天守台シリーズ」第58弾は、「明石城」です。

 

現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。

 

「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いておくケースもありました。

 

「天守台」は、石垣の場合があったり、土塁上に築かれる場合もありましたし、石垣の場合は「野面積み」「打込接」「切込接」等の加工の仕方や積み方があったり、また武者返しや高石垣或いは数段しかない場合など、非常にバリエーションがあって面白いです。

 

 

明石城」(兵庫県明石市は、「大坂の陣」の戦功で明石、三木など10万石を与えられた「小笠原忠真」に、「徳川秀忠」から西国大名に睨みを効かせる目的で明石にお城を築くよう命じられました。

 

1619年に「建部政長」等を普請奉行として派遣し、普請費用も幕府が全面的に負担し、「三木城」「船上(ふなげ)城」「高砂城」等の部材も使用しながら1620年に完成しました。

 

因みに、「小笠原忠真」は、「徳川家康」の曾孫にあたります。1632年「忠真」は移封となりその後は「松平家」「大久保家」「本多家」等の譜代大名が入城し、1682年以降は「越前系松平家」が幕末・維新まで領有します。

 

「天守」は建てられずに、「天守台」だけが五重天守が建てられる規模の大きさで「坤櫓」の後ろに築かれています。

 

本来であれば「天守台」は表に出る場所に積上げますが、敢えて奥まった場所に築いていることから、最初から「天守」を建てるつもりはなく、10万石の格式だけを保つ目的で積上げられたと言われています。ただ睨みを効かす為に、本丸の四隅には三重櫓を建て、二重櫓6基、平櫓10基の大城郭でした。

 

「明石城 天守台」(「本丸」跡北東から)

「明石城 天守台」の「算木積み」と上り口の石段

「明石城 天守台」台上(奥に見えるのが重文「坤櫓」)

「明石城 天守台」台上(かなりの広さ)

 

「天守台」の高さは高くなく、「打込接」で加工された「乱積み」になっています。また、隅石は最高技術水準ではないですが「算木積み」が採り入れています。

 

重文「明石城 坤櫓」と「天守台」(「打込接・乱積み」)

「明石城 天守台」上から見た「重文 坤櫓」

「重文 巽櫓」

 

 

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