本日は、「掛川城(後編)」(静岡県掛川市)で、「上台所」跡や「竹の丸」跡、「掛川古城」跡等をお届けします。
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2日目の1月9日(日)朝、ホテルのバイキングで満腹にして7時30分にチェックアウトを完了、8時45分に「掛川駅北口」から出る「高天神城」へ向かうバスに乗り込むまでの1時間15分間を、朝の「掛川城天守」等の写真撮影と未だ見ていない「上台所」跡、「竹の丸」跡そして「掛川古城」跡を見る為に出かけました。
昨日、薄暮で写りの悪かった「大手門」「番所」を再度写真撮影をしました。もう一度、今度は朝日を浴びた両建造物の写真を掲載します。
復元「大手門」(正面)
復元「大手門」(昨日とは逆方向の南西方向から)
復元「大手門」の立派な鯱
移築現存の「番所」(扉が開けられていました)
移築現存の「番所」(中はこのように殺風景です)
移築現存の「番所」の屋根瓦には「太田家」の家紋「丸に桔梗」が付いています
「蕗の門」跡を探しましたが判らずそのまま「内堀」(蓮池)脇の道を北に進むと、左手に「大日本報徳社」の敷地と多くの歴史を感じる建造物群が並んでいてそこが「下台所」跡のようでした。
「下台所」跡の石垣か?
「大日本報徳社」とは、「二宮金次郎」の報徳思想を伝承する大本山らしく、正門の真正面に構える「大起破風」を持つ玄関とその上に入母屋屋根を持つ二階建ての「大講堂」(重文)は非常に立派な建物です。
「大日本報徳社」の建物群
「下台所」跡の敷地にある「大日本報徳社」の「正門」と「大講堂」(重文)
他にも、この敷地内には「仰徳学寮・事務室」(県指定文化財)、「仰徳記念館」(県指定文化財)等が並んでいますが、当日は、「掛川城茶室」で開催される「王将戦」(「渡辺明王将」対「藤井聡太竜王」戦)が始まることもあって、この場所が報道関係の控室や「大盤解説会会場」となっていて関係者が忙しそうに行き来していました。
「下台所」跡の敷地にある「大日本報徳社」の「仰徳学寮・事務室」(県指定文化財)
「下台所」跡の敷地にある「大日本報徳社」の「仰徳記念館」(県指定文化財)
「下台所」跡の敷地にある「大日本報徳社」の「大講堂」(重文)が「王将戦」の「大盤解説会会場」
「王将戦」(「渡辺明王将」対「藤井聡太竜王」戦)のポスター
通りにも「王将戦」の幟が
そこから、東に少し進んだ所にこんもりとした小山が有りますが、そこが「掛川古城」跡で、坂道を上がっていくと頂上の平坦地にはポツリと色鮮やかな御廟が建っています。
この御廟は、「龍華院大猷院(りゅうげいんたいゆういん)霊屋」(県指定文化財)と言われ、1656年に当時の藩主「北条氏重」が厚く信奉していた将軍「徳川家光」の礼牌を祀るために建てたそうです。その後焼失し、1822年に当時の藩主の「太田資始」が再建したものだそうです。
「掛川古城」跡に建つ「龍華院大猷院霊屋」(県指定文化財)
「龍華院大猷院霊屋」(県指定文化財)
この霊屋が建つ場所が、「掛川古城」の「本曲輪」跡で周囲には「土塁」も見られました。
「掛川古城 本曲輪」跡
「掛川古城 本曲輪」跡周囲の「土塁」
報道陣がウロウロしている界隈の「竹の丸」跡を訪ねました。こちらは、「天守丸」「二の丸御殿」の真裏(北側)の崖下になり、当時は重臣や家臣の屋敷が建ち並んでいた場所でした。
「竹の丸」跡の北東側に残る「土塁」、この下は「乾堀」跡
「竹の丸」跡の北側に残る「土塁」、この下は「乾堀」跡
「竹の丸」跡には立派な和風建築が建っています。これらは江戸時代に葛布問屋だった「松本家」が1903年にこの場所を得てここに本邸宅を築き、その後1920年頃には離れを二階建てにしてステンドグラス入り貴賓室を設けたり、枯山水の回遊式庭園を造園しました。現在に、豪商の屋敷を伝えて市指定文化財に指定されていますが、市民に対して貸室などを提供しています。
旧「松本邸」の塀重門
旧「松本邸」和風建築
旧「松本邸」和風建築
旧「松本邸」の枯山水回遊式庭園
西側の崖下をぐるっと廻って「逆川」沿いに再度「四足門」前まで戻り、「掛川城天守」と別れを告げて「掛川駅」に向かいました。
「本丸」跡西側の崖
「逆川」沿いの「本丸」跡南側
最後に見納めの「四足門」と「天守」
次回のブログでは、「高天神城」をお届けします。
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