あれから1年。

今週はベルリンに出張中の同僚の代わりに、担当外のプロジェクトを進めています。

アーティストはウクライナから。今もウクライナ在住で、電車でドイツまでプロジェクトの為に往復する計画です。

 

ドイツはよくも悪くも、といいますか芸術分野の予算が他の国に比べて潤沢です。
なんといいますか、私費ではなく公費で賄われているので、どかんとアメリカのようなラグジュアリーなプロジェクトはありませんが、衛生状況が良いといった感じに資金があります。私費ではないので、鶴の一声で予算が変動することもなければ、逆にゴマをすったところでないものはない、そんな感じです。

 

私が働いている現在の組織では、毎年助成金で作家を一人ドイツに招聘できます。今年はウクライナ出身の作家、来年はイラン出身の作家に決まっています。明らかに社会問題的な背景からの選出ですが、胸をはってそれでいいという判断です。助成金なるものが届かないような危機的状況下で活動を続けるアーティストを支援する余力があるならそうすべきだからです。その出所が公費ならなおさら。

 

さて、そんなわけで、昨日、今日と一日中ウクライナチームとプロジェクトの準備をしていました。ランチに社食に行った時のこと、他の部門のスタッフが私を見つけて同席になりました。一人はカザフスタン出身で、ロシア語が母国語。そしてさらにロシア出身の同僚も。

 

ウクライナからのアーティストと三人がロシア語で話し始めましたが、単刀直入にロシア人の同僚に「ロシアを支援しているなら、一緒のテーブルには座れない」と言いました。ピリッと凍り付きましたが、同僚も「私はかなり早くにアメリカへ行って学業をして、いまドイツにいる。こんなに恥ずかしいことはないと思うほど今の状況が悲しい」と言いました。それでも彼女の家族はロシアで暮らしているので表立って何かすることは出来ないとも言いました。

 

そこからは、私を交えて英語でたわいもない話をしました。
ランチの後で、次の会議に向かう道すがら、彼女に「あんなことを聞いて申し訳ない。でも友達が沢山亡くなっていて、今も第一線に親友がいる。どうしても何も聞かないではいられない」と言いました。家族にはこの状況でドイツと行き来するなんて、と批判されたが、他でもない戦場にいる親友に背中を押されて契約書にサインしたと言っていました。私は、「彼女はもうすでにこの1年、ロシア人であることでそういう質問に耐えてきていると思うし、それは本当に気の毒で、できればナショナリティではない所で付き合ってあげて欲しいと思う。でも戦争があなたの日常になってしまった以上、あなたに口を閉ざせとは誰も言えない。聞きたいことがあれば聞くしかないし、話したくないと相手が思えばそう答えると思う」と答えました。

 

このプロジェクトはもちろん、現在の状況を扱ったものです。

夕方彼女と別れて一人でリサーチに行った先でも、プロジェクトの概要を説明する必要があって説明したら、その担当者の知人のウクライナ人の話になりました。戦争になった2週間後に子供を連れてウクライナに帰り、最前線にいるんだと軍服を着た女性の写真を見せてくれました。今も必要なものを調達しに、ときどきドイツの彼のところに来るらしく、彼もウクライナや、今はトルコに支援物資を寄付する手伝いを仕事の傍らしていました。

 

アトリエから電車に揺られて50分、ぼんやりと外を眺めながら、やっぱり身近なことなんだな。現実なんだなという思いが反芻しました。それと同時に、言いようのない恐怖を感じました。私も戦争の中にいるのだと。

 

去年の秋からこの作家がプロジェクトの為に書いてる作品を第一項からずっと読んでいます。時々ものすごく生々しくなったり、急に抽象的になったりと、彼女自身の身体の移動がなにかそういうものを呼び起こしているのではないかと感じています。ウクライナの自宅で書くのと、ベルリンで書くのでは、吐き出す言葉が同じなわけがないのでしょう。書きたくて書いているのではなく、書かなければならないという哀しみが溢れています。

かなり政治的なことを扱わざる負えなくなったことを、本人たちが一番苦しんでいます。こんなことがなければ、以前のように自分の作家性に合った作品を今も書いて作っていたはずですから。

 

私は来週には自分の担当のプロジェクトが始まるので、彼女たちとは今週いっぱいですが、せめてここでは安心して仕事に集中できるといいなと思います。

 

私が落ち込んでも、なにも、なにも。