。それ自体はとても前向きでいい取り組みだと思うのですが、そこに顔を出す、だいたいが50代以上の白人男性の超無意識下のホワイトウォッシュなご意見頂戴することになるそのダブルスタンダード何とかしてほしいと真顔で白目むいちゃいます。

 

新しい方法論を持ち込んでも、そこに参加する人の中に根本的な問題を理解していない人がいると、セーフスペース作ったはずが、貰い事故みたいになっちゃって、開いた口がふさがりません。一昨日も、今作品をつくっているチームでそんな場面に遭遇して、そのお偉いさんが去った瞬間、私と同世代のみんなが「WTFxxx!」どういうことなん?と。

 

それと同時に、ウィーンもたいがい保守的だったが、もはや西欧社会のこの世代以上の人達と対峙し続ける=差別を浴び続ける、なことに気が付いて、それにあらがう自分の人生の時間がもったいないような気さえしてきました。が当事者がいる話なので、見ないふりしたいわけじゃない。

 

半年前は、博士論文でそんな構造に物申す道筋だったけれど、正義に人生を捧げる覚悟がなく…。そして実際似たフィールドで博士論文中盤の友達の鬱具合にも共感するところがあって…ちょっと逃げてきた…のに結局実社会でリアルな問題として直面するなら、もはやどっちもどっち…。

 

ただ、幸いなことに、同世代からさらに若い人たちとはこの辺の感覚はかなり簡単に共有できることが多いです。そもそも、そういうバックグラウンドと無縁な人でも最低限「わざわざ言わなければいいこと」として理解できれば、こういう問題は鳴りを潜めるはずなのですが…。

 

だからこそ、なんでこの人はわからんのかね?という疑問が消えないんですけどね。まぁ男性に限らず、私、今訴えたら勝てるなみたいな日常的な差別は後を絶ちません。

 

先日も仕事で入っている俳優の人がノンバイナリーだからEr とかSieじゃなくて、カジュアルに名前で呼んでほしいと各部署に説明しに行って「あぁややこしい」と笑われたりもしました。全然ややこしくないよ…名前があるじゃん…とびっくりしましたが、冗談言いに来たわけじゃないのよ、よろしくね!と立ち去りました。それでも実際にその人を前にとんでもないこと言ったりしないか毎回ハラハラします。

 

ここで学業や仕事をしていて、特に文学に直結した仕事をしていると、彼らの無意識下にどれだけキリスト教文化が根付いているのかというのを思い知らされます。神様なる比喩があれば、一ミリの議論もなくそれはキリストだろうとなるそのストレートな思考回路とそれ以外は外の人の話というすみ分けに、その文化なる巨大なベールをひしひしと感じます。ドイツ以外のルーツをもつアーティストはやっぱりどこかEckeからやってきた利用できるものという発想を堂々と口にするお偉いさんに度肝抜かれます。

ほっ本気ですか…?と。

 

そういう無意識に直面する文化の圧倒的な違いはいつまでたっても扱いが難しいもので。特に宗教感における何が世界の中心としているかについて、改めて考える人が少ないことも理解しています。西洋のそういう歴史が今も生活に根差していて、文化として守られていることに何の異論もありません。

 

ただ、特にそういう社会モラルや人類主体の何かを扱った作品に携わっているときの「キリストは世界の中心」という波にのまれてる感に体力もっていかれます。宗教観の違う国でそのボーダーのど真ん中で仕事する難しさを痛感していますが、学生の頃からこうなるだろうとも思っていました。

 

私に限らず、マルチカルチャーの世界観の中でどのようにフラットで安全なスペースを作るのかというのはいまだに発展途上なのかもしれません。これだけ差別問題に真っ向から取り組んでいる場で働いていてもダブルスタンダードが曲がり通るわけですから。これはたぶん日本に帰っても逃れられない問題なような気さえしています。

 

たぶん、順調な日々が生活におけるQOLと直結していない気がしてなんだか落ち着かないのもその辺りと関係があります。

 

年末になんでこんなネガティブなこと書いているのか…苦笑。

 

無視はできないが、全部に真っ向から対応する体力もない、でも見ないふりは出来ない。そもそも私にもガンガン降りかかってくる差別という名の火の粉。ただ、目の前で日々起こることへのスタンスを決めかねている、そんな感じです。

 

それでも落ち着いたなと思うのは、私自身、今はすこし俯瞰したところでぼんやり日々を健康に生きていること。

 

 

 

とりあえず、新年を迎える前に銀行のカードが届きますように。
願いことが急に現実的なのですが。笑。

今年はすこぶる大変だったので、来年はとりあえず書類上の私を処理しきり、本業に本腰を入れられることを目標にしたいと思います。

 

なんとなく、ヨーロッパ生活もあと数年な気がしているので。後悔のない日々になりますように。みなさまも身体に気をつけて良いお年をお迎えください!