「天守台シリーズ」第57弾は、「三木城」です。
現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。
「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。
「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。
「三木城」(兵庫県三木市)は、「別所家」のお城でしたが、一時「浦上村宗」によって落城し、その後直ぐに「別所就治」が奪還します。その後も「尼子晴久」等から攻撃を加えられますが持ちこたえます。
「別所長治」の代に「織田信長」に臣従することを決めるも、「毛利攻め」の際に「毛利方」に寝返り籠城した為、「豊臣秀吉」は22ケ月の間「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを行い、「長治」は自刃して開城します。
「三木合戦」のイラスト(「三木城」入口に掲出されている大看板)
その後「城代」が次々と替わり、その中の「中川秀政」が入城した1585年頃に「天守」が増築されました。
1616年に「小笠原忠真」が領主だった「明石藩」に編入されますが「一国一城の令」で廃城となり資材は「明石城」の建築部材となったそうです。
現在は、「本丸」跡が「上の丸公園」になっていて、その北西に土壇として「天守台」が残っています。
「三木城 本丸」跡の地図(資料館内にて掲出分)
「三木城 天守台」の土壇
「天守台」東下から「本丸」跡北方向を見る
台上には、兵庫県出身の陸軍大将「本庄繁」筆の「別所長治」の辞世の歌碑が立っています。自らの命を差し出して、領民や兵の助命を嘆願した内容になっています。
「三木城 天守台」台上へ
「天守台」上に立つ陸軍大将「本庄繁」筆の「別所長治」の辞世の歌碑
「天守台」の西側は断崖絶壁になっていて、旧湯の山街道沿いの城下町が眼下に見下ろせます。
「天守台」から西端に建つ模擬「土塀」越しに見下ろす
「天守台」の南下には「別所長治騎馬像」が立てられています。
「天守台」の南下に立つ「別所長治騎馬像」
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