明治維新時に東北諸藩が結成し「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。

 

当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

本日は、「福島城」(福島県福島市)をお届けします。

 

土塁(県庁舎と福大職員会館等を取り囲む)

 

江戸時代になり、関東と東北の間には、多くの譜代大名のお城が配備されました。というのも、「江戸城」がいざという時に北側から容易に攻め込まれないような、お城配置にする為です。

 

「福島城」は、古くは「伊達家」家臣のお城でしたが、「豊臣秀吉」の奥州仕置で「蒲生氏郷」領となります。その後、「上杉景勝」領となり「本庄繁長」が城主として管理しますが、関ケ原の戦いで西軍だった「景勝」は減封されて米沢へ移動した後も「本庄家」が城代として管理を行います。

 

その後幕府は、「福島城」を天領としますが、1679年に「本多忠国」が15万石で入り、更に「堀田家」所領を経て1701年には「板倉重寛」が3万石で入り幕末・維新まで「板倉家」のお城となります。

 

幕末の戊辰戦争の際には、「奥羽越列藩同盟」に参加して新政府軍に対峙しますが、「二本松城」が落城したため藩主は「米沢城」へ逃げて、新政府軍にお城を明け渡しました。

 

福島城」は、「本丸」「二の丸」「三の丸」が郭内(内曲輪)と言われ、「本丸」には「本丸御殿」を中心に東側に「役所」や「弾薬庫」が、南側には「庭園」が、南西側には「馬場」や「武器庫」が置かれました。通常は、藩主居住空間に「弾薬庫」や「武器庫」等の危険物は置かない場合が多いですが、当城は例外的な配置でした。

 

現在は、県庁の敷地内には「紅葉山公園」として御殿庭園の遺構が残っています。また、「二の丸」跡に建つ福島県庁前の植え込みの中に「福島城址」碑が立っています。

 

御殿庭園の名残り「紅葉山公園」

御殿庭園の名残り「紅葉山公園」

「福島城址」石碑(旧二の丸、現福島県庁)

 

「内曲輪」には、「大手門」「北門」「東門」「西門」が置かれ、特に「大手門」は「内曲輪」の北側に構え、二階「櫓門」の立派な門だったようです。

 

現在の「大手門」跡は、県庁正面前を通る道路沿いの「福島警察署」辺りで、「大手門跡」の看板が立ちます。

 

「大手門」跡付近

 

「内曲輪」の周囲は「内堀」が取巻き、「外曲輪」の北から西側にかけて「侍屋敷」や「練兵所」「兵学所」が、東側には「米役所」「材木蔵」が建ち並んでいて「外曲輪」の周囲を「外堀」が囲んでいました。

 

福島藩の「年貢御用蔵」付近

 

現在の城跡は、「福島県庁」を始め「公共機関」やビルが建ち並んでいますが、その建物群の中を避けるように「土塁」の一部が残っています。

土塁(市役所敷地内)

 

南側を流れる「阿武隈川」は、当城の自然の要害として機能し、江戸時代には「米蔵」と「河岸」があった「御倉(おぐら)町」に「船着場」も設けられ物流の要所としても利用されていました。

 

阿武隈川船着場(米蔵と河岸があった御倉町)

城下の街用水の末流

 

更にその周辺は、元「福島藩」や「米沢藩」の「米蔵」が並んでいたエリアで、現在は「旧日銀福島支店邸宅(昭和2年築)」と「庭園」が建っていて、茶会などに使用されています。

 

米沢藩の年貢米蔵(現 柳町の高野肥料店)

旧日銀福島支店邸宅(昭和2年築)と庭園 

旧日銀福島支店邸宅(昭和2年築)と庭園 

 

次回ブログでは、「仙台城」をお届けします。

 

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