【古墳】孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵

「孝徳天皇両(こうとくてんのうりょう)」は、大阪府南河内郡太子町山田にある古墳です。宮内庁により、大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ)として第36代孝徳天皇の陵に治定されている直径約32mの円墳で、考古学的な遺跡名としては「山田上ノ山古墳」と呼ばれています。

世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の古市古墳群からは石川を挟んで南東に位置する二上山の麓には、複数の天皇陵を含む磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)がありますが、当古墳はその磯長谷古墳群を構成する古墳の1つとなっています。孝徳天皇陵の周辺には、敏達天皇陵用明天皇陵、推古天皇陵、聖徳太子墓(叡福寺内)の5つの天皇・皇族の陵墓があり、これらは梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」と呼ばれ、所在地の磯長谷は「王陵の谷」とも呼ばれています。

孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)は日本最古の官道とされる竹内街道を見下ろす位置にあり、周囲は木々の生い茂った山の中、といった印象です。関連出土品としては、かつて海獣葡萄鏡が当古墳の陪塚から出土したとされていますが、その出土地の詳細は不明です。実際の被葬者は明らかではなく、約1.5km北西の同じ太子町内にある太平塚古墳を孝徳天皇の真陵とする説もあります。


孝徳天皇は第30代敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王の長男に当たり、母は第29代欽明天皇の孫で桜井皇子の王女である吉備姫王です。姉である皇極天皇の4年(645年)6月12日 には、蘇我氏の専横を憂う中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺し、 翌日には入鹿の父である蝦夷が自宅に火を放ち自殺して蘇我氏(蘇我宗家)が滅んだ「乙巳の変(いっしのへん)」が起こります。第36代天皇としての即位は日本史上初の譲位とされ、日本史上初となる元号「大化」を立てました。その後、中大兄皇子や中臣鎌子(藤原鎌足)を登用し大化の改新と呼ばれる国政改革を行いました(主に中臣鎌足が主導したといわれます)。

●孝徳天皇陵について詳しくは →https://kininarugou.blogspot.com/2021/10/kotokutennoryokofun.html


アクセス

公共交通機関では、近鉄南大阪線「上ノ太子」駅から金剛バスに乗り「孝徳天皇陵前」バス停(太子町コミュニティバスのバス停もあり)で下車。国道166号を100mほど東に進み、最初の信号のある交差点を左折して100m少々北に進みます。川を渡り「餅屋橋」と刻まれた道標がある丁字路を右折すると20mほど先に孝徳天皇陵入口があります。

車の場合は、国道166号の「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」から道の駅の奥(北)に進んで飛鳥川に架かる飛鳥橋を渡り、橋を渡った先が竹内街道なので左の大阪方面(西)に向かいます。その後約350m坂を下ると右手に孝徳天皇陵入口が見えて来ます。

2021年9月撮影

孝徳天皇陵(太子町)


孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)

孝徳天皇陵(太子町)



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