新企画の「石・石塁・石垣シリーズ」を展開中ですので、どうぞご覧ください。

 

初回プロローグでピックアップした切口による下記の「分類表」から「①②-(1) 野面積み・乱積み」を使用しているお城の例を「東北地方」から掲載しています。

 

本日は「九州方(肥前)」のお城の中で「野面積み・乱積み」を導入している例をお届けします。

 

九州地方も石が採れる石場が各所にありますので、7世紀後半の「白村江の戦い」後に「唐・新羅」からの攻撃に備えるために、「天智天皇」が命じた築城では、石を積上げる「石塁」を多く採り入れた「古代山城」が九州から大和にかけて築かれました。

 

戦国時代後期になると、九州地方へは「豊臣秀吉」軍による「九州平定」の為の戦がありましたので、築城技術が一層発達することで「石垣」を採り入れたりするようになりました。

 

その後「豊臣政権」が確立され、「秀吉」配下の大名が四国の時と同様に九州各所に配置されたり、旧領主で領土を安堵された大名は「織豊式」の近世城郭化を進めて行き、その過程で石垣技術の採り入れを進んでするようになりましたので、今までの「石塁」からは大きな発展をとげることになります。

 

「石垣」と「石塁」の違いは、簡単に言うと「石垣」は「裏込石」を裏側に入れて排水を良くして「根石」の上から少し傾斜させて「石塁」よりは高く積上げていけますが、「石塁」の場合は「土塁」の前に「石」を真上に積上げるだけで裏側や根石の処理がされず高さも低いということです。ただ、表から見てもなかなか見分けがつかない場合が多いです。

 

ということで、前述のように見分けがつかない場合が多々ありますので、私は一応、「織豊時代」以前に築城された時のモノであろうと思う場合は「石塁」に分類しました。従いまして、これから掲載する「野面積み・乱積み」を採用しているお城の中に無い場合は、「石塁」へ分類している場合があり、今後に掲載しますのでよろしくお願いします。

上でも触れましたが「野面積み・乱積み」は、自然石を殆ど加工することなく積上げる手法ですので、排水性は良いですが高くは積上げることが出来ません。石と石との間は隙間があくので「間詰石(まづめいし)」という小石を間に詰めました。

 

また自然石ですので、大小色々な石を積み上げているので、殆どの場合が見た目が乱雑に積んでいるように見えますので「乱積み」といいます。

 

石を加工をする技術が乏しかった戦国時代の後半(天正年間 1573年~92年)に多く導入されています。

 

石を積むというのは、守るべき敷地の角度を持たす為に行う行為とともに、崩れにくくする効果もありますが、それを施すためには、近くに石が豊富に有ること(石場という)と、積上げる技術を持った石工が多くいる必要があります。

 

従いまして、石の少ない地方や石工がいない地方では、必然的に石垣を積むことが出来ませんでした。

 

 

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「大手口」跡の石垣と「名護屋城碑」>

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「三ノ丸南西櫓台」(右)と「本丸」跡の石垣(左)>

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「水手口」跡の石垣>

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「馬場西側櫓台」跡と「弾正丸」跡の石垣(破却が見られる)>

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「本丸」跡の石垣>

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「伝馬場下」跡の石垣(数か所が破却)>

「名護屋城」(佐賀県唐津市)<「上山里口」跡に通じる「虎口」の石垣」>

「名護屋城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「唐津城」(佐賀県唐津市)<「本丸」から「二の曲輪」に通じる「櫓門」台の石垣>

「唐津城」(佐賀県唐津市)<復興「三の丸辰己櫓台」の石垣>

「唐津城」(佐賀県唐津市)<「三の丸」跡の石垣と「肥後堀」>

「唐津城」(佐賀県唐津市)<「三の丸」跡の石垣>

「唐津城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

 

「佐賀城」(佐賀県佐賀市)<「本丸」跡入口の石垣と「天守台」(奥)>

「佐賀城」(佐賀県佐賀市)<「鯱の門」渡櫓台の石垣>

「佐賀城」の詳細はこちらからご覧ください。↓

 

 

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